SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Christoffer Green-Pedersen, The Politics of Justification (Amsterdam University Press, 2002)

2015年05月20日 | 
表紙が美しくて全冊買い揃えたくなってしまうAmsterdam University Pressのシリーズ「Changing Welfare States」の第1冊目、Christoffer Green-Pedersen, The Politics of Justification: Party Competition and Welfare-State Retrenchment in Denmark and the Netherlands from 1982 to 1998 (Amsterdam University Press, 2002)を今日は簡単に取り上げたいと思います。



本書は福祉国家縮減の政治をデンマークとオランダを比較しながら論じたものです。
OECD各国が経済社会のあり方を新しい経済環境に適応させるのに苦労する中、デンマークとオランダはそれに成功した例とみなされている。
両国は同じくらい充実した福祉国家制度を持ち、同じような経済的問題に直面したにも拘わらず、改革の行われ方やその程度には違いがあった。
その理由を著者は両国の政党政治の形態(政党がどういう形で競合しているか)に求めます。

具体的には以下の通り。
著者は政党の競合の形として、大きく「bloc system」と「pivot system」に分けます。
bloc systemとは、政党が左派の集団と右派の集団に大きく分かれていて、中道の政党(キリスト教民主主義など)は存在しないか極めて限定的な役割しか果たさないようなシステム。
pivot systemとは、中道の政党が過半数を取らないけれどもかなり強く、政権は中道+右派or左派で構成されるようなシステム。

前者(bloc system)では左派が政権を取るか右派が政権を取るかで社会保障政策の縮減が行われるかどうかが決まる。
右派政権において彼らが社会保障政策を縮減しようとすると、左派はそれを強く批判します。
その政策が社会保障制度をより強力にするために必要なんだと彼らが主張しても、選挙民は右派は彼らのイデオロギー的な目標の達成のために福祉切り捨てをしようとしているんじゃないかと疑う(左派のおそらくイデオロギー的な批判もその疑義を煽る)。
その性質上不人気な社会保障縮減政策は、このような環境の下では選挙民からの納得を得られにくく、そのため、右派政権においては社会保障縮減は行われにくい。

ところが、左派政権においては「Nixon goes to China」の論理が働く。
すなわち、選挙民は、福祉を大切にする左派政権が社会保障政策縮減を唱えるのだから、それは社会保障制度の強化を本当に志向しているんだろうと思いやすい。
一方で、自分たちのイデオロギー的立場に一貫性を持たせようとするならば、野党の右派は社会保障縮減に強く反対しにくい。
そのため、左派政権においては右派政権と社会保障縮減についてコンセンサスが得られやすく、改革がスムーズに進む。

pivot systemでは、中道のキリスト教民主主義政党が社会保障縮減しようと思うかどうかがポイントになります。
キリスト教民主主義政党は、選挙民から社会保障縮減について理解を得ないと選挙で大敗してしまうので、その意図が社会保障制度の強化にあると思ってもらうためにも左派と組んで改革を行う。
右派も左派も自力で政権を取れないことは分かっているので、キリスト教民主主義政党にあまり強く反対して自ら政権から遠ざかるのは得策ではない。
そのため、左派と組むことにそれほど大きなハードルはないし、右派もそんなには反対しない。
著者はpivot systemのほうがbloc systemよりも社会保障縮減政策が進みやすいだろうと予測します(中道の政党が決意しさえすればいいので)。

実証部分は、bloc systemのデンマークとpivot systemのオランダの1982年から1998年までの実際の改革をなぞり、この予測がどのくらい適切かを確かめることになります。

本書のポイントは、福祉国家縮減の成否を選挙民への正当化(justification)がどれほど成功するかに求め、その正当化戦略が政党間競合のあり方によって影響を受けるとしたこと。
その意味で、本書を一言でまとめると「politics matter」ということになります。
疑問点をあえてあげるとすれば、著者は政府によるその正当化が説得力を持っていたのか、あるいはなぜそれが説得力を持っていたかを十分に説明できていないように思えることじゃないかと思います。
それを解明するには、「あなたはなぜこの政権の社会保障改革に反対じゃなかったんですか?」というようなサーベイをしなくてはいけなくなりそうだけれども。


