SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

駒村康平・菊池馨実[編]『希望の社会保障改革』(旬報社、2009年)

2009年06月28日 | 
ご無沙汰してます、Renです。
ちょっと前に『自立支援と社会保障』という本を取り上げた(→http://blog.goo.ne.jp/latraviata0608/e/1db9f5d985f66df96627ff0fbf6bed79)ときに読んでみたいと思った駒村康平・菊池馨実[編]『希望の社会保障改革――お年寄りに安心を・若者に仕事を・子どもに未来を』(旬報社、2009年)が、読んでみるとやっぱりとても素晴らしかったので、ほんのちょこっとだけど、この本を取り上げようかなと思います。


この本は、執筆者の総意としての「提言」と、それを補完する各執筆者の各論からなっています。
執筆者たちの問題意識は、「はじめに」によく表れているように思われます。
1950年の社会保障制度審議会勧告(生存権の理念を軸にすえて、戦後の社会保障制度の基盤とデザインを形成)と1995年の社会保障制度審議会勧告(戦後50年を経て、21世紀に向けた新しい社会保障増を構築するという目的から、「広く国民に健やかで安心できる生活の保障」を社会保障の基本理念として掲げる)の意義を高く評価したあと、本書は以下のように述べます。

 しかし、国家議員や学識者などにより構成され、厚生労働省から独立した提言をおこなってきた社会保障制度審議会は、95年勧告を最後の勧告として、省庁再編の流れのなかで廃止された(本書第12章参照)。それ以降、後継の経済財政諮問会議をはじめとして、厚生労働省会保障審議会、その他政府有識者会議などによるいくつかの政府関連報告書にみられるのは、財政との関連で社会保障のあり方を論じようとする傾向である。もちろん、社会保障の諸給付は財源があってはじめて可能となる以上、このことは当然とも言える。ただ、問題なのは、財政危機への対応から、社会保障給付の抑制を前提にした議論が、「社会保障の持続可能性」の確保の名のもとに進められてきた点である。
 他方、とくに1990年代後半以降、日本の社会保障制度は大きな変革の時期を迎えている。2004年年金改革、2005年介護保険改革、2006年医療保険改革というように、ほぼ毎年と言ってよいほど、市民の生活を左右するような制度改革が社会保障の各分野でおこなわれている。しかし、こうした一連の制度改革が、かつてのように、明確な理念にそって、透徹した視点で描かれた見取り図のもとにおこなわれているとはとうてい思われない現状がある。その時々の政治状況において、いわば場当たり的に個別の制度改正を繰り返しているという側面がないとは言えないのではなかろうか。
 こうした混迷の時代にあってこそ、いわば原点に立ち返って、新たに社会保障の理念を構築し直し、既成の枠組みにとらわれることなく、中長期的視点に立った社会保障像を描くことが求められているように思われる。しかも、「社会保障の持続可能性」をたんに財政面からとらえるだけでなく、社会保障制度を支える社会的ないし市民的基盤の再構築という側面からとらえることも重要である。このことは、社会保障に限定されない「社会」のあり方そのものへのビジョンをもつということでもある。(はじめに:3-4頁。)


この箇所を読むだけで、本書の志の高さと内容の素晴らしさを感じて、わくわくしてしまいます。
具体的な主張としては、生活保護制度を現役期と高齢期で別の制度にすることや、医療保険の保険者を再編成し、一つあるいは複数の都道府県単位で複数の非営利の医療保険制度を設置することで、保険者相互の競争を促すことや、「子育ち・子育て支援に関する基本法」を制定し、子育ち・子育てに思い切った財政措置を行うことや、社会保障制度審議会の政府機関の再設置を求めること等、社会保障政策に関連する領域を広く含み、極めて包括的なものとなっていますが、中でも本書に特徴的なことは、市民の連帯が強調されているところではないかと思われます。
社会保障が社会の亀裂を生むことなく適切に機能するためには、なんとしても市民の連帯が確保されていなくてはならないと思われるところ、本書のようにこの大きな課題を強く意識して社会保障の改革を論議することは極めて重要なことであると思いました。

