報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

タリバーンのアフガニスタン(2)

2005年01月03日 16時20分10秒 | ●タリバンのアフガン
 タリバーンが歴史の中で許された唯一の役割は、「悪魔」として記されることだ。
 ここで、タリバーンの歴史や政策について語るつもりはない。
 ましてや、弁護するつもりなど毛頭ない。
 単に、僕が接したタリバーンと、メディアが伝えるタリバーンの違いについて、ささやかな提示をしたいだけだ。
 「歴史」もまた添加物にまみれた加工食品のひとつにすぎないのだ。

──カブール──

 巨大な廃墟。
 アフガニスタンの首都カブールは、そう呼ぶ以外に適切な言葉がなかった。
 市内の60%が破壊されていると説明された。
 しかも、この完膚なき破壊はアフガニスタン人自身によってもたらされたのだ。
 つまり、対ソビエト戦争が終わった後の、10年にわたるムジャヒディン同士の勢力争いによる内戦によってもたらされた。
 その内戦を終結させたのがタリバーンだ。

 ジャララバッドから首都カブールまでバスで5時間。
 カブールでは、外国人はインターコンチネンタル・ホテルに泊まらなければならない。カブールのバスターミナルに降り立ったものの、インターコンチへ直行する気にはならなかった。試しに、タクシーのドライバーに中級ホテルに行ってもらった。しかし、やはりダメだった。外国の方はインターコンチへ行ってくださいと丁寧に言われた。素直に従うことにした。トラブルは避けた方が懸命だ。
 インターコンチネンタル・ホテルは、カブール郊外の丘の上にそそり立っていた。直撃弾は受けていなかったが、窓ガラスの半分は吹き飛んでいた。内部のメンテナンスは行き届いていた。ただ、客は4、5人しかいなかった。パキスタン人のジャーナリストが1人と、欧米のNGOスタッフが数人だけだった。つまり、カブールには欧米のメディアはいっさいいないということだ。

 巨大ホテルには縁がないので、入った瞬間から居心地が悪かった。
 しかも、料金は一泊60ドル。タックス3ドル。
 僕はドルキャッシュを1000ドルしか用意していなかった。もちろんT/Cの両替などできない。カブールをさっさと出ないとドルがなくなってしまう。
 ホテルのフロント係りは、宿泊の手続きをしながら、当たり前のようにこんなことを言った。
「お客様は、前線には行かれますか?」
 あまりにも当たり前のように訊かれたので、こちらも、あまりにも当たり前のように「はい」と答えてしまった。
 僕は、前線などに行く気はなかった。アフガニスタンに来たのは、「決定的瞬間」のためではない。ましてや、スリルを求めてアフガニスタンにきたわけではない。戦乱の中で生きる「人と生活」を記録したかった。
「はい」と答えてしまったのは、「いいえ」と答えると怪訝な顔をされそうだったからだ。彼は、そのセリフを明らかに言いなれている感じだった。おそらくかつてここに泊まったジャーナリストは、すべて前線に行くことを望んだのだろう。ジャーナリストは、そういうものと彼は思っているのだ。
「前線に行かれるのでしたら、プレスカードが必要になります。それからタクシーのチャーターは一日30ドルですが、前線に行くときは100ドルになります」
 とフロント係は必要最低限の情報をコンパクトにまとめて言った。
 プレスカードか・・・それは欲しい。僕のビザは「エントリービザ」としか書かれていない。そのビザで写真撮影をすることに大きな不安を感じていた。
「プレスカードはどこで取れますか」
 と僕は訊ねた。
「外務省のプレスセンターです」