本書は著者の博士論文の「significantly revised version」とのこと。
いずれ博士論文を書かないといけない僕にとって、内容はもちろんですがそれ以上に本文の構成のされ方が興味深かったです。(これは取り入れたいというところと、そうでないところと。)
また、比較的さらっと書かれてはあったけど、社会保障の縮減をoperationaliseする際にはその方法及びデータの収集両面において本当はかなり骨を折ったんだろうなと思って、頭が下がりました。

(投稿者:Ren)

子育て中のグースに襲われないで彼らを観察する方法:一つの仮説

2015年05月17日 | 【イギリス生活】
SakuraとRenが住んでいる大学キャンパス内には大きな池があって、そこにたくさんの水鳥たちが住んでいます。
彼らは現在子育て真っ最中。

カナダガン(Canada Goose)
※名前は、ネットで写真検索をして推測したものです。以下同じ。


ハイイロガン(Greylag Goose)


オオバン(Coot)



池の周りをそんな彼らを観察しながら散歩するのが最近の僕たちの日課です。

でも、子育て中の彼らはとてもセンシティブです。
特にグースたちは、彼らを近くで観察しようとすると、低い声で「サー」とうなって警告し、警告を無視すれば容赦なく人間にも襲いかかってきます。

実はRenは最近彼らの攻撃の対象になってしまいました。
一羽の卵を温めていたカナダガンに近づいてみたとき、彼女(お母さんグースだと想定)がとても警戒して、「サー」と僕がそれまで一度も聞いたことのなかった低い声を出しました。
それが彼らの最大の警告音だということを知らなかった僕は彼女にさらに近づきます。



次の瞬間、背後からものすごい勢いで何かが近づいてきたことを感じました。
振り返ってみると、すぐ近くに一羽のカナダガン(おそらくお父さんグース)。
彼も「サー」という音を出して、今度は僕に向かってきます。
「もしかして怒っているのか?」と気づいたときはもう遅すぎました。
翼を大きく広げて飛びかかってきたそのグースに驚いた僕は、湿っていた草に足を滑らせ転倒。
そこに落ちていたたくさんのグースの糞によって、僕は糞まみれにされてしまいました。

それ以来、グースに近づくのが怖くなったRen。
でも子供たちを近くで観察したい。

そう思っていたところ、彼らに襲われないで観察する方法(候補)を見つけてしまいました。
それは、「彼らが来そうなところで待ち伏せする」です。

グースは頻繁に子供を連れて池を泳ぎます。



泳いでいる彼らを池の近くのベンチから見ていたSakuraとRen。
一泳ぎしたあと、彼らは僕たちのベンチのすぐ傍の岸を上がってきました。

両親グースと子供グースたちは岸を上がって、草を食べながら僕たちの方にどんどん近づいてきます。
こんなに近づいてしまったらまた攻撃されてしまうんではないかと思ってベンチから逃げ出す準備をしていたのですが、子供たちが僕たちのすぐ近くにいるときも両親は特段警戒したり敵対的なそぶりを見せません。
僕たちの目の前で一生懸命に草を食べ続けていました。

ここで浮かんだ仮説が、グースたちは外からやってくる者に対しては警戒するけど、最初からそこにいた者に対してはあえて攻撃をしかけたりはしない、というもの。
ただし、これはまだ実証データに乏しい仮説に過ぎません。
しばらく待ち伏せ作戦を繰り返してみて、本当に彼らに攻撃されないか確かめようと思います。

ちなみに、この仮説は少なくとも白鳥には当てはまりません。
実は現在キャンパス内にいる白鳥も卵を温め中なのですが、彼女の近くにいるとたまにお父さんスワンが襲ってきます。
ある日、白鳥の巣の近くのベンチで日向ぼっこをしていたとき、数メートルしか離れていない隣のベンチから女の子(たぶん大学生)の悲鳴が聞こえました。
その子は僕たちが来る前からそのベンチに座ってヘッドフォンで音楽を聴きながらスマートフォンをいじっていたのですが、その彼女を突然お父さんスワンがくちばしでつついたり噛んだりして攻撃したのです。
「ただ座っていただけなのに」と後でSakuraに話しかけてきた彼女は指に怪我をしていました。
子供たちを観察するのが楽しい季節ですが、命がけで子供たちを守ろうとする親たちには注意が必要です。

仮説の妥当性、白鳥の卵が無事にかえるかどうか等について、後日続報したいと思います!

