SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Cecilia L. Ridgeway, Framed by Gender (Oxford University Press, 2011)

2018年10月15日 | 
ここ最近、セクハラだったり入試における女子生徒の差別的取り扱いだったりと、ジェンダーの問題に関わるニュースをよく見聞きします。
これらの問題について考える上では、まず一歩引いて、基礎的なことを知っておくことが有益ではないか。
ということで、この度読んだのが、この本でした。



Cecilia L. Ridgeway, Framed by Gender: How Gender Inequality Persists in the Modern World (Oxford University Press, 2011)。

経済や政治等の環境の変化もあって、女性が男性と同じくらい働くようになってきたり、性別による差別が禁止されているにもかかわらず、なぜ米国においてジェンダー不平等が残っているのかを明らかにすることが、本書における著者のモティベーションです。
著者はこの問題を考えるにあたり、我々が他者と関わるときに無意識に、自動的に、相手を男であるか女であるかをまず判断する、ということに着目します。

著者は、人間は、自分や他者をなんらかのカテゴリーに属するものとしてから、他者とコミュニケーションをとったり、自分がどう振る舞うべきかを考えるのだけれど、そのようなカテゴリーの中で最も基礎的なものの1つが性別だ、と言います。
人種や階級などと違って性別が重要であるのは、男と女はあらゆるセクターにまたがって存在しており、両者は相互に関わることが非常に多いということ、そして、生殖のためにお互いがお互いを必要とするということがあるから。
我々は、他者が現れたときに、まず、その人が男なのか女なのかを判断することから関係を始め、それがうまくいかないと当惑を覚える。
本書のタイトルは、この点、すなわち、我々の社会が、ジェンダーというフレームによって構築されていることを指したものです。

ジェンダーというフレームがあることは、しかし、それが必然的に不平等な関係をもたらすとは限りません。
しかし、なんらかの原因(それを解き明かすことは本書の任務ではないといいつつ、著者は男性の身体的強靭さや女性が子供を産んだり授乳したりすることによる身体的制約を要因の一部として挙げています)で不平等が生じ始めると、片方の性が継続的に、体系的に有利な状況が作られ、それが現在にまで至っている。
それが、一般的に男性の方が能力があるという信念だったり、男女で適性がある仕事の種類が異なっているというステレオタイプだったり、男性はより積極的で女性はより気遣いができるという主張だったり。
これらが女性を仕事においても家庭においても不利な立場に置き、それがいかに維持されているか、ということを、社会学、社会心理学、組織行動論の理論と実証研究を豊富に引用しながら、論じていきます。

仕事におけるジェンダーバイアスとしては、
・使用者が労働者を募集する際に、その仕事に必要な性質や能力を既存のジェンダーバイアスに沿って考えやすく、「男性的」な職場では女性はあまり雇われない、
・人は自分と似ている人を好む傾向にある(in-group bias)ので、不確実性のある状況で上司は自分が頼りにできる部下を探す。その「頼りにできる」人は、自分に似た人であることが多く、同性の人が出世しやすくなる。マネジメントの地位にいるのは男性が多いので、ますます男性が出世しやすい、
・母親であるということだけで、能力や仕事へのコミットメントの度合いを疑われてしまい、男性よりも能力がかなり高くないと雇ってもらえない。一方、男性は父親であるだけで、強いコミットメントを評価される、
といったことなどが論じられ、
家庭におけるジェンダーバイアスとしては、
・家事育児時間の格差に影響する要因は、仕事のあるなしや賃金の多寡などたくさんあるけれども性別が最も強い説明力を持っていること、
・家事の中でも、より頻繁に行わなければならないようなコアな部分、すなわち料理、皿洗い、掃除などは女性がものすごくたくさんしているが、男性は、庭仕事などのように、そんなに頻繁にしなくても良いことをより行っている
・妻の家事時間を減らす大きな要因は、妻の収入。妻の収入が上がっても夫の家事時間が増えるわけではなく、妻の収入から外部委託(家事サービスや子供のケアなど)のお金が支出されるだけ。
・結婚し、特に子供ができると、女性のソーシャルネットワークは狭くなってしまい、家族以外の人とのコンタクトが少なくなる(男性は逆にネットワークが大きくなる)。外部の人たちとのコンタクトが減ることで情報や様々な機会を制限されてしまい、この悪影響が生涯の収入やキャリアの成功に響く、
といったことなどが書かれていました。

こういうジェンダーバイアスは、また、人々の自分が期待しているものや見たいものしか見ないというconfirmation biasや、あるいは社会の多くの人がそのようなジェンダーバイアスを持っていることを知っているので、そこから外れた振る舞いをすると非難されてしまうということもあって、経済社会や政治といった環境が大きく変化しても、このバイアスの変化にはラグがある、と著者は指摘します。
しかし、だからと言って、不平等が永続することは避けられないのかというと、そうではなくて、著者は、ジェンダーに紐づいた信念を薄くする戦略と、ジェンダーが重要な意味を持つ領域を狭くしていく戦略を提唱します。
前者については、現状、男女それぞれが得意なものがあると言ったとしても、現実には男性がより多く従事しているタスクの方がより高く評価されているので、男性的とされるタスクと女性的とされるタスクの価値をイコールにする必要があるとします。
具体的には、ケア提供の価値をもっと高めるべきで、そのためには男性がもっとルーティンな家族のためのケア提供にもっと参画するようにすべきだと主張します。
後者については、女性がもっと職場に進出することと、現在典型的に女性がついているような仕事に男性がもっとつくようにして、仕事をジェンダー中立的なものとすべきとします。

つまり、まとめると、
・男性がもっと基礎的な家事をするようにすべき
・女性が「男性的」な仕事にもっとつけるようにすべき
・もっと多くの男性が「女性的」な仕事につくようにすべき
ということで、少なくとも上の2つは日本の課題と同じなのかなという感想を持ちました。
最後の1点はとても重要なのだけど、「女性的」な仕事(典型的にはケア提供)は、往々にして評価だったり賃金が低く設定されているので、この分野の賃上げが実現しないと難しいのではないかなと思いました。

