──コンゴへの道のり──
内戦勃発のコンゴまで、ケニアから六日かかった。ウガンダとルワンダを経由したが、このルートでも一気に行けば三日あれば着ける。しかし、状況を把握せずに内戦中のコンゴへ入るのは無謀だ。的確な情報がなければ、的確な判断はできない。判断を誤れば、無駄に身を危険に晒すことになる。
「無謀」と「リスクを負う」こととはまったく次元が異なる。
僕が観察する限りで言えば「無謀」とは、「最初に行動ありき」という精神だ。状況も判断せず、やると決めたことはやる、という直情的な精神だ。ごく一部のグループは、それを「勇気」と定義づけているように見える。こうした行動パターンには、頭脳の関与する余地がない。つまりとても楽なのだ。人間、楽な方に向かうものだ。「無謀」であればあるほど「勇気」の証明などと思い込むのは、人間の価値を損なう行為だ。僕自身は、「勇気」などに興味はないので、「勇気とは何か」について論じる気はない。しかし少なくとも「勇気」とは、そんな行為で証明できるようなチンケなものではないはずだ。
僕は、必要があれば「リスクは負う」。
情報を収集し、分析検討したうえで、あらゆる状況を想定し、それに対する対策を立てる。不測の事態が想定される場合は、それが解消されるまでは結論を出さない。新しい情報が入るまで、いつまででも待つ。待ちくたびれて死んだ奴はいない。
ケニアを出るまでに、僕は二週間ほどかかった。コンゴから遠く離れたケニアでは、確実な情報が手に入らなかったからだ。ケニア人からは、「行ったら死ぬからやめろ」と言われ続けた。ケニアを出る決心をしたのは、コンゴを旅行中に内戦に巻き込まれ、そこから脱出してきた旅行者に出会ったからだ。彼は、コンゴでウガンダのジャーナリストに助けられた。そのジャーナリストの名と勤め先の新聞社を教えてもらったのだ。
コンゴを取材した同業者の情報なら、信頼度トリプルAの情報だ。 ケニアをようやく出て、僕は隣国ウガンダのカンパラに向かった。
ウガンダの首都カンパラで、さっそく英字新聞「ニュービジョン」を訪ね、カメラマンのムゲルワ氏を呼び出してもらった。単刀直入に用件を告げた。カメラマン同士というのは、こういうとき、垣根がなくていい。彼から、コンゴの戦況や治安状況、コンゴへ入る最良のルート、そしてゴマでコンタクトをとるべき人物まで教えてもらった。現地の治安状況は良く、反乱軍側からの取材もまったく問題がないということだった。ルワンダとコンゴはビザなしで入国できる(98年時点。ツーリストは除外。念のため)。
ゴマへ入るルートは、カンパラからルワンダの首都キガリ、そして国境の街ジセインへ。国境を越えれば、反乱軍の拠点ゴマだ。ムゲルワ氏によると、ゴマからは、反乱軍の車両や航空機を使えるという。費用はかからない。民間の交通機関は、停止状態らしかった。
また、コンゴではウガンダの部隊も活動しているので、念のためウガンダのプレスカードを取った。一ヶ月間有効で、30ドルもしたが。
コンゴから帰ったばかりの同業者からの直接情報なので、もはや検討の余地はなかった。
ただし、コンゴ政府軍は、ウガンダ領内を空爆しているようだった。地上部隊は、ゴマ近郊に迫まりつつあった。
戦況の変化については、ゴマで収集する。ゴマ以降の行動は、現地であらためて判断する。
僕が負うリスクとは、この程度だ。
カンパラに四日滞在し、ルワンダの首都キガリへ向かった。
ルワンダは、アフリカのスイスと呼ばれている。
確かに美しい国だった。
意外にも、茶畑が多かった(写真)。
僕の地元は、お茶の産地なので、アフリカで見る茶畑にとてもこころが踊った。
