報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

タリバーンのアフガニスタン(1)

2005年01月02日 10時22分08秒 | ●タリバンのアフガン
 この地上からほとんど消滅したタリバーンについて語ることは、もはや何の意味もない行為かも知れない。
 しかし、公平を喫するために、多少なりともここで語ることは、ゆがめられ、元に戻ることのない「歴史」に対するささやかな抵抗くらいにはなるかも知れない。

──プロローグ──

 旅をしながら写真を撮り続けていた僕は、パキスタンのラワールピンディから20分ほどの距離の首都イスラマバッドに向かうバスの中で「報道写真家」になった。遡って考えればそういうことになる。
 日本大使館から身分証明のレターを発行してもらい、タリバーン政権からのビザ発給の許可もおり、はれてアフガニスタンのビザを手にした。
 しかし、そのビザには単に「entry visa」としか書かれていなかった。
 はたして、このビザで写真を撮って、問題にならないだろうか。ビザを申請するとき、アフガニスタン大使館の高官が、「本国の、タリバーン本部は、写真撮影をいたく嫌っております」と言ったくらいなのだから。
 それから滞在期間の欄が(Two)Months/Weeks となっていた。
 本来、Months か Weeks のどちらかを傍線で消すはずだ。
 このままでは、2ヶ月なのか2週間なのか分からない。
 アフガニスタン大使館の窓口の人に、
「これは2ヶ月?、それとも2週間?」
 と訊ねた。すると係りの男性は、パスポートのビザスタンプを見て、
「ツー、マンスウィーク」
 と言った。
 はい、わかりました、と言って大使館を出た。ま、いいか。それほど大きな問題ではない。「entry visa」の方はずっと気がかりだった。もし、アフガニスタンで写真が撮れなかったら、ほとんど意味がない。

 アフガニスタンへ入国したのはビザを取得してからちょうど二週間後のことだった。この二週間何をしていたかと言えば、アフガニスタンで起こるかもしれない様々な事態を想定して、その対策を考えていた。アフガニスタンでは、どのような危険があるだろうか。内戦中の国へ入って、はたして無事に出てこれるのだろうか。ホテルは安全なのか。盗難の危険は。弾丸は飛んでくるのか。タリバーンは、僕をどうあつかうだろうか。不安は尽きなかった。

 メディアによる情報はゼロだった。ただ、アフガニスタンとの国境の街ペシャワールにはアフガニスタン人が大勢いて、様々な仕事についていた。ペシャワールからアフガニスタンまでは、タクシーで数時間の距離だ。ある程度、情報は入ってくるはずだ。もし、ペシャワールの人々が、やめたほうがいいと言えば、それに従うことが最も懸命な判断だ。しかし、そうした忠告は、ペシャワール滞在中いっさい聞かなかった。それでも、僕は慎重だった。

 ただ、手続きだけは進めておいた。
 国境を越えるためにはペシャワールのホーム・セクレタリアットでトライバルエリアへの入域許可書とパキスタンの出国許可書を取らなくてはならない。そして国境へ向かうときは車にポリティカル・エージェントの武装警官を同行しなくてはならない。この護衛の警官には自腹で日当を払う。130ルピー(4ドル)くらいだったと思う。
それから念のため、パキスタンの再入国ビザも取っておいた。アフガニスタンからイランへ抜ける予定をしていたが、途中でトラブルがあればパキスタンへ戻れるようにしておいた。

 この間に、僕は旅行者から150万分の1のアフガニスタンの立派な地図を譲り受けた。その地図は、予約済みだったらしいが、予約者はまだアフガンのビザを取得していなかった。ビザが取れたら、その地図を買うという約束だったらしい。しかしそれよりは、すでにビザを持っている僕に、譲りたいと申し出てくれた。ありがたくお受けした。
 彼は、おまけとして他の旅行者が自作したアフガニスタンの各都市の手書きの地図もくれた。これには、ホテルやレストラン、簡単な街の説明が書き込んであった。この手書きの地図はホテルの情報ノートに貼り付けられたり、旅行者から旅行者へと手渡されたりしてきたものだ。コピーにコピーを重ねた地図は、文字がつぶれて判読できない部分も多かったが、それでもアフガン全土の地図とともにとても心強かった。