さて、本書の主張の一つ一つについて本当はご紹介したいところですが、これについては興味関心ある方が実際に本書を参照されることをお願いする(社会保障の改革について考える際には、本書は必読ではないかなと思ったりします。)として、読んでいて特に興味深かった山田篤裕・駒村康平による第5章を取り上げようかと思います。
この章にはよく語られる通念とでも言える言説に対する重要な批判がなされており、本書を実際に読まれない方にもこの議論をご紹介することは有益ではないかと思われるからです。

まずは、デンマーク型の「フレックシキュリティ」を賞揚する言説について。
デンマークは、(1)雇用関連規制の緩和による流動性の高い労働市場、(2)政府による失業時の手厚い所得保障と訓練支援政策を行っており、これが、柔軟な労働市場を確立し、高い経済成長率を維持しつつ、生活不安も取り除く、フレックスとセキュリティーの両方を達成していると評価されているけれども、著者によれば、これには前提条件があると言います。
それは、(1)国の経済規模が小さく、サービス産業を中心とした産業構造であること、(2)労働組合は職業別に構成され、その組織率も高く、賃金交渉は中央集権化された労使の団体交渉によっておこなわれ、正規・非正規雇用者の処遇が均等化されていること、(3)充実した所得保障を維持するために、高い税金や保険料を国民が受け入れていること。
しかし、日本においては(1)については、国の経済規模は大きく、重工業からサービス業まで含んだフルセットの産業構造となっていること、(2)については、企業別労働組合となっていること、などがある。
ゆえに、デンマーク型のフレックシキュリティを直接導入する条件は満たしていない、とされます。(105-106頁。)

次に、「正規雇用と非正規雇用の処遇格差を解消するためには、正規雇用の賃金・処遇を規定する日本的雇用慣行を廃止することが不可欠である」という意見について。
この意見では、他の財・サービスと同じように労働市場においても「一物一価」を達成する価格の裁定がおこなわれるべきであるという結論や、「同一価値労働・同一賃金」という考えにもつながるのだけど、著者によれば、この考えは二つの問題に直面します。
第一に、職務及び職務遂行能力をどのように評価し、各職務間の賃金格差をどのように位置づけるか。このことの困難は、すでに1950年代半ばに日経連は年功序列給から職務給への以降を提唱していたにもかかわらず職務給の定着が観られていないことにも表れている。
第二に、長期雇用によって生産性が上昇する人的資本蓄積の問題。長期間同一企業に勤めることで、しだいに能力が蓄積され、生産性も上昇する。ゆえに、長期雇用のインセンティブを引き出すため、若いときの賃金は生産性より低く設定し、年齢とともに賃金を上げて、中高齢では生産性よりも高く設定する年功賃金体系は経済合理性を持つ。
また、企業における転勤・異動も、正規雇用者にとって、生活変化のリスクであるが、企業にとっては企業内の人的資本の再配置として経済合理的。
ゆえに、表面的には同じ労働であっても、その企業に長くかかわるという点で、正規と非正規では企業に異なる貢献を死ているとの見方も可能であると述べられます。(106-108頁。)

そして、「正規雇用への解雇規制・不利益変更の厳しい制限を課す判例の蓄積は1970年代の高度成長期に整備された雇用関連法に依拠しており時代遅れであり、経済合理性のない年功賃金体系・終身雇用を維持し、企業のダイナミックな人事管理の変更を阻害し、生産性を引き下げている」という見方について。
この見方に対し、著者は次のように反論します。
判例による解雇権濫用制限は、年功賃金体系と相互補完関係にあるとみることもできる。
すなわち、企業が年功給体系のもと、若いときは「賃金<生産性」で処遇しておきながら、中高齢のときに「賃金>生産性」で処遇することをいやがり解雇に踏み切ろうとする行動を、解雇規制が制約する見方も可能である。(108-110頁。)
(このように、著者は長期雇用・年功賃金を排すべきという安易な議論に反対しますが、同時に、正規・非正規の賃金格差が長期勤続の評価によるもの以外の要因にも大きく拠っている可能性を示唆し、これを問題視しています。この議論については、大変重要だけれども、今回は略します。)