しかし、一般にはルワンダは94年の大虐殺によって知られている。
94年、大統領(フツ族)が暗殺されたのをきっかけに、ツチ族への大虐殺が勃発し、80万人から100万人が殺害された。途方もない数字だ。数週間前にナイロビの爆弾テロ現場で幾多の遺体を目にし、撮影することになったが、100万という遺体はとても想像できるものではなかった。目の前に広がる美しい大地にも、無数の遺体が散らばっていたのだろうか。
虐殺を行ったフツ族は多数派であったが、結局ウガンダ、ブルンジに支援されたツチ族が巻き返し、フツ族はコンゴのゴマへ逃避し、難民となった。難民キャンプは、フツ族武装民兵にコントロールされ、武装民兵の隠れ家となった。ツチ族政権は、難民の帰還を奨励したが、200万人のフツ族難民は、報復を怖れコンゴに居座り続けた。
しかし、96年のモブツ大統領に対するローレン・カビラの反乱によって、フツ族の難民は一気にルワンダに帰還した。反乱のどさくさで何が起こるかわからなかったからだ。こうして解決不能と思われていた200万のフツ族難民問題があっさり解決された。ルワンダに帰還したフツ族に対する報復もほとんどなかったはずだ。
僕が訪れた限りでは、街にも道路にも目立った警備もなく、静かでのどかな空気だった。
ただし、難民キャンプをコントロールしていたフツ族武装民兵組織はゲリラ化し、たびたびルワンダやウガンダを襲撃している。
モブツ政権を倒し、勝手に大統領となったローレン・カビラは、このフツ族武装民兵を利用して、コンゴ内のツチ族を排除しようとしていた。ややこしいが、カビラはモブツを倒すために「ツチ族」と共闘したが、政権をとると「ツチ族」が邪魔になり、今度はフツ族ゲリラを使って排除しようとしたのだ。
僕が取材しようとしていたのは、カビラに蜂起した「ツチ族」勢力だった。
内戦勃発のコンゴまで、ケニアから六日かかった。ウガンダとルワンダを経由したが、このルートでも一気に行けば三日あれば着ける。しかし、状況を把握せずに内戦中のコンゴへ入るのは無謀だ。的確な情報がなければ、的確な判断はできない。判断を誤れば、無駄に身を危険に晒すことになる。
「無謀」と「リスクを負う」こととはまったく次元が異なる。
僕が観察する限りで言えば「無謀」とは、「最初に行動ありき」という精神だ。状況も判断せず、やると決めたことはやる、という直情的な精神だ。ごく一部のグループは、それを「勇気」と定義づけているように見える。こうした行動パターンには、頭脳の関与する余地がない。つまりとても楽なのだ。人間、楽な方に向かうものだ。「無謀」であればあるほど「勇気」の証明などと思い込むのは、人間の価値を損なう行為だ。僕自身は、「勇気」などに興味はないので、「勇気とは何か」について論じる気はない。しかし少なくとも「勇気」とは、そんな行為で証明できるようなチンケなものではないはずだ。
僕は、必要があれば「リスクは負う」。
情報を収集し、分析検討したうえで、あらゆる状況を想定し、それに対する対策を立てる。不測の事態が想定される場合は、それが解消されるまでは結論を出さない。新しい情報が入るまで、いつまででも待つ。待ちくたびれて死んだ奴はいない。
ケニアを出るまでに、僕は二週間ほどかかった。コンゴから遠く離れたケニアでは、確実な情報が手に入らなかったからだ。ケニア人からは、「行ったら死ぬからやめろ」と言われ続けた。ケニアを出る決心をしたのは、コンゴを旅行中に内戦に巻き込まれ、そこから脱出してきた旅行者に出会ったからだ。彼は、コンゴでウガンダのジャーナリストに助けられた。そのジャーナリストの名と勤め先の新聞社を教えてもらったのだ。
