1669~1670年の冬に、スピノザさんはVoorburgからハーグに居を移します。
最初に住んだのはStille Veerkadeにある家。
でも、ここがあまり好きではなかったようで、1671年の5月にはPaviljoensgracht(ごめんなさい、読めません。)にあるHendrik van der Spijckという人の家に引っ越します。
この家に彼は1677年に亡くなるまで住むことになります。
スピノザさんが住んだことのある家でまだ残っている2軒のうちのもう1軒は、このスピノザさんにとって最後の家です。
<Spinoza House The Hague>
住 所:Paviljoensgracht 72-74, Den Haag
行き方:ハーグの中心地から歩いて行けます。
開 館:アポイントを取れば入れます(普段は入れません)
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=460317722
ここには19世紀後半から現在までのスピノザさんについての様々な文献が収められているとのことですが、研究者でもないただのファンがアポイントを取って良いのかどうか分からず(というか僕にその勇気はなかった)、外から見るだけにしておきました。
ちなみに、Rijnsburgのスピノザハウスにあるスピノザさんが遺した文献(と同じ版のもの)たちもアポイントを取れば実際に開いて見ることができるそうです。
スピノザさんがこの家にいた時期に、あの「ハーグの政変」が起こります。
1672年8月の、スピノザさんの保護者であり友人でもあったJan de Wittさんと彼の兄が、群衆によって引きずり出されて残虐に殺された事件です。
スピノザさんは彼の友人はもとより、彼を批判する人でさえ「above reproach」(非の打ち所がない)な人格者として知られていましたが(Garrett (1996) "Introduction", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridge University Press), p.1)、このときだけは激怒して殺害現場に「Ultimi Barbarorum」(お前たちは最も低劣な野蛮人だ、みたいな意味か?)と書いた張り紙を掲示して抗議しようとしたとされています。
いまにも出かけていこうとするスピノザさんに対し、彼も殺されることになってしまうと心配した大家さんは扉に鍵をかけて彼が外に出られないようにしたと言われています。(ありがとう、大家さん!)
ウィット兄弟の殺害現場は、いまは監獄博物館になっています。(建物の前に行ってみましたが、特にその旨を記したものはありませんでした。)
僕は今回スピノザさんの主要なゆかりスポットにすべて行こうと思っていましたが、リサーチ不足でStille Veerkadeには行けませんでした。
ここの存在をイギリスに帰国してから気付くという大失態。ここにもハーグの中心地から歩いて行けたはずだったのに。悔やんでも悔やみきれません。
(投稿者:Ren)
最初に住んだのはStille Veerkadeにある家。
でも、ここがあまり好きではなかったようで、1671年の5月にはPaviljoensgracht(ごめんなさい、読めません。)にあるHendrik van der Spijckという人の家に引っ越します。
この家に彼は1677年に亡くなるまで住むことになります。
スピノザさんが住んだことのある家でまだ残っている2軒のうちのもう1軒は、このスピノザさんにとって最後の家です。
<Spinoza House The Hague>
住 所:Paviljoensgracht 72-74, Den Haag
行き方:ハーグの中心地から歩いて行けます。
開 館:アポイントを取れば入れます(普段は入れません)
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=460317722
ここには19世紀後半から現在までのスピノザさんについての様々な文献が収められているとのことですが、研究者でもないただのファンがアポイントを取って良いのかどうか分からず(というか僕にその勇気はなかった)、外から見るだけにしておきました。
ちなみに、Rijnsburgのスピノザハウスにあるスピノザさんが遺した文献(と同じ版のもの)たちもアポイントを取れば実際に開いて見ることができるそうです。
スピノザさんがこの家にいた時期に、あの「ハーグの政変」が起こります。
1672年8月の、スピノザさんの保護者であり友人でもあったJan de Wittさんと彼の兄が、群衆によって引きずり出されて残虐に殺された事件です。
スピノザさんは彼の友人はもとより、彼を批判する人でさえ「above reproach」(非の打ち所がない)な人格者として知られていましたが(Garrett (1996) "Introduction", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridge University Press), p.1)、このときだけは激怒して殺害現場に「Ultimi Barbarorum」(お前たちは最も低劣な野蛮人だ、みたいな意味か?)と書いた張り紙を掲示して抗議しようとしたとされています。
いまにも出かけていこうとするスピノザさんに対し、彼も殺されることになってしまうと心配した大家さんは扉に鍵をかけて彼が外に出られないようにしたと言われています。(ありがとう、大家さん!)
ウィット兄弟の殺害現場は、いまは監獄博物館になっています。(建物の前に行ってみましたが、特にその旨を記したものはありませんでした。)
僕は今回スピノザさんの主要なゆかりスポットにすべて行こうと思っていましたが、リサーチ不足でStille Veerkadeには行けませんでした。
ここの存在をイギリスに帰国してから気付くという大失態。ここにもハーグの中心地から歩いて行けたはずだったのに。悔やんでも悔やみきれません。
(投稿者:Ren)
スピノザゆかりの地の情報は、ほとんどThe Cambridge Companion to Spinozaから得たのですが、ナドラーのスピノザの伝記を読んでから行けば、もっといろいろ行けたのに、と帰国してから残念に思っております。スピノザ巡礼の旅は本当に楽しかったので、これから行かれるおせろ様が羨ましいです。
おせろ様のスピノザ巡礼の旅が楽しいものとなりますことを、お祈りしております。