本書は、人々がジェンダーというフレーミングで世界を見ているということから現在のジェンダー構造を明らかにするという点では、とても分かりやすくて良かったのですが、政策論というところでいうと、具体性がもう一歩で、「じゃあ、この構造を変えるためには何をしたら良いのか」という最も重要な問いには十分に答えられていないように思いました。
ただ、政策論を考えるためには、現在の不平等がどういう仕組みで成り立っているかが分かっていることがとても重要。
この本の内容を踏まえると、経済学や政治学などで提案されている政策提案がよりよく理解できるのではないかと期待しています。

世界の見え方が変わる、楽しい読書ではあったものの、コアなルーティンの家事を男性は全然していない、という指摘は僕にぐさりと突き刺刺さりました。
もっと家事を頑張ります。

(投稿者:Ren)

Alice H. Eagly and Linda L. Carli, Through the Labyrinth (Harvard Business Review Press, 2007)

2018年08月19日 | 
だいぶ久しぶりになってしまいましたが、今回も本の紹介です。
Alice H. Eagly and Linda L. Carli, Through the Labyrinth: The Truth About How Women Become Leaders(Harvard Business Review Press, 2007)



「Labyrinth」とは、女性が置かれている状況を表現する比喩として著者が提案するものです。
よく「ガラスの天井」(glass ceiling)という言葉が使われますが、この言葉はもう現実をうまく表現できていない、と著者は言います。
ガラスの天井とは、女性たちが順調に昇進して行っても、どこかの段階でそれまで見えなかった壁にぶち当たり、上に行けなくなることを表していましたが、いまや様々な分野でトップの地位についている女性は少なくない。
「The glass ceiling had broken」(p.6)。でも、やはり依然として女性がリーダーになるには障害がたくさんあって、成功する道を見つけることは難しい。
そこで、著者は、女性たちがリーダーになっていくために必要なルートを「迷宮」と名付けるのです。

女性がリーダーになる上での障害はいくつもある中で、本書が明確に否定するのは、一部の進化心理学者たちが主張する、男性は生まれつきリーダーに適しているから、女性よりも男性の方がリーダーになることが多い、というもの。
そのエビデンスの弱さや、それら理論の矛盾などを指摘し、リーダーとして成功する心理的な特性はいくつかあるけれど、それらは「男性的」とされているものもあるし、「女性的」なものもあることを示します。

進化心理学からの議論を丁寧に反論した上で、本書は残りのバリアーたち、すなわち家事育児への責任、女性差別、偏見、女性がリーダーになることへの拒否反応、会社組織の働き方などについて、女性がどういう状況に置かれているかを膨大な研究と、それに関わる一般書や新聞・雑誌の記事の引用を行いながら描きます。
なお、本書は、研究論文を注で説明する一方、一般書などの引用(大きな会社のCEOなどの回顧録や発言)を本文で書いてくれていることもあって、とても読みやすく、分かりやすい文章になっていると思いました。
英語の文章に拒否感がない方なら、楽しんで読み進めることができる本なのではないかと思います。

さて、本書で僕が最も意外に思ったのは、米国の企業の働き方を描く箇所でした。
著者によれば、企業には「an implicit model of an ideal employee」があるとのこと(p.139)。
それによれば、社員は長時間労働を行い、そのほか会社の利益になるために個人の犠牲を厭わないことが期待されている。
本書で引用されている社会学者のLewis Coserの1970年代の文章では、会社は労働者に「exclusive and undivide loyality」を求めていることが書かれていますが、それは最近さらにextremeになってきており、ある会社の女性幹部はこう述べているそうです。「幹部クラスになると、会社は実際にその人を所有するようになる。」(p.140)
また、昇進の条件の一つに、転勤を何度かすることがある(少なくない女性は家族との関係でそれが難しいので、昇進ができなくなる)ことも書いてあったりして、日本の会社員が置かれている状況とあまりにも似ていることに驚きました。

雇用システムは、欧米は「ジョブ型」である一方、日本は「メンバーシップ型」であり、それが日本で雇用分野における男女平等がうまく進んでいないことの理由の一つである、と濱口桂一郎さんの議論を参考に考えていたのですが、そんなに単純な話ではないということですね。
おそらく僕が濱口さんの議論を勝手に単純化して理解していただけだと思うので、もう一度丁寧に濱口さんの本を読んで、この問題を考えてみようと思いました。

現在のジェンダー差別構造を受け入れているという批判はあるかもしれないが、そんなに簡単に現実は変わらないし、女性リーダーが増えることで現実を変えることが可能だ、と主張しつつ、本書は、リーダーになろうとする女性に2つのアドバイスをします。
1つは、blending agency with communion(能動性と親しみやすさをブレンドさせること、とでも訳すのでしょうか?)。
女性リーダーは、親切さとか感じの良さ、思いやりといった、伝統的に女性に期待された特性を示すだけでは、リーダーとしての強さが欠如しているとか、自己主張が弱いとかと批判されてしまう一方で、あまりにもこうした「男性的」なリーダーシップを発揮しようとすると、今度はそれはそれで女性として期待される温かみがない、などと反発されてしまう。
男性リーダーはそういう苦労はあまりしないとのことですが、女性リーダーは特に両者の狭い道をバランスをとって進まなければならないということのようです。

アドバイスの2つ目は、ソーシャルキャピタルを築くこと。
リーダーになるためには、会社内で様々なレベルの人と積極的に雑談をしたり、交流する中で信頼され、彼らからインフォーマルな情報を集めることが有効になるそうです。
男性が支配的な職場では女性は男性たちの輪の中になかなか入れないかもしれないけど、積極的に交流をして、ネットワークを社内でに作っていくことが大切だ、と著者は主張します。
Renは男性ですが、これらのアドバイスは男性にも有益なのではないかなと思いました。


久しぶりにブログを書くとうまく文章を紡げなくて、本書の魅力を全然伝えられませんでしたが、社会における女性が置かれている状況をたくさんの論文に基づいて説明してくれる本書は、この問題にアプローチするための入門書としてとても有益でした。
文献もたくさん引用されているので、次に読むべきもののあたりをつけることができることも、初心者に嬉しいポイント。
また、本書は、様々なディシプリンから女性がリーダーになることの困難さとその理由を説明していますが、リーダーシップ論にもたくさん言及されていて、これまで1冊もこの分野の本を読んだことがなかった僕にとって、この観点でも大変勉強になりました。

(投稿者:Ren)

Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities

2017年05月07日 | 
前回からかなり間を空けてしまいましたが、ゴールデンウィークのおかげでようやく「この本は紹介しておかねば!」という本を読み終えることができました。
今日は、Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities (The University of Chicago Press, 1985)をご紹介します。



本書は1985年と、30年以上も前に出版された本ですが、今なお読むに値する本だと思います。
そのように思う理由には2つあって、その1つ目が、本書の問題設定。
本書は多くの人が自明視している、家族や友人やクライアント等への特別な責務の根拠を問い直すところからスタートします。
この論点については、多くの優れた哲学者たちでさえも、見知らぬ人よりも家族を優先するのは当たり前、というようなことしか言っておらず、ここに着目した著者のセンスは素晴らしい、と感銘を受けずにはいられませんでした。

2つ目が、それを解明していく際の方法論(pp.9-10)。
著者は反照的均衡プロセスの応用により、論述を進めていきます。
すなわち、私たちの社会において共有されている道徳のルール(何が良いとされ、何が悪いとされているか)の本質を暴き、それを参照しながら一般的ルールを導きだします。
そして、それをより普遍的に、より広く適用すべきことを著者は説くのです。
この「社会において共有されている道徳のルール」を見るときに、著者は法に注目する(法はその社会の道徳的な直観を公式に定式化したものだ(p.50)、と著者は主張します。)のですが、政治哲学、政治理論を極めて実証的に論じるスタイルが、僕にとって、とても新鮮でした。

さて、このような方法論で著者が見出した、家族や友人、クライアント等への特別な責務の存在と、他の道徳的ルールが衝突しないような原理こそが、「protecting the vulnerable」(無防備な者の保護)の原理です。
(※ vulnerableは「脆弱性」と訳されることが多いのですが、著者は、私たちの行動や選択に依存している存在のことを指してvulnerableと呼んでいるように思われるので、仮に「無防備」と訳すことにしました。)

たとえば、被用者は雇用者に対して、消費者は企業に対して、患者は医者に対して、交渉力の格差や情報の非対称性等によってvulnerableな立場であるから、優位に立っている者(雇用者、企業、医者)は特別な責任を負うことになるし、子は成長するまでは親の庇護がないと生存できないという意味で、年老いた親は赤の他人ではなく自分の子に援助されることで情緒的な結びつきを確認できるという意味で感情的に、また友人同士は信頼することによってお互いに、vulnerableであるから、親、成長した子、友人は特別な責任を負う、ということが主張されます。

このように、vulnerabilityは物質的のみならず心理的な事柄についても言える関係的概念で、①その人又はそれは、何に対してvulnerableなのか(何があれば、その人又はそれが被るかもしれない害は避けられるのか)、②その人又はそれは、誰に対してvulnerableなのか(誰がその人又はそれに害を及ぼそうとしているか)が問われ、これらに関する一貫したルールとして、著者は以下の原理を提示します。

<個人責任の第一原理>(p.118)
Aの利益がBの行動や選択に対して無防備であるとき、BはAの利益を守る特別の責任を負う。その責任の強さは、Bがどの程度Aの利益に影響を与えられるかに依存する。

<集団責任の原理>(p.136)
Aの利益がある集団の行動や選択に対して無防備であるとき、それが誰か一人の行動で足りるときであれ、全員のまとまった行動が必要なときであれ、その集団は集団による調整された計画を策定し、実行し、Aの利益を守る特別の責任を負う。

<個人責任の第二原理>(p.139)
Bが集団責任の原理によってAに特別の責任を負う集団の一員である場合、当該Bは以下の特別な責任を負う。
a. Aの利益を守る行動を集団が行うよう取り計らう。
b. その集団が計画したことにのっとって、彼自身に課せられた責任を完全かつ効率的に遂行する。

さらに、これら原理を、福祉国家の正当化、外国への援助、将来世代への責務、動物の権利、自然環境の保護等の諸論点を考える際にも適用させるべきことを著者は主張します。
30年前に書かれた作品なのに、現在の法哲学・政治哲学で盛んに論じられている(と僕が勝手に思っている)テーマがたくさんここに登場していて、驚かされました。


無防備な者の保護という原理は、多くの道徳理論でその根拠が十分に追及されてこなかった、様々な特別な関係にある者への責任を包み込むことができる極めて魅力的なものだと思いましたが、その導出が徹底的に内在的(その社会における道徳的直観がどういうものなのかが詳細に分析され、一般化されているという意味で)であるがゆえに、そもそもその道徳は適当なのか、という外在的批判にどれほど頑健なのか、「私たちの文化」以外の文化圏における道徳について、この原理は妥当するのかといった疑問がすぐにわいてしまうところです。
また、著者は「より自らの行動や選択にvulnerableなものを優先せよ」という指針は示すものの、対立競合する配慮の対象があったときに、それらの利益の考慮をどう重みづけするべきかについては別の道徳原理(功利主義であればすべてを平等に扱う、ロールズ主義であれば最も不利なものを有利にする、などと言って(p.111))に譲っているのですが、そうだとすると、protecting the vulnerableの射程はどこまでで、それはなぜなのかも気になってしまいます。

(※ たとえば、著者は、ある個人Bは自分自身の行動や選択に対してものすごく無防備(uniquely vulnerable)なので、Bが自分の利益を守るための責任を負うこともあると、ある箇所(p.118)で主張するのだけれど、これは自分を他者に優先するときの正当化根拠になってしまって(「そこに溺れかけた人はいるけど、アイスクリームを食べ始めたらそれを最後までゆっくり味わうことは誰にも譲れない、人生における信念だ!だから、その人を助けることはしない」とか。溺れかけている人は、その人の近くにいるこの人が助けることが可能であるという意味で、この人に対して疑いようなくvulnerableではあるけど、この人の信念はこの人自信でしか守ることができないという意味で、この人も自分自身の選択に対してvulnerableだと主張し得る。)、エゴイストなどはそれを援用して常に自分を優先することになる。
 これを不当であるとするとき、protecting the vulnerableではない別の原理によってそれを主張することになるけれども、そうした場合に、protecting the vulnerableと衝突していないか。)