(投稿者:Ren)

2015英国総選挙

2015年05月09日 | 【イギリス生活】
2015年5月7日は英国総選挙でした。
今回の選挙のポイントは、テレビや新聞で言われていることを総合すると(まだイギリスの政治について自分の見解を持てるまで勉強が進んでいません。)次の5点にまとめられるのかなと思います。

①与党のConservative Partyが単独過半数を獲得して政権を維持。
②2010年からConservative Partyと連立政権を組んでいたLiberal Democratic Partyの壊滅。
③スコットランドをScotland National Party(SNP)がほぼすべての議席を獲得。ただし、引き続き与党となるConservativesも議席を獲得したことは重要(政権はスコットランドの民意を全く反映していない!とまでは言えなくなる)。
④UK Independence Party(UKIP)は得票率を伸ばしたものの獲得議席は1議席に留まる。
⑤今回の結果は誰も予想できなかったこと。

特に、⑤は今後イギリス政治学の大きなテーマになるんじゃないかと思います。
選挙前のあらゆる世論調査ではConservativesとLabourの支持率が拮抗していて、「どの政党も過半数を取れない」がほぼすべての人の一致した見解でした。
BBCの出口調査でConservativesがLabourを大きく引き離して第一党になるという予測が出たとき、感想を聞かれたLiberal Democratic Partyの元代表が「この出口結果は間違っている。もし本当だったらI will publicly eat my hat」と言ったくらいです。
いったいどうしてこういう結果になったのか、しばらく学界を賑わしそうな気がします。

選挙戦が始まってからテレビも新聞も選挙関連の報道一色でした。
SakuraもRenにとって初めて見るイギリスの選挙戦はとても面白くて新鮮でした。

特に印象に残っているのは以下の点です。
・選挙戦が本格的に始まる前のUKIP旋風が、終盤になって急に失速したこと。
・首相になるにはあまりにも頼りないとみんなに言われていたLabour代表のEd Milibandさんがテレビで何度も何度も「If I am a Prime Minister,」とか「In my next government,」とかと繰り返すので、「この人が次の首相になるんだな」となんとなく思わされたこと。
・SNPがテレビ討論会後に急に台風の目として浮上したこと。
・Liberal DemocratのNick Clegg代表がどんどんやつれていったように見えたこと。
・BBCが選挙以外の報道をこの期間ほとんどしなかったこと。

選挙当日に大学を歩いていたら、なんとキャンパス内にある建物が投票所になっていました。





これは人がいないときを狙って撮ったのですが、投票にはたくさんの若者(学生)が来ていました。
こんなにたくさんの人が政治に関心があるのかと感銘を受けましたが、これは大学内に寮(=住所)があるからできることで、日本だと難しいだろうなあ。


今後のポイントとしては、
①Conservativeが過半数を取ったとはいっても、ギリギリの数なので政権は「造反」に対しては脆弱になってしまったこと(BBCの報道の慧眼)。
②SNPはスコットランドのほぼすべての議席を獲得したものの、与党に入れなかったので、どこまで「スコットランドの声」を政策に反映させられるか。もしそれが全然できないということになれば次の選挙でLiberal Democratsと同じように壊滅するのではないか(Sakuraの慧眼)。
③UKIPの象徴的代表のNigel Farageさんが落選して、代表を辞任したけど、彼を失ったUKIPは今後どうなるのか。
④Cameron首相はEUを脱退するかどうかのレファレンダムを行うつもりだけど、英国の人たちはどういう判断をするのか。
というところでしょうか。


今日書いたことの多くは誰かが言っていることで何も新しいことはないけど、自分の頭の整理のためにメモしておきました。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記⑥ スピノザさんの銅像たち

2015年05月07日 | 【イギリス生活】旅行
今回のスピノザさん巡礼で、僕たちは彼の銅像を3つ見つけることができました。
巡礼記の最後にそれぞれご紹介したいと思います。

<Amsterdamのスピノザさん>
場 所:アムステルダムのWaterlooplein。市庁舎(Stadhuis)の近くの橋の広場。
備 考:スピノザさんが生まれた場所。





台座にはオランダ語で「Het doel van de staat is de vrijheid」と書いてあります。
「国家の目的は市民の自由である」という意味の、スピノザさんの政治哲学の立場です。

スピノザさんが羽織っているコートにいろんな鳥が止まっていますが、これはアムステルダムが移民の街だということを示しているのだそうです。
銅像の近くにはここがスピノザさんが生まれた地であるということと彼についての簡単な説明が書かれたプレートがあります(オランダ語&英語)。




<Voorburgのスピノザさん>
場 所:Voorburgの't Loo公園。
備 考:スピノザさんがVoorburgのKerkstraatに住んでいた時期があるためか?



