報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

タリバーンのアフガニスタン(4)

2005年01月05日 16時08分28秒 | ●タリバンのアフガン
 ソビエトは10万の軍隊で、10年の歳月をかけてもアフガニスタンを制圧できなかった。
 なぜタリバーンはたった2万の兵力で、1年足らずの間に国土の90%を掌握できたのか。

──灼熱の大地──

 たった三日のカブール滞在で、手持ちのドルキャッシュの半分近くを使ってしまった。
 タクシー135ドル。通訳料130ドル。ホテル189ドル。しめて454ドル。残りは546ドルだ。あと一日カブールに滞在すれば、もはや他の都市をまわる余裕はなくなる。
 「前線」から帰ると、通訳のサレザイ氏にカブールを出ることを告げた。サレザイ氏は、地方都市までついてくるつもりでいたようだ。なんと言っても二日で一月分の生活費を稼げるのだ。しかしこちらにはもはや金銭的余裕はない。それに、彼がいるとアフガニスタン市民と接触できない。いいことが何一つないのだ。サレザイ氏には、「もう仕事は終わった。あとは、イランへ抜けるだけだから通訳は必要ない。いろいろとありがとう」とごまかした。サレザイ氏は、いい人物だが、彼のエリート気質がどうしても庶民との接触を遠ざけてしまう。カブールでの三日間で、僕はかなり消化不良をおこしていた。

 翌日、乗り合いタクシーでガズニという街をめざした。カブールから南へ約150キロ、6時間かかった。平均時速25キロだ。幹線道路は、シケの大海のように大きくうねり、スピードが出せない。自然条件によって、できたものではなかった。軍事的な目的で、道路が掘られたのだ。
 走り出すと、窓を閉めるように言われた。そんなバカな。車内はオーブンになってしまうではないか。これはもはや苦行の域だ。途中で少し窓を開けて、外に手を出してみた。外の空気は強力なドライヤーのようだった。なるほど、こんな熱風が車内に吹き込んでは、ガズニに着く前にミイラになってしまう。この地上には、こんな厳しい自然環境があるのかと驚愕してしまった。
 途中にある検問所では、けっこう歓待された。身を焦がす灼熱の太陽の過酷さに比べ、人々のこころはとてもやわらかくやさしかった。

──タリバーンのビンタ──

 次の検問所で、車のオイルを交換するために、しばらく停車した。その間我々乗客は、車の中で待っていた。強い日差しが差し込むので、僕は布を頭にかぶせた。
 近くにいたAK47を持ったタリバーンの兵士が近づいてきて、僕に車から降りるよう指示した。 僕はドアを開け、上半身を車の外に出した。その瞬間、右ほほに力まかせの強烈なビンタを食らった。でかい分厚い手の感触があった。反射的に車の中に身を引いた。何が起こったのかわからない。とにかく殴られたらしい。
 後部座席の乗客があわてて、兵士に向かって「ジャパニ!」「ジョルナリスタ!」と口々に叫んだ。乗客はタリバーンの兵士に、こいつは日本人のジャーナリストだ、と説明してくれたのだ。
 すぐにIDカードを示したが、その兵士は一瞥もくれなかった。目を見開き、口は半開き、右手は虚空を泳いでいた。あれほどうろたえた人を見たことがない。今度は、兵士の方が、何が起こったのかわからないといった感じだった。

 タリバーンの兵士は僕の方を見ながら、何か言おうとしているのだが、まったく声が出ない。彼は、どうやらとんでもないことをしてしまったようだ。
 僕は、あえて長髪、洋服姿で通している以上、別にこのくらいのことで怒る気にはならなかった。アフガニスタンに入る前に旅行者に髪を切ってもらったが、それでもまだ長かった。カブールでサレザイ氏に、髪の毛はもっと短くしたほうがいいよね、と相談したことがあった。しかし、サレザイ氏は「君は、外国人だから関係ない」とそっけなく言った。あれほどタリバーンを避けていたサレザイ氏が、あまりにも当たりまえのように言うので、あえて長髪のまま様子を見ることにした。しかし、はっきり言って僕の身だしなみは、かなり礼を欠いているという自覚があった。
 そんなわけだから怒るどころか、彼に申し訳ないと思った。僕は笑顔で「どうってことないよ」という仕草を何度もした。彼は、タクシーが発つまで、暗鬱な表情をしていた。彼は、別れ際にはなんとか笑顔を作った。彼には、まったく悪いことをした。
 しかし、この件で、案外タリバーンは外国人に気を使っているということが分かった。同時に、アフガニスタン人には、やはり厳しい面があるということも。彼は、僕をアフガニスタン人だと思ったのだ。僕のような顔立ちはアフガニスタンではめずらしくない。