こうした疑問もないわけではないけれども、テーマの設定や方法論の新鮮さ、理論自体の魅力は、この本が今なおもっと多くの方に読まれるべき理由として十分過ぎると思います。
やたらと長い脚注がたくさんあったり、その脚注と同じことをほんの少し後の本文で書いていたり、スペルミスが散見されてこれはどういう意味だろうと悩まないといけなかったりと、そこまですごく読みやすい本ではありませんでした(平易に書こうと恐らくされているおかげで、難解というわけではありません)が、とても刺激的で面白く、読了時の満足度が高い本でした。

(こんなに素晴らしい本だと思うのに、この本の主張について立ち入った検討・紹介がなされている日本語の論文・著作を見かけないような気がするのは、なぜだろう。実は素晴らしいと思うのは僕だけで、本当はそんなに大したことないということだったりするのでしょうか・・・。)

(投稿者:Ren)

Jeremy Moon, Corporate Social Responsibility: A Very Short Introduction (Oxford University Press)

2017年01月05日 | 
意識的に英語を読むようにしているRenですが、一向に英語を読むスピードは速くなりません。
でも、ゆっくりとしか読めないからこそ、丁寧に読むことにもつながります。
(逆に、日本語の本だと、飛ばし読みしてしまって、頭の中にあまり残らない、ということも少なくありません。)
こういう利点があるから、門外漢の分野の本を読むとき、あえて英語の本を選ぶのも悪くありません。

ということで、日本語の入門書ですらこれまで一冊も読んだことがない、CSRについて書かれた本である、Jeremy Moon, Corporate Social Responsibility: A Very Short Introduction (Oxford University Press, 2014)を今日はご紹介したいと思います。



本書は、CSR(企業の社会的責任)という概念について、その理論的フレームワーク、その系譜(前史、アメリカにおける発展、近年における世界的な広まり)、それが近年特に注目されるようになった背景、その限界、等々といったことをコンパクトでありながらとても分かりやすく説明するものです。
冒頭に書いたように、僕はCSRについて「なんとなく聞いたことがある」レベルの知識しかなかった(それで「知識」と言えるかは措くとして)のですが、
・もともとフィランソロピーだったり従業員のための施し的なものとして始まったCSRが、どんどんその対象を拡げ、またそれが企業にとってのソフトな規制になっていく(ハードな法的規制をかけなくても、政府は企業に社会的に責任のある行動を行わせることができる)こととか、
・企業が激しい人材獲得競争を行う中でCSRに熱心に取り組んでいることが有利に働く(人は社会に貢献したいという欲求を持っているので、その企業がCSR活動に熱心なことは被雇用者のモチベーションアップにつながる)こととか、
・欧州においては米国とは異なり民衆の株式保有が少なく、企業は銀行や家族によってファイナンスされていたため、「大企業は社会的責任を果たすべきだ」という意見は強くなく、また戦後、コーポラティズムの枠組みで、企業は環境、教育を含む様々な政策領域において政府の政策にコミットしていたという事情があって企業のCSR活動は米国と比べて活発ではなかったが、近年になって公共目的の直接の政府行動が相対的に低下してきたことやマネジメントの理論と実践の標準化を背景に、欧州においてもCSRが急速に求められるようになってきたこととか、
・今後の課題として、企業のCSR滑動のアウトカムを評価するためのツールやシステムを開発していくことが指摘されていることとか、
非常に興味深く、感心しながら読み進めることができました。

おそらく本書の特徴は、著者がもともと政治学をバックグラウンドを持つ人であることなのではないかと思います。
著者のプロフィールによれば、もともと著者がCSRに興味を持ったのは、1980年代前半に大量の失業者問題に対する公共政策を研究していたときのことであるとのこと。
http://www.cbs.dk/en/research/departments-and-centres/department-of-intercultural-communication-and-management/staff/jmoikl#profile
その関心を反映して、本書もCSRを政府の活動との関わりで論じるところが少なくありませんでした。

それは、僕のように政治学が専門の読者にとってはとっつきやすいし、分かりやすい(し、すごく面白かった!)のだと思うのですが、もっぱら経営学的な興味で本書を手に取る人にとっては不満を抱くところなのかもしれません。
事実、企業の営利活動やブランド戦略とCSRがどのように結びつくか、という観点の論述は、もちろんなかったわけではないものの、当初予想していたよりも薄かったように思います。
本書を読んでCSRに俄然興味が湧いてきたので、次は経営学的側面に力点を置いた本も読んでみたいと思いました。

(投稿者:Ren)

Kathleen R. McNamara, The Currency of Ideas (Cornell University Press, 1998)

2016年11月27日 | 
このところ、本の感想をブログにアップするのをサボっていました。
一度期間が空いてしまったために再開するハードルが高くなってしまっていましたが、ブログに感想をアップした本と読みっぱなしの本では自分の記憶への定着率が全然違うので、頑張って少しずつ、再開しようと思います。


今回は、Kathleen R. McNamara, The Currency of Ideas: Monetary Politics in the European Union (Cornell University Press, 1998) について、今後のハードルを上げないためにも短くご紹介します。


本書は、戦後の欧州においてなぜ通貨統合(monetary integration)が進展したのかを解明しようとしたものです。
ブレトンウッズ体制、ブレトンウッズ体制の崩壊を受けて為替の安定を実現しようとしたSnake、Snakeの失敗を活かして合意されたEMS(European Monetary System)を丁寧に振り返りながら、著者は、エリートのコンセンサスがEMS発足には重要であったことを示します。
この意味で、本書は政治学においてアイディア(理念)を重視する研究の系譜にあるものです。

本書によると、戦後欧州のエリートたちに為替が安定していることが望ましいというコンセンサスが強固に存在していた中で、オイルショックを経て、下記のような新しいコンセンサスが生まれたといいます。
①オイルショック後、ケインズ政策は機能していないという理解
②マネタリズムというオルターナティブが存在するという認識
③ドイツはマネタリズム政策を実行し、成功したという認識

欧州の各国について、このコンセンサスがどのようにできていったかを、各国が置かれた外的要因や政策変化を分析しながら、本書の論は進んでいきます。
本書の結論は、このところの反EUの主張の高まりを考えると、まるで不吉な予言のようになっています。
すなわち、本書において著者は、エリートたちの理念におけるコンセンサスが通貨統合への熱意を生み出し、持続させ、EMS発足につながったのだと主張しますが、一方で、このプロセスには民主的なレジティマシーが欠如していると指摘します。
そして、欧州統合は外的要因によって強いられてきた(他に選択肢はなかった)ものだと思われるかもしれないけれども、実は本書で示されたように、これまでの道は政治によって選ばれてきたのだから、違う道を歩むことも政治の判断によって可能である、従って、これからの欧州統合は民主的なレジティマシーを確保しながら進めていくことが課題となる、と著者は示唆します。

