報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

コンゴ内戦(4)

2005年01月17日 05時17分45秒 | ●コンゴ内戦
──陸の孤島キサンガニ──

 ゴマでの五日間を、手続きのためだけに費やし、もしかすると何もできないままコンゴを出る羽目になるのではないかと心配したが、地元カメラマンのワボ氏のおかげで、すべての準備を整えることができた。
 98年10月6日、コンゴに着いた六日目、反乱軍の航空機でキサンガニ(Kisangani)というコンゴ東北部の都市へ飛ぶことになった。反乱軍の重要な拠点のひとつだ。

 反乱軍の正式名称は、フランス語で「Rassemblement Congolais pour la Democratie;コンゴ民主連合」という。一般的には英語でRally for Democratic Congo(RDC)と呼ばれている。
 しかし、反乱が始まったばかりの当時の新聞では、この名称はまだ見ることはなかった。組織自体はすでに存在したが、新聞でも単に「rebel;反乱軍」としか表記されていなかった。一定の勢力がなければ、メディアは「反政府組織」には「昇格」させない。ここでは、当時のまま「反乱軍」として表記する。

 反乱軍は、一般的には「ツチ族」勢力と認識されているが、実際はコンゴの他民族勢力との共闘だ。ツチ族だけの勢力ではない。僕が同行した反乱軍は、そうしたコンゴ人部隊だった。ただ、兵士の顔立ちを見て、その民族を見分けることは僕には無理だ。しかし、明らかに単一民族で構成されてはいなかった。
 膨大な地下資源の眠るコンゴ東部を支配することは、強大な利権を獲得することを意味する。ウガンダ、ルワンダ、ブルンジが反乱軍をバックアップするのはこのためだ。そうした国の後ろには、大国や多国籍企業がからんでいる。
 同時にコンゴ政府にも、周辺国や大国、多国籍企業がからみ、この内戦を複雑化させ、今日にいたるまで解決していない。解決したときには、コンゴの富がまたしても外国に奪われることを意味するだろう。

 反乱軍のコマンダンテ(指揮官)の指示で、6日の早朝、ゴマの空港へ行った。空港を管轄している軍人は、搭乗を承諾したが、空港のセキュリティがNOと言った。「担当指揮官ヴェッソンから許可を得た。電話で確認してくれ」と伝えたがダメだった。プレスセンターとヴェッソンの書類がないと乗せられない、の一点張りだった。そして軍の車で、市内へ追い返されてしまった。
 すぐにヴェッソンへ電話を入れると、「お前の面倒はテオドールというコマンダンテにまかせてある。ビクトリアホテルへ行って会え」とのことだった。ホテルに行くと、テオドールはとっくに空港へ向かったという。なんてこった。タクシーですぐに空港へ取って返した。
 今度は、タクシーで空港の中まで入り、ドライバーに遠くに見える輸送機のところまで行けと命じた。滑走路をタクシーで走り、輸送機の真横に乗りつけた。かなり強引だが、とろとろ空港を歩いていると、またセキュリティに見つかって押し問答になる。セキュリティに見つかる前に、コマンダンテを捜さなければならない。
 輸送機の横には大勢の兵士が待機していた。コマンダンテ・テオドールもすぐに見つかった。「遅いぞ!」と怒鳴られたが、説明するのもめんどくさい。とにかくこれで乗れるという保証を得た。内戦の取材は楽ではない。

 輸送機は、四発ジェットの巨大な迫力ある機体だった。国連機のように真っ白に塗られていた。ロゴはいっさいない。パイロットやスタッフはすべて白人だった。聞き耳をたてると、話す言葉はどうもロシア語のようだった。ということはロシア製の輸送機だろう。空港内での撮影は禁止されていたので写真はないが、特徴のある機体なので、あとで調べることができた。この輸送機はロシア製のアントノフ-124という機種だった。世界最大の航空機らしい。
 コンゴではそのほかに、反乱軍所有の双発ターボプロップのアントノフ8型輸送機とヤコブレフ40小型ジェットにも乗ったが、いずれもロシア製で、パイロット、整備士ともロシア語を話していた。
 この反乱は、あらかじめロシアのサポートがあったのだろう。でなければ、蜂起してたった一ヶ月で、反乱軍が何機もの航空機を準備できはしないだろう。なんと言ってもコンゴ東部には、金、コバルト、ダイアモンドなどの希少鉱物資源が豊富に眠っている。反乱軍がコンゴ東部を支配すれば、それらの利権が手に入る。

 輸送機に多量の兵糧を積み込んだ後、兵員の搭乗がはじまった。ロシア人の係員が人数を数え、定員に達したところで、有無を言わさずリフトを閉め始めた。持ち上がっていくリフトに兵士が群がり、何人かが飛び乗った。大変な混乱となった。
 僕は乗れないということか・・・
 側面のドアから、テオドールが手招きした。そこにも兵士が群がっていたが、MPが兵士を押しのけ、僕を乗せてくれた。まったく最後まで気が抜けない。
 機内は、100人ほどの兵士で満杯だった。飛び立つまではひどく蒸し暑かった。離陸すると、一部の兵士は窓に張り付いて外を見ていたが、ほとんどの兵士は、緊張しっぱなしだった。機内の温度はすぐに下がったが、冷や汗をながしている兵士もいた。はじめてのフライトなのだろう。民間人も7人ほど乗っていたが、かなりお金を持っていそうな身なりだった。
 巨大な機内を見ていると、航空機というより倉庫が飛んでいるような感じだった。
 ほんの一時間ほどで、キサンガニへ着いた。

 空港から、反乱軍高官の泊まる一泊75ドルもする白亜のホテルに連れて行かれたが、そこは遠慮して、兵士の泊まる安い宿へ行った。
 キサンガニは、内戦でほとんど陸の孤島状態だった。陸路での移動は、ほぼ不可能だった。他の都市からきたコンゴ人ビジネスマンは、この街に閉じ込められた。反乱軍の航空機に乗るにはかなりの金を積まなくてはならない。いや、金を積んでも順番待ちだろう。
 物資や燃料も入ってこないので、反乱軍の車両以外はほとんど車が走っていない。街は静まり返っていた。
 宿の主人は、政府軍によって大勢の市民が殺害されたと訴えた。