さらに、「広くすべての市民に基礎的所得保障をおこなうベーシックインカムを導入することによって、人は自由に労働市場に参入・退出できるようになる」という意見について。
著者は、ベーシックインカムを(1)その財源を所得税に求める考えと、(2)消費税(付加価値税)に求める考えがあるとし、前者について、それは仕組み上は「負の所得税」と同じものになると指摘し、また、現行の所得控除や年金等をすべて廃止すれば財源の捻出が可能であるという試算については、それはベーシックインカム導入によって人々の働き方が変化せず、日本経済が導入前後で変化しない特殊な想定にもとづく計算であり、実現可能性に欠ける旨主張します。
後者の方式をとることについては、そのためには高い消費税率が必要であり、その分、ベーシックインカムの実質価値が低下するだけだと主張します。
その他、著者は、以下のようにも主張し、ベーシックインカムに反対します。

むしろベーシック・インカム導入により、あらゆる労働保護規制を撤廃でき、労働市場を完全競争市場にできるという見方もあり、われわれは、実質的に低いベーシック・インカムで労働保護規制撤廃につながることをおそれている。もちろん、ベーシック・インカムの考え方には魅力的な点も多い。しかし、ベーシック・インカムにたいするもっとも強い違和感は、ベーシック・インカムにより、人々は「真に自由」になり、「やりたい仕事」をするようになるという理想的な労働観、すなわち、自分自身の適性や「やりたい仕事」を人々は初めから知っているという前提である。しかし、逆にベーシック・インカムにより、人は、さまざまな職業を経験する機会がなくなるではないか。さまざまな職との出会いと挫折、技能の蓄積・修練にともなうさまざまな試練の意義について、ベーシック・インカムを支持する論者は楽観的な労働者像をもっているのではないか。むしろわれわれは、ディーセントな労働の保障により、人々が社会とかかわり、さまざまな経験をすることにより、社会連帯が強くなると考えている。(116頁。)


ベーシック・インカムについては、山森亮『ベーシック・インカム入門』(光文社新書、2009年)が非常によくまとまっていて、そこではこの主張がフェミニズム運動や障害者運動のかかわりから紹介されていて、この主張の魅力がよく分かるのだけれど、やはり僕も山田・駒村両氏のような考えのほうが妥当なのではないかなと思います。
ただ、ベーシック・インカム的なアイディアを政策の一部に組み込むことは、検討されていいような気もしています。

この章は以上のような内容に尽きるものではもちろんありませんが、安易に、無責任に言い放たれている言説に対ししっかりした反論を行っていて、僕にとって大変勉強になりました。


今日は第5章をご紹介することしかできませんでした。
他の多くの章も非常に魅力的で、社会保障政策について考えるときに大変参考になります。
この本においてそこまで原理的に掘り下げられてはいない「自立支援」という概念と、それを追求する政策については、まさにこれらについて丁寧に論じた、菊池馨実[編著]『自立支援と社会保障』(日本加除出版、2008年)があり、この本と本書を併せて読む(これら二つの書は、財団法人医療経済研究・社会保険福祉協会医療経済研究機構が、その議論・研究の場を提供したとのことです。)ことで、これからの社会保障についての展望が拓かれるのではないかなと思います。


(投稿者:Ren)

塩原温泉 ホテルおおるり

2009年06月24日 | 旅行
こんばんはSakuraです。

この間、塩原温泉の「ホテルおおるり」http://www.ohruri.com/に行ってきました。

おおるりグループのホテルには何回か行きましたが、
私は一番ここが好きでした。

おおるりは、えっこんな値段で良いんですか・・・?ってゆう料金で、
行く度に驚きがあるんですけど(良いとこも悪いとこも。笑)
やっぱり、良いとこは
温泉ですよね

ここにも貸切があって、その他にも大岩風呂(だっけ・・)っていう、おおきくて気持ち良い温泉もありましたし、
木で出来た和風な感じのお風呂もありました。

ご飯とかはやっぱり「超おいしいっ」って訳ではありませんが、
バスと宿と2食付いてのお値段ですので、いつもSakuraは満足です。
みんなでわぁわぁやりたり(プラス温泉があればなおよし)な人なので(笑)