't Loo公園はとても広いので、最初はどうやって見つければいいのか分かりませんでした。
もしThe Hague中心部から行くのであれば、僕が提案する行き方は次の通りです。

①トラムでPrinses Bearixlaan駅へ行く。
②公園沿いのSpinozalaanという通りをNoteboompark方面へ歩く。
③しばらく行くと、開けたところがあって、池の近くに白い銅像が建っています。



ちなみに、この銅像があるすぐ近くに「Spinoza-Flat」という名前のアパートがありました。



この建物を目印にしても良いかもしれません。


<The Hagueのスピノザさん>
場 所:The HagueのPaviljoensgrach通り
備 考:スピノザハウスのすぐ近く





この銅像の写真(1枚目)の後ろにスピノザハウスがあることから分かるとおり、スピノザハウスのすぐ傍です。
スピノザハウスに行こうと思えば必ず見つけられます。

Paviljoensgracht通りに入るところにスピノザさんやこの銅像について説明していると思われるものがありましたが、オランダ語しか書いてなくて僕には理解できませんでした。




それぞれ特徴がありますが僕はハーグの銅像が一番好きでした。
アムステルダムに銅像を建てるときに、ハーグにある銅像を持ってこようかという意見があったそうです。
でも、ハーグ市は、スピノザはアムステルダムから追われたじゃないか、ハーグこそスピノザが主著を完成させた場所だ、と拒否したとのこと(参照、http://vorige.nrc.nl/international/article2053664.ece/Spinoza_returns_home_to_Amsterdam)。
ちなみに上記URLにアムステルダムのスピノザさん銅像についての説明もあります。


僕は学生のときに初めて『エチカ』を読んでから、ずっとスピノザさんの人間を真摯に考察する姿勢に惹かれ、また『往復書簡集』に見られる誠実な人柄を尊敬していました。
一時期はスピノザ研究者になろうかと思って(将来何をしたいのか自分でもよく分かっていなかったのです。)、ライデン大学への留学を考えたことすらあります。
スピノザさんのゆかりの場所を訪れながら、初めて『エチカ』を読んで「「神」をこんなふうに理性的にとらえるやり方があるんだ」と感動したこととか、『神学・政治論』の見事な旧約聖書解釈に頭がくらくらして、それを読んでいたカフェで気付いたらなぜか泣いていたこととか、スピノザさんをどういうふうに研究すれば研究者としてやっていけるのかと考えていた時期にある本に出会って、その素晴らしい研究から自分とその著者の能力の圧倒的な差にショックを受けてスピノザ研究の道を断念した(その著者の名前をRijnsburgのスピノザハウスで見つけました。)ときの寂しさとか、そういう様々なことを思い出していました。

今回のスピノザさん巡礼の旅は、スピノザさんを身近に感じられるようになるだけでなくて、忘れかけていた過去を思い出し、現在の自分を見つめ直す機会にもなりました。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記⑤ Nieuwe Kerk, Den Haag

2015年05月06日 | 【イギリス生活】旅行
1677年2月21日午後3時頃。レンズ磨きが原因じゃないかとも言われている結核に長年苦しんでいたスピノザさんは、44歳の若さで亡くなってしまいます。
遺されたのは159冊の本のほかわずかな身の回りの品だけ。
彼は亡くなる前に、自分が死んだらただちに机をそのままアムステルダムの印刷業者へ届けるように大家さんにお願いしていました。
その机の中にあった原稿が『遺稿集』(Opera posthuma)として出版されます。(いま僕たちが岩波文庫その他でスピノザさんの著作を読めるのは大家さんがちゃんとお願いを聞き入れてくれたからですね。大家さんありがとう。)