 タクシーが走り出すと、10秒もしないうちに、後ろの乗客は堪え切れずに大爆笑した。僕も緊張が解けて笑った。僕は、自分の髪の毛をつまんで「これか?」と彼らに訊いた。どうも長い髪の毛よりも、僕のヒゲがいけないらしい。僕は精いっぱいヒゲをのばしていたが、僕のヒゲはもともと薄く、まばらにしか生えていなかった。
 タリバーン体制下では、ヒゲを切ることを禁止している。僕のようにまばらなヒゲは大変ふとどきになるようだ。が、これだけは、どうしようもない。いま思えば中途半端に伸ばすより、きれいさっぱり剃った方がよかったのかもしれない。僕の長い頭髪とまばらなヒゲは、どの文化圏でも汚らしい姿だったと思う。
 灼熱のアフガンの大地を走りながら、ドライバーも客も酷暑を忘れて、はしゃいでいた。「お前、痛かったか?」と訊かれた。強烈なビンタだったが、不思議と痛いという感覚はなかった。とにかくびっくりした。殴られるとわかっていたら痛かったかも知れない。

──タリバーン・グッド・ピープル──

 タクシーは目的地のガズニに着くまでのあいだ何度もチャイ休憩を取った。波打つ道路と熱風の中を時速20キロほどで、よろよろ走るのは、ドライバーも客も極度に疲労する。途中チャイ休憩を取らないと体がもたない。アフガンのチャイは熱い緑茶に砂糖を入れて飲む。くそ暑い中で熱いチャイとは拷問のようだが、アフガニスタンには冷たい飲物など存在しなかった。人間の体というのは何にでも慣れるものだ。暑熱の中でも熱いチャイを楽しめるようになった。

 乗客はチャイを飲みながら、さきほどの”ビンタ事件”の一部始終を嬉しそうに、チャイハネの客に話しはじめた。言葉は僕にはさっぱり解らないが、乗客の身振り手振りでだいたい分かる。娯楽のないアフガンでは、恰好の茶飲み話しだろう。チャイハネの客はときに大笑いしながら愉しそうに話を聞いていた。ビンタは強烈だったが、アフガンのみなさんに茶飲み話を提供できてよかったかな、と思った。
 そのチャイハネでタクシーの乗客の話を、愉しそうに聞いていた客は、実は全員タリバーンだった。 
 話しをひとしきり愉しんだあと、タリバーンのひとりは、「”事件”のことは、気を悪くしないでほしい」というようなことを言った。静かで凛々しく素朴な男たちだった。同時に強い信念の持ち主であるとも感じた。しかし、狂信的なところは微塵もない。とにかく彼らは、「静」なのだ。

 タリバーンの一人が、「写真を撮ってくれないか」と控えめに頼んできた。まさかタリバーンの方から撮ってくれと頼まれるとは思わなかった。願ってもない申し出だった。(ギャラリー:アフガニスタン、「タリバーンの兵士」がそのときの写真)

 出発するとき、タリバーンの兵士たちは、タクシーのところまで来て、我々を見送ってくれた。
 写真を撮ったタリバーンが、別れ際、一言一言噛みしめるように言った。
「タリバーン・・・グッド・・・ピープル」

──ガズニ──

 ドライヤーの熱風の中を6時間、やっとガズニに着いた。ガズニではチィハネ(茶店)の二階に泊まった。チィハネには、人が集まるので、アフガニスタンの人々と接するいい場所だった。僕はめずらしがられ、かつとても友好的に迎えられた。
 カブールでの隔絶された生活とは大違いだった。夜遅くまで、気さくな男たちに混じってくつろいだ。
 夜、異様にパリッとした身なりの少年がチャイハネへやってきた。純白のターバンをしていた。大人たちは、少年を指して「タリバーンだよ」と言った。その少年タリバーンは、ひどく大人びていた。不届きな大人たちをボクが監視するのだ、と本気で思っているようだった。子供が背伸びしすぎると、滑稽でもあり醜悪でもある。少年は、大人たちを監視しているつもりのようだったが、大人たちは、それが可笑しくてならないようだった。

 翌日の朝、カンダハールへ向かった。乗り合いタクシー乗り場へ向かって、歩いていると、一人の若者が話しかけてきた。若者は、
「カンダハールは、タリバーンの拠点だぞ。カンダハールへ着いたら、お前はタリバーンに捕まって、その髪の毛を切られるんだぞ。わかってるか」
 というようなことを言った。
 若者は、しばらく僕に付きまとい、「お前は、カンダハルでタリバーンにボウズにされるんだ。わかったか」と繰り返した。
 カブールを出て、まだ一日だったが、すでに様々なタリバーンと出会った。そして僕にはタリバーンは、若者が言うような狼藉を働くようなことはないという確信があった。