 150万分の1の地図を広げると、アフガニスタンの国土のほとんどは山岳地帯だった。南部には砂漠地帯が広がっている。幹線道路は、北部のカブールから南部のカンダハルへ、そしてまた北部のヘラートへと山岳地帯を巻くように延びている。この幹線道路をそのままたどるのが無難だと考えた。山岳部にも、ある程度道路網はあるが、おそらく交通の便はいいとはいえないだろう。

 ペシャワールでグズグズしている間に、僕の体力は知らず知らずのうちにかなり奪われていた。夏のパキスタンは酷暑といっていい。じっとしていても体力を奪われる。アフガニスタンへ行くころには、体重は7キロほど落ちていた。この間の体力の消耗は、大きな誤算だった。かといって、あわててアフガニスタンへ行ってもロクなことはない。

 ビザを取ってから、二週間後にようやく出発の覚悟を決めた。
 国境へは、護衛の武装警官を同行しなければならないので、タクシーでなければならない。何かの用事で乗ったタクシーの運転手がたまたまアフガニスタン人だった。英語はほとんど話せなかったが、人の良さそうなドライバーだったので、国境までの料金を訊ねた。確か500ルピーほどだったと思う。旅行代理店の国境ツアーは、その3倍近くした。英語が話せないのは難点だったが、でもこの人に頼むことにした。そのまま彼のタクシーでポリティカル・エージェントへ行き、翌日アフガニスタンへ出発すると伝えた。
 ホテルに戻り、タクシーのドライバー氏に、時計を示して明日の朝8時にホテルまで来て欲しいと頼んだ。通じているのか不安なので、しつこいほど繰り返した。

 翌日、ホテルの前にザックとカメラバッグを出して待っていると、8時ちょうどにタクシーは来てくれた。旅行者二人が見送ってくれた。ポリティカル・エージェントへ行き、パーミットを提出し、AK-47を持った武装警官を乗せた。
 国境まで2時間くらいだったろうか。美しい景色だった。景色に見とれているうちにカイバル峠を通り過ぎ国境に着いた。
 国境での出国手続きは、武装警官が先にたって案内してくれた。さっさと日当を受け取って早く帰りたい、というようにも見えたが、おかげで手続きはすぐに完了した。国境を越えるためのパーミットを提出し、台帳にサインをし、出国スタンプをもらった。
 出国手続きが済み、護衛の警官に日当を払うと、彼は、あっという間にタクシーに乗って消えていった。チャイくらい飲んでいけばいいのに。

 あたりは国境という雰囲気はまったくなかった。ゲートもなく、舗装していないほこりっぽい道がまっすぐどこまでも続いているだけだった。大勢の人々がぞろぞろ行き来していた。フリーパスといった感じだ。なるほど、これなら変装して国境を越えてやろうという旅行者もいるわけだ。
 しかし、見張りがいないわけではなかった。
 アフガン側に歩いていくと、道路ぎわに座っていた普段着の男が手招きをした。どうやらそこが”国境線”らしい。男は僕のパスポートをチェックすると、「行け」とそっけない仕草をした。
 本当にここが国境なのだろうか。まっすぐな道のどこにもアフガニスタン側のイミグレーションが見当たらなかった。まだ国境ではないのか?どこまで歩けばいいのか・・・。不安になるくらい何もない一直線の道だった。そして、暑い。とにかく暑い。灼熱といっていい。ザックとカメラバックが重い。イミグレはない。

 道端の両替屋で20ドルと600ルピーをアフガニスタンの通貨「アフガニー」に替えた。両替屋にはレンガのような札束が幾つも積み上げられていた。それもそのはず、1ドル=22000アフガニー。最高額紙幣は10000アフガニー札。最高額紙幣が、たった50セントなのだ。
 そこから500メートルくらい歩くと、土壁の古びた物置小屋のような建物がポツンとあった。この一本道にはそれ以外の建物はなかった。小屋を横目で見ながら歩いていると、小屋の前にいた男が手招きした。「イミグレーション?」と訊くと、そうだと言う。こんなにみごとなイミグレーションもそうはない。
 古い小屋の机の上に、すり減った四角いスタンプがあった。確かにイミグレーションのようだ。
 擦り切れたスタンプがパスポートに押された。
「アフガニスタンに入った!」
 という思いは、あまりの暑さの前に掻き消されていた。
 とにかく暑い。