スピノザさんは2月25日にNieuwe Kerk(新教会)に埋葬されます。
ただし、お金がなかったスピノザさんはちゃんとした墓地を持てませんでした。
一時的に埋葬された後、そこに次のお金がない死者を埋めるために彼の遺体は別の場所に移されたので、いまではそれがどこに行ったのか分かっていません。



しかし、このNieuwe Kerkの敷地内にはスピノザさんの記念碑があります。



1956年に設置されたものらしいのですが、想像していたよりも立派なものでした。
僕と同じようなスピノザさんファンの方が少し前にいらっしゃっていたのか、スピノザさんの印章の上に小さい花が置いてありました。



ちなみに、この印章のBDSはスピノザさんの名前(Benedictus De Spinoza)のイニシャル。
真ん中の花はバラで、Espinosaのポルトガル語の意味(棘)から来ているそうです。(Spinoza House The Hagueの入口に棘のある木が植わっていて「なんてセンスが良いんだ!」と僕は感銘を受けたのですが、それがバラなのかどうかは植物をまったく分からない僕には分かりませんでした。)
「CAUTE」は、ラテン語で「注意せよ」という意味の言葉。

僕はずっとこれを、彼の思想が教会にとって許しがたいものであったために彼は危害を加えられることをおそれて、「気を付けて行動しよう」と自分に言い聞かせていたんだと解釈していました。(実際、彼が生前に偽名で・出版場所も偽って出版した『神学・政治論』はすぐさま禁書になっているし、死後しばらくも彼は無神論者として多くの人から誤解され嫌われていました。)
でも実はそうではなく、手紙を受け取る人に対し「自分の思想は棘があるから気を付けなさい」というようなことを伝えるものであったそうです(RijnsburgのSpinoza Houseの管理人さんのご教示)。
かっこよすぎる。僕もこういう印章を作りたいし、作れるような人になってみたい。


ハーグの多くの教会もそうだったのですが、この教会も中に入ることができませんでした。
とても綺麗な教会だったので、教会好きなSakuraとRenとしては中がどんな感じか見ておきたかったのですが…。
驚くべきことにこの新教会は『地球の歩き方』に載っていませんが、トラムのSpui駅のすぐ近くにあります。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記④ Spinoza House The Hague

2015年05月05日 | 【イギリス生活】旅行
1669~1670年の冬に、スピノザさんはVoorburgからハーグに居を移します。
最初に住んだのはStille Veerkadeにある家。
でも、ここがあまり好きではなかったようで、1671年の5月にはPaviljoensgracht(ごめんなさい、読めません。)にあるHendrik van der Spijckという人の家に引っ越します。
この家に彼は1677年に亡くなるまで住むことになります。

スピノザさんが住んだことのある家でまだ残っている2軒のうちのもう1軒は、このスピノザさんにとって最後の家です。

<Spinoza House The Hague>
住 所:Paviljoensgracht 72-74, Den Haag
行き方:ハーグの中心地から歩いて行けます。
開 館:アポイントを取れば入れます(普段は入れません)
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=460317722

ここには19世紀後半から現在までのスピノザさんについての様々な文献が収められているとのことですが、研究者でもないただのファンがアポイントを取って良いのかどうか分からず(というか僕にその勇気はなかった)、外から見るだけにしておきました。





ちなみに、Rijnsburgのスピノザハウスにあるスピノザさんが遺した文献(と同じ版のもの)たちもアポイントを取れば実際に開いて見ることができるそうです。

スピノザさんがこの家にいた時期に、あの「ハーグの政変」が起こります。
1672年8月の、スピノザさんの保護者であり友人でもあったJan de Wittさんと彼の兄が、群衆によって引きずり出されて残虐に殺された事件です。
スピノザさんは彼の友人はもとより、彼を批判する人でさえ「above reproach」(非の打ち所がない)な人格者として知られていましたが(Garrett (1996) "Introduction", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridge University Press), p.1)、このときだけは激怒して殺害現場に「Ultimi Barbarorum」(お前たちは最も低劣な野蛮人だ、みたいな意味か?)と書いた張り紙を掲示して抗議しようとしたとされています。
いまにも出かけていこうとするスピノザさんに対し、彼も殺されることになってしまうと心配した大家さんは扉に鍵をかけて彼が外に出られないようにしたと言われています。(ありがとう、大家さん!)
ウィット兄弟の殺害現場は、いまは監獄博物館になっています。(建物の前に行ってみましたが、特にその旨を記したものはありませんでした。)