バスが付いてるのが良いよね。乗ってればホテルまでつけてくれるし
バスはその時によって(人数によってかな?)大きかったり幼稚園バスみたいだったり(笑)
新しかったり古かったりしますが、今回は新しくてキレイなバスだったので、その点も良かった◎

それと・・何気に人情劇が付いてるとこがツボだったり
付いてるホテルと、ないホテルがあるんですけど、塩原はありました。
おじいちゃん達にまぎれて、観賞するSakuraご一行。
おおるり初体験の友達は、固まってました
私も初の時は同じ反応でしたが、今回はちょっと「面白いなぁ」と思っちゃいましたよ。
まさか、人生で人情劇を観られる機会が来るとは・・・・・!

おおるりの中でも、時々サービスが悪いなぁと思うホテルはありましたが、
今回はみなさん(バスの人とかホテルの人とか)感じが良くて、楽しい旅行が出来ました。

お手軽ですので、ちょっとブラリには良いと思います


(投稿者:Sakura)

もみじ谷大吊橋

2009年06月20日 | 旅行
いっぱい書いてたのに、なんでか内容が消えちゃってへこみまくりのSakuraです・・・

宿の事とかいろいろ書いてたのに・・

へこみ中なので今日はちょびっとにします。
先日バスの運転手さんが、気を利かせてくれて、もみじ谷で落っことしてくれました。
  

キレイでしょ?どうも高所恐怖症らしいSakuraはガタガタ震えてましたが・・・
高いトコが大丈夫な人にはおすすめ!気持ち良いですよ~。

投稿者:Sakura

W・ラフルーア、G・ベーメ、島薗進[編著]『悪夢の医療史』(勁草書房、2008年)

2009年06月18日 | 
またまたRenです。僕ばかり書いてしまってすみません。

今日は『悪夢の医療史:人体実験・軍事技術・先端生命科学』(W・ラフルーア、G・ベーメ、島薗進[編著]、中村圭志、秋山淑子[訳]、勁草書房、2008年)という、衝撃的な本を読んでしまったので、ご紹介したいと思います。



この本は、島薗進さんの「日本語版あとがき」によれば、2007年6月に米国のインディアナ大学出版局から刊行された、同編著者によるDark Medicine: Rationalizing Unethical Medical Researchの日本語版らしいです。
英語版、ドイツ語版、日本語版の三つが出版されていて、ドイツ語版はこの本のすべてを収録できなかったものの、英語版と日本語版はほぼ同じ、とのことです。(小松美彦さんのご論考は、かなり英語版に加筆してあるみたいですが。)

内容は、英語版の副題にとてもよく表れていると思います。
過去のUnethicalなMedical ResearchがRationalizeされた過程に注目することによって、生命倫理の諸問題を考える上での重要な視点を読者に示してくれます。
編著者W・ラフルーアさんに語っていただくとこうなります:「本書が焦点を置いているのは、取り上げた三国における黒い医学研究の事例の歴史ではなく、むしろこうした研究が合理化される過程である。それというのも、合理化のパターンは特異な過去の行動で終わるものではなく、まさに現代において再び姿を現し始めていると思われるからである。」(6頁)
あるいは、小松美彦さんによる「日本語版はしがき」によれば、本書の全体を通じて貫かれている二つの基軸は、第一に「歴史的視点」、第二に「現代への批判的な徹底分析の志向性」ということになります。

本書を読んで特に心に残ったことを思いつくままに。

・科学や医療には善の側面と悪の側面がある。(序章)
癒す果実と殺す果実とは、たいてい同じ知恵の木に生っている。癒す果実のみを摘もうとする者の籠の中にも、殺す果実が二、三個ほど入り込むことは避けがたいことだ。研究の場合であれば、癒しをもたらす利他行為といえども、個人や集団の自然な利己主義と癒合することは避けがたい。彼らの行為は名声をもたらしうるのである。あろいは統治者の賞賛と支援とを引き出しうるのだ。しかも、協力を辞退することは、しばしば将来の職業上の孤立を意味する。無名を余儀なくされるかもしれない。さらには資金が得られないという厳しい状況が待っている。かくて二つの動機は混ざり合う。」(序章:3-4頁)