コンゴを取材した同業者の情報なら、信頼度トリプルAの情報だ。 ケニアをようやく出て、僕は隣国ウガンダのカンパラに向かった。
ウガンダの首都カンパラで、さっそく英字新聞「ニュービジョン」を訪ね、カメラマンのムゲルワ氏を呼び出してもらった。単刀直入に用件を告げた。カメラマン同士というのは、こういうとき、垣根がなくていい。彼から、コンゴの戦況や治安状況、コンゴへ入る最良のルート、そしてゴマでコンタクトをとるべき人物まで教えてもらった。現地の治安状況は良く、反乱軍側からの取材もまったく問題がないということだった。ルワンダとコンゴはビザなしで入国できる(98年時点。ツーリストは除外。念のため)。
ゴマへ入るルートは、カンパラからルワンダの首都キガリ、そして国境の街ジセインへ。国境を越えれば、反乱軍の拠点ゴマだ。ムゲルワ氏によると、ゴマからは、反乱軍の車両や航空機を使えるという。費用はかからない。民間の交通機関は、停止状態らしかった。
また、コンゴではウガンダの部隊も活動しているので、念のためウガンダのプレスカードを取った。一ヶ月間有効で、30ドルもしたが。
コンゴから帰ったばかりの同業者からの直接情報なので、もはや検討の余地はなかった。
ただし、コンゴ政府軍は、ウガンダ領内を空爆しているようだった。地上部隊は、ゴマ近郊に迫まりつつあった。
戦況の変化については、ゴマで収集する。ゴマ以降の行動は、現地であらためて判断する。
僕が負うリスクとは、この程度だ。
カンパラに四日滞在し、ルワンダの首都キガリへ向かった。
ルワンダは、アフリカのスイスと呼ばれている。
確かに美しい国だった。
意外にも、茶畑が多かった(写真)。
僕の地元は、お茶の産地なので、アフリカで見る茶畑にとてもこころが踊った。
しかし、一般にはルワンダは94年の大虐殺によって知られている。
94年、大統領(フツ族)が暗殺されたのをきっかけに、ツチ族への大虐殺が勃発し、80万人から100万人が殺害された。途方もない数字だ。数週間前にナイロビの爆弾テロ現場で幾多の遺体を目にし、撮影することになったが、100万という遺体はとても想像できるものではなかった。目の前に広がる美しい大地にも、無数の遺体が散らばっていたのだろうか。
虐殺を行ったフツ族は多数派であったが、結局ウガンダ、ブルンジに支援されたツチ族が巻き返し、フツ族はコンゴのゴマへ逃避し、難民となった。難民キャンプは、フツ族武装民兵にコントロールされ、武装民兵の隠れ家となった。ツチ族政権は、難民の帰還を奨励したが、200万人のフツ族難民は、報復を怖れコンゴに居座り続けた。
しかし、96年のモブツ大統領に対するローレン・カビラの反乱によって、フツ族の難民は一気にルワンダに帰還した。反乱のどさくさで何が起こるかわからなかったからだ。こうして解決不能と思われていた200万のフツ族難民問題があっさり解決された。ルワンダに帰還したフツ族に対する報復もほとんどなかったはずだ。
僕が訪れた限りでは、街にも道路にも目立った警備もなく、静かでのどかな空気だった。
ただし、難民キャンプをコントロールしていたフツ族武装民兵組織はゲリラ化し、たびたびルワンダやウガンダを襲撃している。
モブツ政権を倒し、勝手に大統領となったローレン・カビラは、このフツ族武装民兵を利用して、コンゴ内のツチ族を排除しようとしていた。ややこしいが、カビラはモブツを倒すために「ツチ族」と共闘したが、政権をとると「ツチ族」が邪魔になり、今度はフツ族ゲリラを使って排除しようとしたのだ。
僕が取材しようとしていたのは、カビラに蜂起した「ツチ族」勢力だった。