現在欧州で反EUの主張がこれほど強くなってしまっている背景や理由について僕はまだよく分かっていませんが、もしかすると、本書において示唆されている、エリートと民衆が乖離したままエリート間の合意が先行する状況は変わっておらず、これがEUへの不信感を高まらせてしまったのかもしれない、と本書を読みながら思いました。

本書は、戦後の国際政治経済史がとても分かりやすく整理(マンデルが指摘した国際経済のトリレンマを中核において)されているので、欧州から見た戦後国際政治経済史に興味がある人も面白く読めるんじゃないかと思います。
ただし、政治が重要(politics matter)であることはとても説得的に描かれているものの、アイディアがどのように重要なのかについての理論的説明はそこまで丁寧にはなされておらず、理論的な興味が強い人には若干不満が残るかもしれません。

(投稿者:Ren)

Christoffer Green-Pedersen, The Politics of Justification (Amsterdam University Press, 2002)

2015年05月20日 | 
表紙が美しくて全冊買い揃えたくなってしまうAmsterdam University Pressのシリーズ「Changing Welfare States」の第1冊目、Christoffer Green-Pedersen, The Politics of Justification: Party Competition and Welfare-State Retrenchment in Denmark and the Netherlands from 1982 to 1998 (Amsterdam University Press, 2002)を今日は簡単に取り上げたいと思います。



本書は福祉国家縮減の政治をデンマークとオランダを比較しながら論じたものです。
OECD各国が経済社会のあり方を新しい経済環境に適応させるのに苦労する中、デンマークとオランダはそれに成功した例とみなされている。
両国は同じくらい充実した福祉国家制度を持ち、同じような経済的問題に直面したにも拘わらず、改革の行われ方やその程度には違いがあった。
その理由を著者は両国の政党政治の形態(政党がどういう形で競合しているか)に求めます。

具体的には以下の通り。
著者は政党の競合の形として、大きく「bloc system」と「pivot system」に分けます。
bloc systemとは、政党が左派の集団と右派の集団に大きく分かれていて、中道の政党(キリスト教民主主義など)は存在しないか極めて限定的な役割しか果たさないようなシステム。
pivot systemとは、中道の政党が過半数を取らないけれどもかなり強く、政権は中道+右派or左派で構成されるようなシステム。

前者(bloc system)では左派が政権を取るか右派が政権を取るかで社会保障政策の縮減が行われるかどうかが決まる。
右派政権において彼らが社会保障政策を縮減しようとすると、左派はそれを強く批判します。
その政策が社会保障制度をより強力にするために必要なんだと彼らが主張しても、選挙民は右派は彼らのイデオロギー的な目標の達成のために福祉切り捨てをしようとしているんじゃないかと疑う(左派のおそらくイデオロギー的な批判もその疑義を煽る)。
その性質上不人気な社会保障縮減政策は、このような環境の下では選挙民からの納得を得られにくく、そのため、右派政権においては社会保障縮減は行われにくい。

ところが、左派政権においては「Nixon goes to China」の論理が働く。
すなわち、選挙民は、福祉を大切にする左派政権が社会保障政策縮減を唱えるのだから、それは社会保障制度の強化を本当に志向しているんだろうと思いやすい。
一方で、自分たちのイデオロギー的立場に一貫性を持たせようとするならば、野党の右派は社会保障縮減に強く反対しにくい。
そのため、左派政権においては右派政権と社会保障縮減についてコンセンサスが得られやすく、改革がスムーズに進む。

pivot systemでは、中道のキリスト教民主主義政党が社会保障縮減しようと思うかどうかがポイントになります。
キリスト教民主主義政党は、選挙民から社会保障縮減について理解を得ないと選挙で大敗してしまうので、その意図が社会保障制度の強化にあると思ってもらうためにも左派と組んで改革を行う。
右派も左派も自力で政権を取れないことは分かっているので、キリスト教民主主義政党にあまり強く反対して自ら政権から遠ざかるのは得策ではない。
そのため、左派と組むことにそれほど大きなハードルはないし、右派もそんなには反対しない。
著者はpivot systemのほうがbloc systemよりも社会保障縮減政策が進みやすいだろうと予測します(中道の政党が決意しさえすればいいので)。

実証部分は、bloc systemのデンマークとpivot systemのオランダの1982年から1998年までの実際の改革をなぞり、この予測がどのくらい適切かを確かめることになります。

本書のポイントは、福祉国家縮減の成否を選挙民への正当化(justification)がどれほど成功するかに求め、その正当化戦略が政党間競合のあり方によって影響を受けるとしたこと。
その意味で、本書を一言でまとめると「politics matter」ということになります。
疑問点をあえてあげるとすれば、著者は政府によるその正当化が説得力を持っていたのか、あるいはなぜそれが説得力を持っていたかを十分に説明できていないように思えることじゃないかと思います。
それを解明するには、「あなたはなぜこの政権の社会保障改革に反対じゃなかったんですか?」というようなサーベイをしなくてはいけなくなりそうだけれども。


本書は著者の博士論文の「significantly revised version」とのこと。
いずれ博士論文を書かないといけない僕にとって、内容はもちろんですがそれ以上に本文の構成のされ方が興味深かったです。(これは取り入れたいというところと、そうでないところと。)
また、比較的さらっと書かれてはあったけど、社会保障の縮減をoperationaliseする際にはその方法及びデータの収集両面において本当はかなり骨を折ったんだろうなと思って、頭が下がりました。

(投稿者:Ren)

Fritz Scharpf, Governing in Europe (Oxford University Press, 1999)

2015年05月01日 | 
以前紹介したPolitics in the Age of Austerity (2013)で読んだFritz Scharpfさんの論文がとても刺激的だったので、そこに引用されていた彼の著書を読んでみました。

Fritz Scharpf, Governing in Europe: Effective and Democratic? (Oxford University Press, 1999)



