SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

James S. Fishkin, Justice, Equal Opportunity, and the Family (Yale University Press, 1983)

2014年01月22日 | 
ずっと旅行記を書いていたせいで「SakuraとRenは毎日遊びまわっているのか」などと思われると心外なので(笑)、急いで更新します。
SakuraもRenももうすでに新学期も始まって毎日忙しくしている(Renは来週プレゼンしなくちゃいけないので大変です。)し、冬休み中だって(エッセイを書かないといけなかったので)残念ながらちゃんと勉強していました。

ということで、この間にいくつか読んだ本から、今日はJames S. Fishkin, Justice, Equal Opportunity, and the Family (Yale University Press, 1983)をご紹介したいと思います。
Fishkinさんは日本ではdelilberative democracy関連で有名な方だと思う(というか、Renはこの関連でしか名前を聞いたことがありませんでした。)のですが、この本は、彼がdeliberative democracyに本腰を入れ始める前のものです。


本書のテーマは「機会の平等」と「自由」の対立です。
機会の平等はリベラリズムにおける中心的理論で、そこでは「不平等は機会の平等が確保されているときにのみ許容される」というように言われます。
たとえば、Rawlsさんの正義の二原理は、

1 平等な基本的自由がすべての人に最大限に保障されるべき
2 社会経済的不平等をもたらす制度は以下の2つが成り立つときにのみ許容される
 (a)その制度は最も恵まれない人たちが最も便益を得られるように作られていること
 (b)公正な機会の平等が確保されていること

というような定式がなされていて(Rawls, 1999:266)、機会の平等が確保されること(b)が社会経済的不平等をもたらす制度を許容する一つの条件になっています。(Adam Swiftさんもこの前取り上げた本で嘆いている("It is mysterious why --and rather irritating that -- Rawls lists these two principles in reverse order." (Swift, 2013:26))のですが、信じられないことにRawlsさんは(b)を(a)よりも優先すべきと言っています。だったら順番を入れ替えて書けば良いのに。)

それでは、機会の平等は具体的には何を要請するのか。
Fishkinさんによれば、これは2つの原理から成り立っています。
一つ目は、能力主義(the principle of merit)、
二つ目は、平等な人生の可能性(equality of life chances)です(p.4)。

一つ目の「能力主義」は、就職や大学の入学試験等において、その資格が公正な手続きの評価によって決定されることを要請します(pp.19-22)。
そこにおいては過去または現在においてなされた現実の行動が基準とされるべきで、たとえば、統計的にこれこれのバックグラウンドを持っている人はこれこれの能力を有している可能性が高いからその人を採用する、などといった推測は能力ではなくその人の帰属するものによってその人を判断しているので不公正な差別だということになります。

しかし、公正な手続きによって評価されるからといって、スタートラインに差がある場合はその結果を公正だと評価することはできません。
Fishkinさんは、Bernard Williamsさんの提示した以下のような例を紹介します。

支配層が世襲の軍人(warrior)階級で占められている社会があったとする。何世代か後に大きな改革が行われて、軍人になるためになんらかの競争を経なければならなくなった。これは公正な機会の平等の実現につながるだろうか。(pp.30-31)


いや、ならない、とWilliamsさんは言います。
なぜなら、軍人の子供たちは他の階級の子供たちと比べてより教育をされているから、競争を経るようになったとしてもなお軍人の子供たちが軍人階級のほとんどを占めることになろうから。

ここで重要なのは、競争の結果をその人のバックグラウンドを参照することによってかなり推測できてしまうことです。
これでは公正だとはとても言えないので、二つ目の原理が必要になります。
すなわち、「平等な人生の可能性」の原理は、子供たちの将来の地位は彼らの恣意的な生まれ持った環境によって大きく規定されてはならないことを要請します(p.32)。
この原理によって、人種や性別や親の職業によって将来その子供がどういう社会経済的地位に就くかを推測できてしまうような社会制度が否定されることになります。

ところが、いま述べた二つの原理を実現しようとすると、ある一つのリベラリズムにとって重要な価値が毀損されてしまいます。
その価値とは、「家族の自律」(autonomy of the faimily)です。
家族の自律は、その家庭において子供たちをどう育てるかはその家族の自由であって、外部から何らかの強制的な介入を拒否します(介入をなければ子供たちの身体的・精神的健康や必要最小限の知識の習得が阻害される場合は例外的に許される)(pp.35-36)。

この原理は、「プライベートな領域の自由」というリベラリズムの重要な価値の一部を構成しています。
この重要な価値を有する家族の自律は、しかし、機会の平等の2つの原理を同時に満たすことができません。
(1)能力主義、(2)平等な人生の可能性、(3)家族の自律、のうち2つを達成するためには1つを犠牲にしなければならない状況になっており、これをFishkinさんは「トリレンマ」(trilemma)と表現しています。

たとえば、(1)能力主義と(3)家族の自律を達成しようとしたとすると、それは先の軍人の例と同様な事態を招いて、(2)平等な人生の可能性を達成できない。
(1)能力主義と(2)平等な人生の可能性を達成しようとすれば、(3)家族の自律に介入して、家族を解体して国家が平等に育てるとか、そこまでラディカルでなくてもどの教育機関を選ぶかの自由をなくす必要がある(みんな同じ教育だったら同じようなアウトカムが得られるだろう。ただし、Fishkinさんは子供の育ちにおいて学校教育よりも家庭環境のほうが重要であろうと考えています。社会的なマナーだったり、実力者とのコネだったり、親がロールモデルになったり(pp.68-72)。)。
そして、(2)平等な人生の可能性と(3)家族の自律を達成するためには、たとえばFishkinさんがpreferential treatmentと呼ぶ、社会的に不利な立場に育った人たちへの有利な取り扱い(人種のみに着目するaffirmative actionよりも幅広いもの。)が必要になる((1)が阻害される。)(pp.82-)。

それでは、どうしたらいいのか。
実は、ここでFishkinさんの考察は終わっています。
本書において彼は「こうすべき」という案を実質的に提示していません。

これら3つの価値は同等に重要なものなのか、それとも重要性に差はあるのか。
3つのうち、たとえばすべてか2つをちょっとずつ犠牲にすることは大きな問題を生じさせるのか。
トリレンマに直面した政府が行っている様々な政策を、我々はどのように評価すればよいのか。

いろいろ考えるべき論点があるように思いますが、これは本書の読者の課題なのかもしれません。


(投稿者/Ren)

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