 翌日、タクシーで外務省に向かった。
 外務省の中は静まり返っていた。ほとんど機能していないといった感じだった。閑職のプレスセンターは非常に分かりづらい場所にあった。プレスセンターも、蛇口の水滴が響くほど静まり返っていた。
 責任者のアミンザイ氏に要件を告げると、まず質問を受けた。アフガニスタンで何を撮りたいのか、どこをまわるのか、といった内容だった。プレスカードの発行は何の問題もなく、その場で作成された。ただ問題は、カブール滞在中は、外務省の付ける通訳を同行すること、移動はタクシーを使用することの二つが義務付けられた。
 通訳料は、一日いくらですかと恐る恐る訊ねると、「一日40、50ドルです」という返事が返ってきた。
 インターコンチが一泊63ドル。外務省の通訳が一日50ドル。タクシーが一日30ドル。合計143ドル。頭がクラクラしてきた。これはとっととカブールを出なくてはならない。
 プレスカードを作成しながら、外務省の職員も当たり前のように、
「前線には行きますか?」
 と訊ねた。
 今回も当たり前のように「ええ」と答えてしまった。

 プレスカードを受け取り、通訳のサレザイ氏を同行し、さっそくタクシーで市内をまわった。サレザイ氏は、その物腰から通訳が仕事ではなく、れっきとした外務省の職員であると思われた。つまり、ちょっとやりにくかった。タクシーの中でサレザイ氏は注意事項を話し始めた。
 撮影は車内からすること。白い日本製のピックアップトラックはタリバーンだから絶対撮影しないこと。白いターバンと黒いターバンの男はタリバーンなので絶対撮影してはならないこと。ざっと、そんなところだった。
 彼は、異常にタリバーンに神経を使っていた。外務省の役人がそんな感じなので、自然と僕にもそれがうつった。外の世界で聞かされていたタリバーンのイメージしか持っていないので、当然僕はタリバーンは写真撮影を極端に嫌っているものと思い込んだ。

 車内からでは、いい写真など撮れるわけがない。それに、ときおりサレザイ氏が「カメラを隠せ、タリバーンの車が来る!」などと言うものだから、まったく撮影に集中できない。隠し撮りみたいなまねは、生に会わない。すぐに、うんざりしはじめた。人と接することができないのも苦痛に近い。さっさとカブールを出よう。

 レストランで昼食のケバブを食べながらサレザイ氏と話をしていると、
「前線には、いつ行く?」
 と訊ねられた。実に気軽な訊ね方だった。
「戦闘はしているのか?」
「いや、ここのところほとんどない」
 前線は、カブール北方60キロほどのチャリカールという地域だった。首都からたった60キロの地点が前線なのだ。
 現れたかと思うと、破竹の勢いでアフガニスタンの90%の地域を制圧したタリバーンも、マスード軍にはかなり苦戦していた。しかし前線は膠着状態で、あまり戦闘は行われていないようだった。
 サレザイ氏は、前線へ行くときの日当は30ドルほど高くなると言った。つまり80ドルだ。前線へ行くときのタクシーのチャーター料が100ドル。これは、ホテルの料金表にちゃんと書かれている。しめて180ドル。はたしてそんな価値があるのかと思ったが、サレザイ氏もタクシーのドライバーも、すでに行く気まんまんだった。
 アフガニスタンの平均年収は約500~900ドルと推定されている。月平均、40~75ドル。一回前線へ行くだけで、最低ひと月は食っていけるのだ。しかも戦闘は行われていない。

 車の中からの撮影にはうんざりしていた。カブールにはもう用はなかった。180ドルも使って、昼寝をしている兵士を撮る気もなかった。
 しかし、翌日、前線へ行くことにした。
 というより、行かざるを得なかったと言った方がいいだろうか。
 ひと月分の収入をたった一日で稼げるチャンスはそうあるものではない。プレスセンターで僕は、「行く」と言ってしまったのだ。通訳もドライバーもすでに、その収入をあてにしてしまっている。前線へ行くと決めたのは、彼らをがっかりさせられなかったからだ。ただ、それだけの話だ。
 昼寝しているタリバーンの兵士を撮るのも悪くはないかもしれない。
 しかし、市内でさえ撮影できないタリバーンを、前線で撮れるのか?