報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

写真:アメリカ大使館爆破テロ

2005年01月08日 09時00分00秒 | ●米大使館爆破テロ
【アメリカ大使館:ナイロビ・ケニア】
 1998年8月7日、ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラムのアメリカ大使館が同時爆破テロにあった。
 僕がナイロビに着いて、一週間後のことだった。アフリカを何ヶ月かかけてのんびり撮影しようと思っていた。しかし、いきなり凄惨なテロ現場を撮ることになってしまった。瓦礫の中で押しつぶされる何人もの犠牲を目の当たりにした。これが現実の出来事だとはとても思えなかった。

 正面から見たアメリカ大使館は、とくに大きな損害を受けているようには見えなかった。
 しかし・・・


 【崩壊したビル】
 アメリカ大使館の脇を入ったとき、自分の目を疑った。
 ビルが丸ごと崩壊しているのだ。
 かなり大きな爆弾であることは、大音響と衝撃波でわかったが、
 まさかビルが崩壊するほどの爆発だとは夢にも思わなかった。
 すでに大勢の市民が瓦礫に上り、生存者を捜索していた。


               【爆心地】
 多量の爆薬を積んだピックアップトラックは、この駐車場で自爆した。
 アメリカ大使館の建物はビクともしなかったようだが、内部は完璧に破壊された。
 大使館関係者は12名が犠牲となった。







 【犠牲者】
 発見されるのは、遺体ばかりだった。
 この爆弾テロによるケニア市民の死者は約213人。
 重軽傷者は5000人を越えた。

 軍や警察はいっさい捜索の指揮をとっていなかった。
 信じがたいことだが、捜索は市民の手にゆだねられていた。
 民間人による捜索活動を、軍人や警察官が見守り、補助するという、逆転現象が起こっていた。
 軍、警察の第一の任務は、すでに破壊されたアメリカ大使館を警護することだった。










          【脅威の破壊力】
 アメリカ大使館の駐車場に隣接する銀行ビルは一階から最上階まで、完璧に破壊された。
 爆心地近くの道路にいた人々は吹き飛ばされ、走っていた車やバスは炎上し黒焦げになった。
 爆心地から離れた位置にいた人々も、オフィスビルから降り注ぐ無数のガラス片によってき傷ついた。半径300メートル以内のビルの窓ガラスはことごとく、路上に降り注いだ。



【救出された生存者】
 
 絶望的ともいえる状況の中で、生存者が発見された。
 ビルが崩壊するほどの衝撃波を受け、しかもコンクリートに押しつぶされなかったのは、まさに奇跡としか言いようがない。
 崩壊したビルの瓦礫を見て、僕は生存者がいるなどとは、まったく思っていなかった。
 これも生存者の可能性を信じ、必死の救助活動を行った多くの市民がいたからこそに違いない。
 市民による救助作業によって、瓦礫の中から4人の生存者が救出された。
  
 市民による救出作業は、暗くなるまで続けられた。
 翌日からは、外国から来たレスキューの専門チームによって捜索がおこなわれたが、生存者は発見されなかった。
 レスキュー活動は、けっしてプロだけの仕事ではないということだ。
 とにかく、一秒でも早く行うことこそが大切なのだ。
 市民は、救急隊から配られた薄い医療用ゴム手袋で、瓦礫を掘り起こしていた。
 ケニア市民にはこころから敬服した。

写真:米大使館爆破テロ現場

2005年01月08日 07時26分17秒 | ●米大使館爆破テロ
【レスキュー隊】
 テロの翌日の朝には、早くもイスラエルのレスキュー部隊が到着した。
 ケニアとイスラエルは、そんなに友好国だったのだろうか。
 イスラエルのあまりの対応の早さに、イスラエルはテロの発生を事前に知っていたのではないか、と疑う者もいる。それどころか、このテロはイスラエルの仕業だという説を唱える者さえいる。確かに、このテロのあと、イスラエルとパレスチナの和平交渉は頓挫した。