SakuraとRenのイギリスライフ

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Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities

2017年05月07日 | 
前回からかなり間を空けてしまいましたが、ゴールデンウィークのおかげでようやく「この本は紹介しておかねば!」という本を読み終えることができました。
今日は、Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities (The University of Chicago Press, 1985)をご紹介します。



本書は1985年と、30年以上も前に出版された本ですが、今なお読むに値する本だと思います。
そのように思う理由には2つあって、その1つ目が、本書の問題設定。
本書は多くの人が自明視している、家族や友人やクライアント等への特別な責務の根拠を問い直すところからスタートします。
この論点については、多くの優れた哲学者たちでさえも、見知らぬ人よりも家族を優先するのは当たり前、というようなことしか言っておらず、ここに着目した著者のセンスは素晴らしい、と感銘を受けずにはいられませんでした。

2つ目が、それを解明していく際の方法論(pp.9-10)。
著者は反照的均衡プロセスの応用により、論述を進めていきます。
すなわち、私たちの社会において共有されている道徳のルール(何が良いとされ、何が悪いとされているか)の本質を暴き、それを参照しながら一般的ルールを導きだします。
そして、それをより普遍的に、より広く適用すべきことを著者は説くのです。
この「社会において共有されている道徳のルール」を見るときに、著者は法に注目する(法はその社会の道徳的な直観を公式に定式化したものだ(p.50)、と著者は主張します。)のですが、政治哲学、政治理論を極めて実証的に論じるスタイルが、僕にとって、とても新鮮でした。

さて、このような方法論で著者が見出した、家族や友人、クライアント等への特別な責務の存在と、他の道徳的ルールが衝突しないような原理こそが、「protecting the vulnerable」(無防備な者の保護)の原理です。
(※ vulnerableは「脆弱性」と訳されることが多いのですが、著者は、私たちの行動や選択に依存している存在のことを指してvulnerableと呼んでいるように思われるので、仮に「無防備」と訳すことにしました。)

たとえば、被用者は雇用者に対して、消費者は企業に対して、患者は医者に対して、交渉力の格差や情報の非対称性等によってvulnerableな立場であるから、優位に立っている者(雇用者、企業、医者)は特別な責任を負うことになるし、子は成長するまでは親の庇護がないと生存できないという意味で、年老いた親は赤の他人ではなく自分の子に援助されることで情緒的な結びつきを確認できるという意味で感情的に、また友人同士は信頼することによってお互いに、vulnerableであるから、親、成長した子、友人は特別な責任を負う、ということが主張されます。

このように、vulnerabilityは物質的のみならず心理的な事柄についても言える関係的概念で、①その人又はそれは、何に対してvulnerableなのか(何があれば、その人又はそれが被るかもしれない害は避けられるのか)、②その人又はそれは、誰に対してvulnerableなのか(誰がその人又はそれに害を及ぼそうとしているか)が問われ、これらに関する一貫したルールとして、著者は以下の原理を提示します。

<個人責任の第一原理>(p.118)
Aの利益がBの行動や選択に対して無防備であるとき、BはAの利益を守る特別の責任を負う。その責任の強さは、Bがどの程度Aの利益に影響を与えられるかに依存する。

<集団責任の原理>(p.136)
Aの利益がある集団の行動や選択に対して無防備であるとき、それが誰か一人の行動で足りるときであれ、全員のまとまった行動が必要なときであれ、その集団は集団による調整された計画を策定し、実行し、Aの利益を守る特別の責任を負う。

<個人責任の第二原理>(p.139)
Bが集団責任の原理によってAに特別の責任を負う集団の一員である場合、当該Bは以下の特別な責任を負う。
a. Aの利益を守る行動を集団が行うよう取り計らう。
b. その集団が計画したことにのっとって、彼自身に課せられた責任を完全かつ効率的に遂行する。

さらに、これら原理を、福祉国家の正当化、外国への援助、将来世代への責務、動物の権利、自然環境の保護等の諸論点を考える際にも適用させるべきことを著者は主張します。
30年前に書かれた作品なのに、現在の法哲学・政治哲学で盛んに論じられている(と僕が勝手に思っている)テーマがたくさんここに登場していて、驚かされました。


無防備な者の保護という原理は、多くの道徳理論でその根拠が十分に追及されてこなかった、様々な特別な関係にある者への責任を包み込むことができる極めて魅力的なものだと思いましたが、その導出が徹底的に内在的(その社会における道徳的直観がどういうものなのかが詳細に分析され、一般化されているという意味で)であるがゆえに、そもそもその道徳は適当なのか、という外在的批判にどれほど頑健なのか、「私たちの文化」以外の文化圏における道徳について、この原理は妥当するのかといった疑問がすぐにわいてしまうところです。
また、著者は「より自らの行動や選択にvulnerableなものを優先せよ」という指針は示すものの、対立競合する配慮の対象があったときに、それらの利益の考慮をどう重みづけするべきかについては別の道徳原理(功利主義であればすべてを平等に扱う、ロールズ主義であれば最も不利なものを有利にする、などと言って(p.111))に譲っているのですが、そうだとすると、protecting the vulnerableの射程はどこまでで、それはなぜなのかも気になってしまいます。

(※ たとえば、著者は、ある個人Bは自分自身の行動や選択に対してものすごく無防備(uniquely vulnerable)なので、Bが自分の利益を守るための責任を負うこともあると、ある箇所(p.118)で主張するのだけれど、これは自分を他者に優先するときの正当化根拠になってしまって(「そこに溺れかけた人はいるけど、アイスクリームを食べ始めたらそれを最後までゆっくり味わうことは誰にも譲れない、人生における信念だ!だから、その人を助けることはしない」とか。溺れかけている人は、その人の近くにいるこの人が助けることが可能であるという意味で、この人に対して疑いようなくvulnerableではあるけど、この人の信念はこの人自信でしか守ることができないという意味で、この人も自分自身の選択に対してvulnerableだと主張し得る。)、エゴイストなどはそれを援用して常に自分を優先することになる。
 これを不当であるとするとき、protecting the vulnerableではない別の原理によってそれを主張することになるけれども、そうした場合に、protecting the vulnerableと衝突していないか。)

こうした疑問もないわけではないけれども、テーマの設定や方法論の新鮮さ、理論自体の魅力は、この本が今なおもっと多くの方に読まれるべき理由として十分過ぎると思います。
やたらと長い脚注がたくさんあったり、その脚注と同じことをほんの少し後の本文で書いていたり、スペルミスが散見されてこれはどういう意味だろうと悩まないといけなかったりと、そこまですごく読みやすい本ではありませんでした(平易に書こうと恐らくされているおかげで、難解というわけではありません)が、とても刺激的で面白く、読了時の満足度が高い本でした。

(こんなに素晴らしい本だと思うのに、この本の主張について立ち入った検討・紹介がなされている日本語の論文・著作を見かけないような気がするのは、なぜだろう。実は素晴らしいと思うのは僕だけで、本当はそんなに大したことないということだったりするのでしょうか・・・。)

(投稿者:Ren)