 国境近辺はまったく建物らしいものもなく、不毛の大地が広がっていた。
 イミグレの近くにボロバスが何台か止まっていた。カブールへ直行したかったが、ジャララバッドまでしかなかった。料金はたったの10,000アフガニー。
 ほぼ満員のボロバスには、奥の方にしか席が空いていなかった。通路には荷物がひしめいていた。カメラバッグを足元に置き、ザックを抱きかかえて座った。
 ガラスには強烈な太陽光を避けるためにスモークスクリーンが張られていた。アフガニスタンの大地は、草木一本生えていない。それが妙に美しい。

 ジャララバッドまで、二時間ほどだったと思う。
 オートリキシャのドライバーに安いホテルまで行くようにたのんだが、連れていかれたのは、かなり高そうなところだった。しかし一泊10ドル(ドル払い)。よそを探す気力もないので泊まることにした。
 疲れていたが、ジャララバッドには一泊しかしないのでカメラを持って街に出た。
 水売りの子供がぞろぞろ後ろをついてきた。ふりかえると、彼らはあわてて逃げた。そして小石やスイカのヘタが背中に飛んできた。まわりの大人が叱りつけても、しばらくするとまたスイカが飛んできた。あまりのしつこさに苛々した。ものめずらしさというより、明らかに敵意のようなものを感じた。洋服姿がよほど奇怪に見えたのかも知れない。
 子供の攻撃を避けるため、ケバブ屋に入った。さすがに店の中にまでは入ってはこなかったが、入口からずっと中を見ていた。コーラを飲み、ケバブを食べて子供がいなくなるのを待つしかなかった。ケバブ屋で働く少年が写真を撮ってくれというので、無造作に一枚撮った。しかし、アフガニスタンで撮った写真の中でこれがベストショットだろう。子供にスイカを投げつけられなかったら撮ることのなかった一枚だ。その意味では、感謝するべきだが。

 初日の、子供によるスイカ攻撃で、服装について少し迷った。シャルワルカミーズ(アフガン服)を着たほうが、アフガニスタン人に化けることができる。日本人のような顔立ちの人は、アフガンにはたくさんいるのだ。しかし、あえて目立つ方を選んだ。遠くからでも明らかに外国人と分かる者が、アフガンの人々にどう扱われるのかを知ることができる。
 結果、どの街でも、タリバーンがやってきた。英語を話すタリバーンはほとんどいなかったが、何を言っているかはわかる。「何者か?」である。国籍と職業を告げると、タリバーンの表情は意外にも柔らかくなり、にっこり笑って去っていく。実にあっさりしたものだった。こちらもにっこり笑って別れを告げる。どこでも、同じパターンだった。
 タリバーンは、ジャーナリストを嫌い、写真撮影を極端に嫌うというのが、当時のタリバーンに対する一般的なイメージだった。外からは、そう信じられていた。いや、アフガニスタンの大使館高官ですらそう信じていた。
 しかし、実際はちがった。僕が、カメラをぶら下げ、日本人のジャーナリストだと名乗っても、彼らは何とも思っていなかった。写真撮影を咎められたこともない。僕が接した限りのタリバーンは、皆礼儀正しく紳士的だった。さっぱりして気持ちがいい若者たちと言い換えてもいい。
 別にタリバーンの肩を持つ気はない。事実を言っているまでの話だ。


 911テロ後の、タリバーンに関する報道の99%は捏造だ。
 捏造が言いすぎならば、こう言い換えよう。
 まったくウラも取らずに垂れ流された、こども新聞なみの報道だ。 はっきり言えば、アフガニスタンへ行ったことがなくても簡単に見破れる程度のお粗末な報道だった。それを、世界が信じたのだから、驚異というしかない。
 
 アフガニスタン戦争でも、イラク戦争でも、世界中の大手メディアは、いかさま情報を垂れ流すだけの、こども新聞に変身した。
 こども新聞やこども放送を見ながら、僕は暗澹たる気分になった。世界中のメディアがこれ見よがしの「大本営発表」しか流さなくなった。それが、どんな時代を意味するかは、ここで書く必要もないだろう。
 BBCとアルジャジーラだけは、かなりがんばったが、ついに刀折れ、矢尽きた。
 いまや世界の大手メディアは、コントロールされた情報しか流さないということを知っておくべきだ。メディアが得意満面になって「暴露」や「すっぱ抜き」を行っても、それはあらかじめコントロールされ意図された「暴露」であり「すっぱ抜き」にすぎない。
 報道の自由とは、権力に媚を売る自由さえ含まれている。
 政治家の言葉を、額面どおりに受け取る人はほとんどいないだろう。
 メディアの報道も同じようなものと考えた方がよい。