・人体実験についてのリベラルなガイドラインやインフォームド・コンセントのアイデアはナチス以前にも存在した。しかし、――これは重要なことだけれど――それは守られなかった。(第一章~第三章)

・倫理に関する問題は、「科学の進歩」と「人類の福利の増大」という二つの概念によって、しばしば軽視させられてきた。(第三章)

・「科学は現在に生きている。科学者は科学の過去に興味がない。・・・犯罪現場の近くにいた者は、何も知らなかったと主張する。学生は教師を擁護する。同僚同士は互いに擁護し合う。」(第四章:73頁)
私がここで言及した医学者のほとんどは、直接的に殺人に関与したわけではなかった。断種法を作った者あるいはそれに関与した者は、決して、自分たちが多数の人々にもたらした不幸および潜在的な死に対して責任を感じてはいなかった。彼らの弁明によれば、そうした法律を支持するのは自らの責務なのである。その法律が誤った用いられ方をしたとしても,それは彼らの関知しないことなのであった。(第四章:77頁。強調は引用者。以下同じ。)


・ナチスの犯罪に手を染めた医者や科学者は「狂人、偽者、無能者に限られるはずだと、しばしば信じられている」けれど、「十分な訓練を積んだ、高名で有能な医師や科学者でありながら熱狂的なナチス党員であった者も存在した」。「ナチスのすべての科学者と医師とを狂人や怪物に仕立て上げることを許していることで、生命倫理学者は、今世紀前半のドイツが世界で最も「文明化」された、技術面で進歩した、科学に関して洗練された社会の一つであったという事実を無視しているのである」。(第五章)

・ニュルンベルク裁判で被告らが行った六つの道徳的正当化:(1)被験者となった人々は自発的に申し出た。実験を生き延びた収監者は釈放や恩赦される見込みがあった。(2)生体臨床医学の目的に供されたのは死刑判決を受けた者に限られていた。彼らはどのみち死ぬ。ならば、ここから知識を得ることには道徳的弁護の余地がある。(3)死をもたらす研究への関与が被験者の贖罪に役立った。このことによって被験者たちはその罪を清めることができたのだ。(4)科学者や医師は価値中立的な立場で行動しなければならなかった。科学者は、科学者であろうとする限り、自らの科学に対して規範的立場をとることはできない。(5)国家の防衛と安全のためになすべきことを行った。総力戦においては通常の道徳律の例外が正当化される。(6)多数の利益のために少数の利益を犠牲にするのは理にかなっている。コッホ熱帯医学研究所所長だったゲルハルト・ローゼは、発疹チフスのワクチンをつくるために収容者に対して死を招く可能性のある実験を行うことについて、最初は反対の立場だったが、「東部戦線で毎日千人もの人間が発疹チフスで死んでいくのに、百人や二百人の命を危険にさらすことを敢えてしない理由はないと思うようになった」。(第五章)
収容所で行われた殺人、拷問、人体切断・切除に対する重要な六種の道徳的正当化に伴う言述・・・を仔細に検討するとき,強制収容所内で働いていた人々の行為は、ときに道徳的原理に導かれたものであったことが明らかになってくる。また、こうした道徳的議論がすべて、ドイツの直面する危機についての生体臨床医学上の解釈の土俵上にあることも明らかである。/特定の民族集団や社会集団がドイツ国民の健康に対する脅威であるいう思考は、大量殺戮、断種、死をもたらす実験に医学が関与することを許容ーーまた被告らの観点によれば、要請ーーした。生体臨床医学のパラダイムは、ヒポクラテスの原則に従って背任行為をなさないと誓った者たちに、国家の名の下に殺人を行うことを許す理論的根拠を提供したのであった。(第五章:92頁)