僕が本書を手に取った動機は、上記の論文で触れられている「input-oriented legitimacy」と「output-oriented legitimacy」についての議論が詳細に展開されているのではないかと期待したからですが、これらの概念については第1章で少し語られるだけでした。

著者によれば、input-oriented legitimacyは「government by the people」を強調し、output-oriented legitimacyは「government for the people」を強調するもの(p.6)。
両者は相補って政府に正統性を付与すると著者は主張するのですが(その通りだと思うけど)、両者の関係をどう考えていけばいいのか僕にはいまいちよく分かりませんでした。

たとえば、アウトプットを強調したとして、そのアウトプットが適切かどうかは結局民主的プロセス(「input」)で判断せざるを得ないし、アウトプットの実現が正統性を付与するとしてもアウトプットだけで(インプットを無視して)国民がその政府に正統性があると感じるとは思えない。
インプットとアウトプットのバランスが必要だということになると思うけど、本書からはそのバランスのとり方についての指針を読み取れませんでした。

しかし、著者からすれば、「それは本書の主題ではない」ということになるのかもしれません。
著者が本書でしたことは、欧州統合をnegative integration(貿易の自由化を阻むものを除去)とpositive integration(経済規制のシステムの再構築)に分けて把握(pp.45-46)し、前者の進展に比べて後者が停滞していることを指摘して後者をどうやって進めていけばいいのかを考察したこと。
具体的には、当初加盟国が条約を締結した段階では想定していなかった分野・程度までnegative integrationが進んだ背景として欧州委員会や欧州司法裁判所の働きがあったように、positive integrationでもこれら機関によるlegal integration(実効的な合意調達が困難な政治による進展ではなく)を活用すべき、と主張します(p.200-201)。

それがinput-orientedの観点から言うとlegitimacyをより一層欠いてしまうのは明らかではあるものの、上記機関がより欧州の人たちの公益を実現できるとすればoutput-orientedの観点からのlegitimacyを獲得できる。
この意味でinput-orientedとoutput-orientedの関係とかバランスのとり方が重要になってくるはずなので、この議論が不十分に見えることが僕には残念でなりませんでした。

でも、positive integrationを進めていく際に、経済的・社会的・文化的に条件が多様な加盟国を単一の制度の下におくことの弊害を認識して、福祉国家政策については「福祉国家レジーム」別に、産業関係については「資本主義の型」別に、環境規制については富裕な国とそうでない国と分けて統合を考えていくアイディア(第4章&第5章)は興味深く読みました。
実際には各国がどのグループに入るかについて、そう簡単に合意できないだろうなとは思うけど。

(投稿者:Ren)

Bo Rothstein, Just Institutions Matter (Cambridge University Press, 1998)

2015年04月05日 | 
今日はBo Rothstein, Just Institutions Matter: The Moral and Political Logic of the Universal Welfare State (Cambridge University Press, 1998)を取り上げたいと思います。



本書は、1994年にスウェーデン語で出版された、Vad bor staten gora? Om valfardsstatens politiska och moraliska logik (SNS forlag)の英訳。
タイトルをそのまま翻訳したWhat Should the State Do?が本書全体のモチーフになっています。

本書のポイントは以下の2点にまとめられます。
(1)規範的政治理論と実証的政治科学を組み合わせたこと。
(2)制度のあり方が国民の福祉国家政策に関する選好に影響することを主張し、正義に適う制度(Just institutions)を構築することの重要性を指摘したこと。

これらにより、著者は選択的福祉国家よりも優れているものとして、普遍的福祉国家を擁護しようとします。

著者は福祉国家の将来を議論するためには、何が起こり得るか(Can)だけではなくて、何が望ましいか(Should)も考えなければならないと主張します(p.1, pp.8-9)。
ところが、著者の見るところ、政治哲学者たち(Rawls、G. A. Cohen、John Roemer、Bruce C. Ackerman、Richard J. Arnesonなどの錚々たる論者たちを参照しながら)は自分たちの提案の実現にかかる政治的及び行政上のコストをほとんど考慮しておらず、それゆえに現実の政治においてなんら使えるものではない(pp.10-14)。

著者は、政治制度がその制度の下で行動する人々にどの戦略的行動が合理的かを示すだけではなく、その社会における確立した規範を示すものであること(pp.16-17)に注目し、政治哲学と実証政治学をリンクさせるものとして、制度を研究することを目指します。
政治哲学において著者が依拠するのはリベラリズム。
主なリベラリズムの議論を参照しながら(功利主義とリベラリズムとコミュニタリア二ズムを教科書的に反駁しつつ)、国家は「equal respect and concern」をすべての構成員に確保すべきで、それを実現するために国家が介入し、市民の自律的な選択を支援するべきと主張します(第2章)。

一方で、著者は制度のあり方は国民の福祉国家政策への支持に影響することを、Margaret Leviの「contingent consent」に基づいて主張します。
すなわち、著者(というかLeviさん)によれば、人々は自分の利益を追求するけれど、同時に正しいこともしたい(pp.140-141)。
なので、道徳的価値と結びついている政策が十分な支持を得るためには以下の条件が満たされていることが必要になる。
①その政策が公正(fair)であると人々によって認識されていること
②自分だけじゃなくて他の市民たちもちゃんと公正な仕方で貢献すると信じられること
③その政策は公正に実施されること

以上の議論から、著者は普遍的福祉国家が選択的福祉国家より優れていると主張します。
たとえば、①に関して、選択的福祉政策(capabilityを欠く人たちに福祉を提供)は、(i)誰が本当に必要としていて誰が必要ないのか、(ii)必要としている人は、そうなってしまった原因が自分にあるのかそうでないのか、という2つの解決することない境界線問題に悩まされ、「undeserving poor」に議論が集中することになる。
結果、政策が公正だと受け止められることはあまりない。
また、境界線をめぐる議論の中で福祉の受給者に負の表象(スティグマ)が付されることになり、彼(女)らは自尊感情を傷つけられてしまう。
これでは自律的な市民として行動できず、equal respect and concernの原則にも抵触すると指摘されます(pp.157-160)。

一方で普遍的福祉政策では、「poorな人たちに何をするか」から「市民と国家の関係はどうすれば公正になるか」に、「彼らの問題をどうするか」から「我々の共通の課題(医療、教育、年金等)をどう解決するか」に問題が移行するために上記の問題は生じない。
著者はHugh Hecloの次の指摘を引用します。「貧乏な人たちを助ける最善の方法は、彼らについて話さないことだ。つまり、彼らを特別にターゲットにした政策を作らないことだ」。