僕は今回スピノザさんの主要なゆかりスポットにすべて行こうと思っていましたが、リサーチ不足でStille Veerkadeには行けませんでした。
ここの存在をイギリスに帰国してから気付くという大失態。ここにもハーグの中心地から歩いて行けたはずだったのに。悔やんでも悔やみきれません。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記③ Kerkstraat, Voorburg

2015年05月04日 | 【イギリス生活】旅行
1663年の夏にはスピノザさんはVoorburg(フォールブルク?)というハーグ近郊の街に引っ越しています。
彼が借りたのは、Kerkstraatという通りにあるDaniel Tydemanという方の家。
ここで彼は一旦『エチカ』の執筆を中断し、『神学・政治論』に取りかかります(1665年から)。

VoorburgのKerkstraatは大きな教会(Oude Kerk Voorburg)が目印です。



この教会はKerkstraatには建っていませんが、Kerkstraatに立つと正面にこの教会を望むことができます。



なお、Kerkstraatを教会側から見るとこんな感じ。



彼が住んでいた家はもう残っていません。
僕が調べた限りでは「Kerkstraatにある家」というだけで、どこらへんにその家が建っていたのかも分かりませんでした。
それでも、きっとスピノザさんはこの教会を眺めながら暮らしていたんだろうなと思うと、急にスピノザさんが身近な存在になったような気がしました。


VoorburgはChristiaan Huygensさんの出身地でもあるそうです。
恥ずかしながら僕はホイヘンスさんを存じ上げなかったのですが、Spinoza House Rijnsburgの管理人の方によるとオランダが生んだ最も偉大な科学者の一人とのこと。
なお、Bunge (2008:7)でも、オランダ出身の偉大な3人の人物のうちの一人としてホイヘンスさんが挙げられています(他の2人は、エラスムスさん(最も偉大な学者)&スピノザさん(最も偉大な哲学者)。個人的にはここにグロティウスさんが入っていないことが驚き!)。

ホイヘンスさんは1629年~1695年に生きた人(Wikipedia)で、スピノザさんと同時代人。
スピノザさんが磨いたレンズを用いており、そのレンズの質を絶賛したとも言われています(Klever, 1996:33-34)。

街の雰囲気も良いし、街並みも綺麗なので、スピノザさんファンの方だけじゃなくて、ホイヘンスさんファンの方にも、あるいはそうでない方にもおすすめの街です。

僕は「't Loo」という、スピノザさんの銅像がある公園から歩いて行きました。
この公園について&ここへの行き方については、後日書く予定です。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記② Spinoza House Rijnsburg

2015年05月03日 | 【イギリス生活】旅行
1661年にはスピノザさんはアムステルダムを離れ、当時のCollegiantたちの拠点の一つだったRijnsburg(ラインスバーグと読むのか?)という街に移住します。
彼はここに1663年まで住み、レンズ磨きで生計を立てつつ、英国のHenri Oldenburgを介してRobert Boyleなどの科学者やアムステルダムにいる友人たちと文通を行います。
また、ここでのちに『デカルトの哲学原理』出版につながる個人指導を、同居人のJohannes Caseariusという学生さんにしています。

ここには2軒残っているスピノザさんが実際に住んでいた家の1つがあって、今回の巡礼の旅の僕にとっての最大のハイライトでした。

<Spinoza House Rijnsburg>
住 所:Spinozalaan 29, Rijunsburg
行き方:Leiden Central Stationで37番のバスに乗る(Katwijk行き)。15分~20分乗って、Spinozalaanで降りる。片道4ユーロ。
開 館:13:00~17:00(火~日)
料 金:3.5ユーロ
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=435102236


バスは少し前の北ウェールズ旅行でお世話になったArriva bus。
電光掲示板&アナウンスで次の停留所を教えてくれるので降りる場所が分からないということにはなりませんでした。
(小心者のRenがしたように、バス会社のHPからすべての停留所をメモに転記しておくという方法もあります。http://wiki.ovinnederland.nl/wiki/Lijn_37_Katwijk_Vuurbaak_-_Leiden_Centraal_Station

