報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

【映画:アフガン零年】

2005年01月12日 18時12分40秒 | 軽い読み物
──映画を醜い政治の道具にしてはならない──

『アフガン零年:原題オサマ』アフガニスタン/NHK/アイルランド制作
 
 人間の持つ、美しさ、儚さ。
 主人公オサマを演じる少女マリナ・ゴルバハーリの瞳の中にすべてが語られている。
 マリナ・ゴルバハーリ、そしてモハマド・アリフ・ヘラーティ(お香屋)の二人の少年少女は、監督セディク・バルマクの意図を超えて、普遍的な人間の美しさを観る者に伝えている。
 この映画の美しさは、この二人の瞳の奥から生まれている。

 それに比べ、監督セディク・バルマクの意図は不純だ。
 神聖な映画を政治の道具にしようとした。

 この映画の登場人物は、儚い生身の人間として、我々のこころの中に静かに浸透してくる。それに対して、タリバーンの醜い姿は、強引に我々の脳髄の表面になすり付けられる。

 タリバーンはまるで、アメリカ映画に出てくる旧ドイツ軍や旧日本軍、あるいは西部劇のインディアンのように描かれている。人格を持たず、鋳型のように画一的だ。そんな人間がこの世に存在するはずがない。タリバーン幹部は、まるで絵に描いたような悪党づらだ。

 映画が描き続けてきた旧ドイツ軍や旧日本軍、インディアンは実在しない。スターウォーズのダースベイダーが実在しないのとおなじくらいの確率で実在しない。おなじく「アフガン零年」のタリバーンもだ。

 「アフガン零年」は、セディク・バルマク監督の好きなタルコフスキーの映像美に、ジョン・フォードの矮小さを兼ね備えている。
 この映画は美しく、そして酷悪だ。

 セディク・バルマク監督は、ソ連支配下時代にソ連で映画制作を学んだ。タリバーン政権になると、同郷のマスードと合流して、北部同盟のもとで活動をおこなった。どう考えても、タリバーン政権下のアフガニスタンを描くには、適切な人物とは言えない。計画段階から、公平な映画にならないことは明らかだ。この作品は、アメリカと北部同盟の絶対統治下で作成された。

「アフガン零年」を観た人は100%タリバーンに嫌悪感を持つだろう。持たない方がおかしい。
 この映画は、ナチス・ドイツ下のユダヤ人を描いたようなものだ。絶対悪のナチス、成す術のない清いユダヤ人。そう置き換えてもおかしくはない。観客にスムースに受け入れられる黄金パターンを踏んでいる。
 明らかに政治的意図を持った作品だ。

 しかし、北部同盟の元ムジャヒディンこそが、内戦でアフガニスタンの国土のほとんどを破壊し、人々を飢えと貧困の淵に追い込んだのだ。もし、ムジャヒディン同士が醜い権力争いの内戦をはじめなければ、タリバーンはこの地上には現れてはいないのだ。タリバーンが人々を内戦の苦しみから解放した。それともタリバーンより、内戦の方がマシという根拠でもあるのだろうか。タリバーンが出現した途端、北部同盟を結成するくらいなら、はじめから内戦などするな。愚か者。

 しかし、強者が歴史を作る。
 ドレスデンの空爆やヒロシマ、ナガサキの原爆投下、インディアンの虐殺と土地の略奪は、歴史の中で不問にされ続けている。勝者の犯罪が問われることはないのだ。北部同盟の犯罪が語られることはなく、アメリカ軍がイラク市民を日々殺戮している事実も、現在進行形で不問にされている。

 映画は、歴史を歪曲する犯罪に加担させられてきた。
「アフガン零年」もそのうちのひとつだ。

 しかしそれでも「アフガン零年」は美しい映画だ。
 この映画のもつ美しさは、マリナ・ゴルバハーリとモハマド・アリフ・ヘラーティの持つ普遍的な瞳の輝きによってこそ生まれている。

 セディク・バルマク監督はこの二人を利用することに失敗した。アフガニスタンの苦境を生き抜いてきた二人の少年少女が、アフガニスタンの外で生きてきたバルマクを利用してしまったのだ。

 神聖な映画を、チンケな政治の道具に落しこめようとしたセディク・バルマク監督は恥を知るべきだ。