同様に、②③に関しても「equal respect and concern」の原則及び「contingent consent」の観点からの検討が行われ、いずれの面から見ても普遍的福祉国家が優れていることを確認します(長くなりそうなので省略します)。


政治哲学が大好きな僕は本書の議論の進め方に大いに魅了されたのですが、指摘できることを2つ。
まず1点目として、本書の理論的貢献がよく分からない。
「contingent consent」論を福祉国家にも適用したところが新しいのかもしれないけど、この理論の中身はLeviさんとほとんど一緒でした。
これに関わる2点目として、「contingent consent」論による実証がstaticなものにとどまっていて、説得力が弱いように思われる。
Leviさんの税制を対象にしたOf Rule and Revenue(1988)や徴兵制を対象にしたConsent, Dissent, and Patriotism (1997)で行われているような充実したdynamicなケーススタディーが必要だったのではないかと思いました。
また、普遍的福祉国家のほうがたとえうまくいっていたとしても、それはたまたまその国がそうしやすい環境にあっただけで、それを他の国に適用できるのかどうかはそう簡単に言えることではない(なぜ規範的により望ましいはずの普遍的福祉国家が、こんなに少ない国でしか志向されていないのか?)。

重要なテーマに対する野心的な挑戦だけにいろいろと批判をすることはできるけれども、人々の規範意識に注目し、制度をどのように構築するかが重要だという本書のメッセージは直観的にすごくよく分かる(この点で、とてもpolicy relevantな重要な研究でもあると思う)。
ただ、やっぱり、以前取り上げた加藤淳子さんの「付加価値税を早くに導入した国はそれが福祉に使われるという信頼があるからその後も税金を上げやすくて、その結果福祉もさらに充実する」論(Regressive Taxation and the Welfare State, 2003)に指摘できることと同じように、すでにJustでない制度を作ってしまった普遍的福祉国家以外の国々はどうすればいいのか(もうどうしようもないのか)という悩みをどうしても抱かせられてしまう。
政治哲学と実証を橋渡ししようとする試みに心を躍らせられながら、でも、ちょっと物足りなさも感じた本でした。


(投稿者:Ren)

Matthew Flinders, Delegated Governance and the British State (Oxford University Press, 2008)

2015年03月30日 | 
本を読むのにも「適切なタイミング」というものはあるのだな、と最近改めて思います。
「適切なタイミング」でないときに読んでしまっても無駄になることは全くないとは思いますが、その本のメッセージや魅力を十分に認識することができないことがある。

イギリスに来る少し前に、Colin Hay, Why We Hate Politics (Polity Press, 2007)を読みました。
そのときは、この本は重要な問題を正面から扱っている野心的な試みだ、という印象くらいしか残らず、なぜ「W.J.M Mackenzie Book Prize」という、「なにやらすごそうな賞」を受賞したかがよく分かりませんでした。

でも、この本が書かれた時代的文脈や研究動向等の背景をある程度分かった段階でふと読み返してみて、いかにこの本が素晴らしいかが分かりました。
「W.J.M Mackenzie Book Prize」とは、年に一回、イギリス政治学会がその年に出版された最も優れた本に授与する賞ですが、その後のイギリス政治学に与えた影響の大きさを見ると、この本が受賞したことはとても納得がいく。
ということは、他の「W.J.M Mackenzie Book Prize 」受賞作品も素晴らしいんじゃないか!?

というわけで(前置きが長くなりました)、論文で引用されているのを見かけて少し気になっていた、Matthew Flinders, Delegated Governance and the British State: Walking without Order (Oxford University Press, 2008)を読んでみました。
ちなみに、これはColin Hayさんの次の年(2009年)の受賞作です。



本書は、世界各国で多用されているdelegated governanceに焦点をあて、それがイギリスにおいてどのように運用されているか解明しようとしたものです。
delegated governanceとは、省庁の機能や責任を別の、独立していたり半官半民だったりする政府外の機関に委任する統治手法で、それによって政府はその政策の推進に日常的な細かい社会政治的問題に煩わされることなく効率性や有効性を追求することが可能になります(p.3)。

それだけに、この統治手法は多くの文献によってはじめから「民主主義に反する、よくないもの」と前提されて議論されてきた。
しかし、我々はdelegated governanceについてほとんど理解していないのではないか(pp.12-13)。
本書における著者の基本的な研究の動機はおそらくこの点に求められると思います。

さて、本書の主な貢献は次の2点です。
①イギリスのdelegated governanceにおいて、委任が行われる条件、組織形態、委任の程度等において一貫した思想が欠如していることを示したこと(「Walking without Order」)
②全体像が全く明らかになっていないdelegated governanceを同心円状の「ロシアンドール」モデルでとらえる枠組みを提示したこと


①については、これまでいくつもの専門家や調査委員会が政府に対してdelegationの全体像を明らかにするように求めてきたにもかかわらず、未だにそれぞれのつくられた機関がどういう権限を持っているか、どういう条件でどういう組織形態がとられているのかはおろか、そもそもどういう機関が存在するかというリストも存在していないことが明らかにされます(p.67)。
その背景として著者は、何らかの理論に基づいて体系的に制度を構築することに対する政治エリートたちの懐疑心の存在を指摘し、外部からの明確な基準や理論に基づいてdelegated governanceを運用せよとの要求は国家のシステムが現実にどう動いているかについての知識が欠如していることの現れと映っていたとしています(p.92)。

ここで興味深いのはウエストミンスター・モデルとの関わり。
ウエストミンスター・モデルは責任と権限の中央集権を含むところ、実際はイギリスの政治制度は委任を多用するなど極めて分散的なものとして発展してきた(第3章)。
でも、ウエストミンスター・モデルが正統な理念として人々に定着していたために、逆説的にその現実は覆い隠され、今日のような形で発展することを可能にした。