目的地のSpinozalaanはかなり田舎です。



Spinozalaanという通りをずっと行くと、



Spinoza Houseがありました。



スピノザさんに興味がある人は世界中にたくさんいらっしゃるようで、この博物館には、Max Weberさん、Albert Einsteinさん、Daniel Barenboimさんといった錚々たる方々も訪れてゲストブックに名前を残しています。
博物館の管理人の方に伺ったところ、ここには外国人がたくさん来るものの、地元の人は非常に少ないとのことです。(当時とは違って宗教的に保守的な人が多いようで、近所の教会や保護者がスクールトリップ等でここを訪れることに反対するのだそうです。)

この博物館に何があるかというと、
・スピノザさんの様々な肖像画&銅像
・スピノザさんが書いた手紙(ライプニッツさん宛のも!とても丁寧な字でした。)
・スピノザさんの蔵書(彼が持っていたそのものではないけど、同じ版のものを集めたらしい。スピノザさんは借金を残して死去したので、彼が持っていた本はほとんど売却されたそうです。なお、スピノザさんは本に線を引いて、余白に自分の考えとかをメモしていたそうで、同じことをしているRenは嬉しくて仕方ありませんでした。)
・スピノザさんが使っていたのと同じ型のレンズ磨きの機械(実際に触ることも可能!)
・実際に出版された『神学・政治論』(様々なバージョンがありました。)
・スピノザさんについてのビデオ などなど

すべてというわけにはいかないものの、少なくとも半分くらいの展示物にはオランダ語だけじゃなくて英語の解説もついていました。
また、博物館の中では管理人の方がそれぞれのものを丁寧に説明してくださるので、オランダ語が分からなくても十分に楽しめると思います。

管理人の方はスピノザさんについてすごく詳しくて(英語もものすごくお上手)、スピノザさんの思想や彼の人生について長時間語り合うことができました。
その日はとてもいい天気だったので綺麗な庭にも案内してくださって、そこでご親切にもお茶までいただいてしまいました。

館内は写真撮影可だったものの、SakuraもRenも写っていない良い写真がないので、庭の写真だけ。



結局、このSpinoza Houseには2時間ほど滞在。
スピノザさんについて詳しい人と彼について語れて、スピノザさんゆかりの品もたくさん見れて、ものすごく幸せな時間でした。

(投稿者:Ren)


スピノザさん巡礼記① Portuguese Synagogue

2015年05月03日 | 【イギリス生活】旅行
スピノザさんの巡礼のためにオランダに行ってきました。

インターネットを検索してみると、日本語で様々なスピノザさん巡礼スポットについて情報を残している方が結構いらっしゃいます。
学識あるそんな方々とは違って僕はただの「なんちゃってスピノザさん愛好家」に過ぎないのですが、彼ら彼女らの情報のおかげで僕の今回の旅が実現したのと同じようにここに書くことで誰かの役に立てるかもしれないと期待しつつ、自分自身の思い出の整理も兼ねて、これから数回に分けて「スピノザさん巡礼記」を書いておこうと思います。

なお、スピノザさんの伝記的な話については、特に記していない場合は以下の文献に依拠しています。
・W. N. A. Klever, "Spinoza's life and works", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridege University Press, 1996), pp.13-60
・Wiep van Bunge, Philosopher of Peace: Spinoza, Resident of The Hague (Municipality of The Hague, 2008)


さて、スピノザさんはポルトガル系のユダヤ人移民の息子として、1632年にアムステルダムのWaterlooplein(ウォータールー広場)の近くで生まれました。
23歳のとき(1656年)に、理由はよく分かっていないらしいのですが(彼の自由な思想が原因とも金銭的なこと(=シナゴーグへの税の不払い)が原因とも言われています)、スピノザさんはポルトガル系ユダヤ人のコミュニティーから破門されてしまい、結果、彼はアムステルダムのユダヤ人たちとのコミュニケーションをすべて断たれます。

