laisser faire,laisser passer

人生は壮大なヒマつぶし。
楽しく気楽につぶして生きてます。

ひしょう、無限大

2014-03-05 | spectacles

スーパー歌舞伎と銘打ってるんで、もちろん飛翔もあるんですが、タイトルの意図は

卑小であります。

ってことでめちゃめちゃ貶しますので、ファンの方はスルーしてね。

ま、たまってる感想をこなしてから、なので怒りも収まる、てか忘れちゃうかもしれませんがwww

3月8日現在、少し忘れたようですw四連荘は見事に右肩下がりの一直線でしたなあしかし。
そしてあえてこちらはkabukiジャンルからはずしました。私見です。

空を刻むもの

ちなみにそらでもくうでもいい、と某猿さんは言っていたようですが、見終わったらやっぱりクウでしょ、と思います。それこそ飛翔するからwそらでもいいのかしらん。

一幕

ただただ退屈。
主人公の悩みが悩みに思えない。卑小すぎる中二病的な甘えのために、自分を慕ってくれるものを不幸にし、親を捨て、人をあやめる・・・主人公にまったく共感できないのが致命的。
頭でっかちで周囲から浮いていて、伝統に反抗して・・・という設定はまるでどこかの誰かのようなのにwそこをもう少し生かせなかったものか。
スペクタクル的にも盛り上がりがなく、舞台装置もスーパーどころかコクーンでももう少しこってるんじゃないの?と思われるほどのしょぼさ。
蔵之助以下のキャストのギャラが高くて、ほかに金をかける余裕がなかったのか、と思ってしまった。

二幕

話に動きが出てきて、少しは面白くなるかと思ったら。
結局主人公の動きにまったく説得力がなく、なんで盗賊一味に加わって仏を壊しまくってるのかが意味不明。主人公の親友のほうがまだ描けてるともいえるが、蔵之介の台詞に力がなく、存在に魅力がないので、やはりつまらない。
一幕で死んじゃって出番終わり?と思っていた笑三郎の目の覚めるような啖呵と、妖しい美しさを称えた春猿、古典じゃないとなぜか魅力を出す笑也の三人の女形だけが救い。
この芝居を見にいく最大の原動力だった浅野和之もまったく使い切れてないし、福士は百両首の役柄から一歩も抜け出せてないし。

三幕

最後まで二人の主人公の行動が謎。中二病かと思えば急にすべてを理解して物分りのよい人間に変身してるし。ラスト20分は古典スーパーの粋を極めたこれでもか、のけれんてんこ盛り。
宙乗り、戸板倒し、戸板駆け上り(蘭平みたいなやつ)、屋体くずし、雪降らし、火の演出・・・息つく暇もないテンポで、これはさすがに楽しいのだけれど・・・考えてみたら何一つ新しいものがない。
ぜーーーーんぶ、歌舞伎、あるいは三代目の工夫を順列組み合わせしてるだけ。
四代目猿之助ってとにかく偉そうで頭よさそうだから、自分が初めて手がける新作でここまでなんの工夫もしないとは思いもしなかった・・・

…というわけで一幕二幕でしずまっていた客席もラストで大盛り上がり。初日だけにスタンディングオヴェーションまで起きたのだが。
おまえらさっきまでつまらなそうな顔してたの、忘れたのかよ、鳥頭かよ、と心の中で静かに毒づいていたのは私だけではない、と思いたい。延々四時間の退屈+最後の30分の興奮・・・ま、三階席だったので得意の「金返せ!」的立腹とはちょっと違いましたけど。

 

 

整理してみるとこの作品への不満は大きくわけて三つ。

1.脚本が悪い。主人公二人、とくに猿之助演じる仏師の悩みに共感できないので、主人公に魅力が感じられない。せっかく歌舞伎界における今の猿之助?とにやりとするような設定をしておきながら、それがまったく生かせてないし、二人とも頭が悪いとしか思えない展開。ラストに至ってはあまりにご都合主義で思わず笑ってしまった。

ちなみに芝居の題につながる最後の落ちは嫌いじゃない。四代目猿之助的哲学を感じさせて。
しかし、その結論があまりに唐突で、あんな主人公に到達できるとは思えない高みwにあるのがよけい違和感なのだった。


2.外部俳優の起用がまったくといっていいほど意味ない。蔵之助の役を月乃助がやったほうがずっと歌舞伎になっただろうし、(猿さんは月くんと手をつないで宙乗りしたくないだろうがw)盗賊たちに起用した大衆演劇畑の人なんて、ただ参加しただけ、という感じ。あれならおもだかの芸達者で綺麗な女形を起用してやるべき。喜昇、猿紫、笑野が気の毒になるほどの出番の少なさだったのに。
浅野に関しては中村屋における笹野的な感じで使う意味はあるのかもしれないけれど、これまた中村屋のパクリ、だもんなあ。ただ一人、福士の個性は歌舞伎役者にはちょっといないかな、と思わないでもないけれど、でも弘太郎あたりで十分できそうだし。

結局猿之助が仲良しさんと一緒にお芝居やりたいよ!という以上の動機も成果も感じられない外部起用だったといわざるを得ない。

3.そしてこれが最大かつ最悪で私が鬼オコになってる要因なのだけれど。
すべてがぱくり。何も新しくない。
スペクタクルについては三幕で述べたとおり。
最初に口上を持ってきたのは一つの工夫だと思うがこれも海老蔵がやってる。
そして口上の席に外部俳優を並べるのは、笹野が、それこそ数年、いや10年くらいの歌舞伎の舞台を経てようやくたどり着いた道。それをいきなり、白塗り裃で口上に仲良し三人組を並べるって・・・
三代目、中村屋、そのほか先達が苦労して切り開いた道をいきなりずかずかと踏み荒らされたような。いやーな気分でした。

主人公の存在が卑小。外部俳優の存在感も卑小。そして新機軸一切無しの卑小なスーパーミニマル歌舞伎って感じかな。

いや、それでも、面白けりゃいいのよ。たとえミニマルでも。スーパー歌舞伎って面白くなきゃ意味ないでしょ。
これだけ勝手なことしておいて、面白くさえない、(最後以外)。

そこが最大の問題点だと思うのだった。

あーあ。