別のところ(p.133)では、こんなふうにも述べられています。
正統な思考の型としてのウエストミンスター・モデルは以下の役割を持っている。
一方で、ウエストミンスターモデルがあることによって、delegationの全体像を明らかにしてしまうことは大臣が議会により直接的に責任を負うような形への改革を刺激してしまいかねず、delegationの利点を享受する行政としてはそれはやりたくない。
他方で、ウエストミンスターモデルの存在で、政策に関する注目は大臣がいる省に向かうので、その分、delegated governanceへの注目を逸らすことができる。また、delegationをしていたとしても大臣はいつも議会に答責性を追っていることになっているから、このモデルは「political confort blanket」ともなってくれる。
これまで単純に「イギリス=ウエストミンスター型」と短絡的に結び付けていた僕にとって、実は現実はそんなに単純ではないという著者の指摘は衝撃的でした。

さて、このように全体像が全く明らかになっていない中で、著者はdelegated governanceを含めた英国のガバナンスの全体構造を示すものとしてRussian Doll Modelを提示します(p.108ff)。
このモデルは同心円の9つの層とその外側のいくつかのまとまりでできており、一番コアに官邸と大臣省、それらの外側にトップが大臣ではない庁、executive agencies(どう訳せばいいやら何も分かりません。以下同じ。)、Special Health Authorities、Execitive Non-Departmental Public Bodies、・・・と続いていきます。

このように構成する利点は、第一にdelegated governanceの要素同士の相互関係を含む全体像を示せること、第二に長期的な機関の動き(delegationの度合いの)をフォローすることが可能になること、そして第三にこの枠組みは英国だけじゃなくて他の国にも使うことができること(p.129)。
情報も全然出ていなくて、制度的にも大変複雑な(同じような名称でも委任の程度が全然違ったり、その機関の任務を記した文書の文言も統一性がない(p.102))な中で、著者が全体像をこのような形に整理するのに費やしたであろう労力と時間とインスピレーションの鋭さを思うと、眩暈がします。


著者の立場は、delegationそのものには反対しないものの、答責性の確保の点から、これが一貫した理論なしに恣意的に運用されてきていることを批判するもの。
おそらくイギリスの政治にものすごく興味がないと手に取られることがなさそうな本ですが、現在のガバナンスに不可欠な役割を担っている政府関係機関のあり方に興味のある方にもとても参考になるのではないかと思います。

僕はこれまでイギリス政治についての専門書や論文をほとんど読んでこなかったし、delegated governanceの先行研究として引用されたものもほとんど知らない状態でこの本を読みました。
たぶん、この本を読む「適当なタイミング」ではまだなかったんだと思いますが、それでもとても感銘を受け、そしてわくわくしながら読める作品でした。
もう少し研究が進んだ後に、またこの本に戻って来ようと思います。


(投稿者:Ren)

Armin Schafer and Wolfgang Streeck, eds., Politics in the Age of Austerity (Polity Press, 2013)

2015年02月23日 | 
指導教授にliterature reviewを提出できた解放感の中、Armin Schafer and Wofgang Streeck, eds., Politics in the Age of Austerity (Polity Press, 2013)を読みました。
本より論文を読むことが最近は多いのですが、本を読み終えるのは論文を読み終えることよりも達成感があります。(なぜだろう?)



本書は2007年頃からの世界金融恐慌を視野に入れてはいるものの、それを直接の対象とするものではありません。
Paul Piersonが明らかにした「era of permanent austerity」(たとえば、Paul Pierson ed. (2001) The New Politics of the Welfare Stateの序章参照)の状況が、世界金融恐慌によってさらに顕在化したことを念頭に、より広くausterityの政治をめぐる様々な諸論点を検討していくものです。

中でも一番力点が置かれているのが、austerityを実施していくことと民主主義との関係。
この論点は、民主主義の正統性を「inputの側面」と「outputの側面」に分け、両者が現在対立していることを指摘するFritz W. Scharpfによる第5章(The Disabling of Democratic Accountability)、政府が「responsiveness(応答性)の要求」と「responsibility(責任)の要求」にさらされていて、近年政府はresponsiblityをより強調しているとするPeter Mairによる第6章(Representative Government and Institutional Constraints)に最も顕著に表れています。
1970年代以降のスウェーデンの福祉国家改革の政治過程を分析するSven Steinmoの第4章(The Political Economy of Swedish Success)もこの問題意識に貫かれていると言って良く、エリートが人民のプレッシャーから自律的に政策を練り上げていくスウェーデンモデルを、インプットの点では民主的かどうかは疑わしいが、アウトプットの点では民主的だと言える(p.103)と主張しています。(ただし、このモデルを他国に当てはめることは様々な条件が異なる中では危険だと、適切に注意しています。)

この論点に関連して僕が個人的に蒙を啓かれた気持ちになったのは、政治参加が先進国で低下している要因を次のように説明しているところ。(編者2人による序章(Introduction)及びWolfgang Streeck and Daniel Mertensの第2章(Public Finance and the Decline of State Capacity in Democratic Capitalism)参照。)
すなわち、緊縮政策が必要になっているとはいえ、義務的経費を減らすことは政治的に難しいので、削減されるのは裁量的経費。
これはつまり、左右どちらの政党が政府を組織しようが政策としてできることは少なくなってしまっているということで、人々からすると政治の選択肢があまりないということになる。
どの政党に入れてもあまり結果は変わらない(政治に期待できない)から投票に行かない。

なお、Armin Schaferによる第7章(Liberalization, Inequality and Democracy's Discontent)の分析によれば、不平等が拡大するほど投票参加率は下がっているとのこと。
austerityが経済格差を拡大するかどうか(拡大されることが多くの文献で前提されているけど)は議論のあるところかなと思いますが、今後は「民主主義の病理」(必要な政策ができない)だけじゃなくて、「民主主義の空洞化」(政治参加が減少して民主主義の基盤が弱くなる)とでも呼べそうな事態にも、ますます政治学(実証も規範も)は真剣に対処していかなくてはいけないのでしょう。


本書はドイツで研究をしている人たちが中心となって執筆しているもののようで、少し前にここで取り上げた英米の研究者のコラボレーションであるWyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis (Oxford University Press, 2012)にはあまりなかった大陸からの視点が反映されていそうで、併せて読むことができたことで世界金融危機の意義をより立体的に垣間見ることができたと思います。
全部が素晴らしい論文で興奮した!ということは残念ながらなかったのですが、前半の論文たち(1~5章)が僕には特に素晴らしく感じました。

(投稿者:Ren)