このスピノザさんを破門したポルトガル系ユダヤ人のシナゴーグ(Portuguese Synagogue)がWaterloopleinの近くにあります。



このシナゴーグができたのは1675年なので、スピノザさんを破門したときにはまだここには建っていません。
でも、スピノザさんを破門したポルトガル系ユダヤ人コミュニティは継続していて、このシナゴーグを利用しているようです。

実はシナゴーグを見るのは初めてなので、このシナゴーグが他と比べてどうなのかはよく分からないのですが、当時のユダヤ人たちのお金持ちっぷりが分かる、大きくて立派な建物でした。
シナゴーグの中には入りませんでしたが、後ろに回ってみると、銅像(ユダヤ人の苦難を示しているのか?)が建っていました。




ちなみに、ユダヤコミュニティから破門される前後から彼はFranciscus van den Endenという人からラテン語と無神論思想について学び始めます。
この先生からスピノザさんが受けた影響はものすごく大きくて、「いわゆる「アムステルダム・スピノザサークル」は、むしろ「Van den Endenと彼のサークル」と呼んだ方が良い」(M.Bedjai, 1990(quoted in Klever, 1996:26))とする研究者もいるほどなので、ファン・デン・エンデンさんのお墓も訪れておかなければと思ったのですが、彼はパリで亡くなっていてお墓もパリにあるようです。
パリに行く機会があればお墓参りしておこう。


(投稿者:Ren)

Fritz Scharpf, Governing in Europe (Oxford University Press, 1999)

2015年05月01日 | 
以前紹介したPolitics in the Age of Austerity (2013)で読んだFritz Scharpfさんの論文がとても刺激的だったので、そこに引用されていた彼の著書を読んでみました。

Fritz Scharpf, Governing in Europe: Effective and Democratic? (Oxford University Press, 1999)



僕が本書を手に取った動機は、上記の論文で触れられている「input-oriented legitimacy」と「output-oriented legitimacy」についての議論が詳細に展開されているのではないかと期待したからですが、これらの概念については第1章で少し語られるだけでした。

著者によれば、input-oriented legitimacyは「government by the people」を強調し、output-oriented legitimacyは「government for the people」を強調するもの(p.6)。
両者は相補って政府に正統性を付与すると著者は主張するのですが(その通りだと思うけど)、両者の関係をどう考えていけばいいのか僕にはいまいちよく分かりませんでした。

たとえば、アウトプットを強調したとして、そのアウトプットが適切かどうかは結局民主的プロセス(「input」)で判断せざるを得ないし、アウトプットの実現が正統性を付与するとしてもアウトプットだけで(インプットを無視して)国民がその政府に正統性があると感じるとは思えない。
インプットとアウトプットのバランスが必要だということになると思うけど、本書からはそのバランスのとり方についての指針を読み取れませんでした。

しかし、著者からすれば、「それは本書の主題ではない」ということになるのかもしれません。
著者が本書でしたことは、欧州統合をnegative integration(貿易の自由化を阻むものを除去)とpositive integration(経済規制のシステムの再構築)に分けて把握(pp.45-46)し、前者の進展に比べて後者が停滞していることを指摘して後者をどうやって進めていけばいいのかを考察したこと。
具体的には、当初加盟国が条約を締結した段階では想定していなかった分野・程度までnegative integrationが進んだ背景として欧州委員会や欧州司法裁判所の働きがあったように、positive integrationでもこれら機関によるlegal integration(実効的な合意調達が困難な政治による進展ではなく)を活用すべき、と主張します(p.200-201)。

それがinput-orientedの観点から言うとlegitimacyをより一層欠いてしまうのは明らかではあるものの、上記機関がより欧州の人たちの公益を実現できるとすればoutput-orientedの観点からのlegitimacyを獲得できる。
この意味でinput-orientedとoutput-orientedの関係とかバランスのとり方が重要になってくるはずなので、この議論が不十分に見えることが僕には残念でなりませんでした。

でも、positive integrationを進めていく際に、経済的・社会的・文化的に条件が多様な加盟国を単一の制度の下におくことの弊害を認識して、福祉国家政策については「福祉国家レジーム」別に、産業関係については「資本主義の型」別に、環境規制については富裕な国とそうでない国と分けて統合を考えていくアイディア(第4章&第5章)は興味深く読みました。
実際には各国がどのグループに入るかについて、そう簡単に合意できないだろうなとは思うけど。

(投稿者:Ren)