しかし、非難だけでは不十分である。結局のところ、犯罪を犯した者たちの多くは、自らの行動の道徳的正しさを固く信じた上でそれらを行ったのであった。・・・生命倫理学が行為や性格に影響を及ぼすことができるとの希望をもってこの学問を教える者は、生体臨床医学がホロコーストにおいて果たした役割がしばしば道徳的根拠をもって弁護されたという事実を甘んじて受け入れなければならない(第五章:93頁)


・七三一部隊に関わった医者の中には、戦中にその成果を論文として発表し、戦後においてもそれに基づいた論文を発表した者もいた。そして、人体実験が行われたことが明白なそうした論文は、受け付けられ、レフェリーの審査を経て、学会誌に掲載された。(第六章)
論文を寄稿した池田(引用者注:池田苗夫軍医中佐。七三一部隊の軍医。論文は、著者(常石敬一)によれば「流行性出血熱のシラミ、ノミによる感染試験」。1942年1月に中ソ国境の黒河の陸軍病院で行った、現地のヒトに対してノミあるいはシラミによって流行性出血熱が感染するか否かを確認する人体実験に基づく。1968年の『日本伝染病学会誌』四二巻五号に掲載。)にとって、またそれを受け付けた伝染病学会にとっても、七三一部隊での人体実験は自明のことであり、その倫理的問題よりも、人体実験による得難い、と彼らが考えたデータの蓄積を重視した、と考えるべきだろう。(第六章:104-105頁)

今例示した三人(引用者注:上のような事例が三つ紹介されている。)の場合、人体実験の事実を隠そうとしていない。この点に関しては、むしろ戦前・戦中の論文でのほうがある程度の「隠蔽」作業が行われており、それなりに「ためらい」が感じられる。・・・今振り返ってみると、七三一部隊の研究者たちの多くはその論文において自らが行った人体実験について手のついた隠蔽工作を行っていなかった。また戦後、彼らは少なくとも自分から社会に対して自分たちの罪業を明らかにし、自分たち自身の行為を振り返ったことはないが、自分たちの世界、つまり医学界内部ではいろいろなことを赤裸々に発表していた・・・/七三一部隊での人体実験は医学界においてはほとんど誰もが知っていたことだった、という現実に行き当たる。その結果、部隊にいた研究者たちは部隊での自分たちの研究を医学論文として積極的に発表していた。さらに戦後になっても、人体実験の結果であることが明白な論文を発表したり、また部隊の思い出を医学雑誌に書いたりし、それが受理され掲載されてきた。この事実は七三一部隊での人体実験は日本の医学界では誰もが知っていたことを示している。(第六章:106-107頁)


・七三一部隊の研究者の中には京大や東大などから送られた人たちもいた。(第六章)
医学者たちの最終的にはヒトを殺害する人体実験は、防疫研究所を媒介として、軍である七三一部隊などと、民である医科大学とが形成するネットワークの中で行われていた。殺害の当事者は軍の研究機関にいる医学者だが、その「利益」を享受するのは彼らだけではなく、その師である民の研究者でもあった。(第六章:108頁)


・七三一部隊の蛮行について、欧米においては日本人は「記憶喪失だ」と酷評されているらしい(日本語版はしがき、序章、第七章)

・七三一部隊について「暴露」された背景には、二極的な政治の対立もあった。すなわち、日本共産党や「左翼」の人たちが、政権を批判する文脈で、これらを「暴露」していたこともある。(第七章)

・戦争における必要は、米国においても人体実験や生物化学兵器を含む軍事技術の開発を行わしめた。ニュルンベルクを経たのちも。(第八章~第十章)

・「医療過誤」と「予防不能の有害事象」は違う。医学と医療には不確実性が内在している。医原病もまた、医学に内在するもの。(第十一章)
科学とテクノロジーの進歩の信仰――すなわち、疾病を理解し、予防し、治療し、患者の延命を図り、死を回避する手段の絶えざる改良をもたらす科学とテクノロジーのダイナミックな能力、「魔法の」新薬開発に対する楽観的希望、人類を悩ます重大疾病を「制圧」・除去せんとする果敢なる好戦的姿勢、疾病・疾患・障害の治療のために精力的な、さらには大胆な行動をとることは善であるという確信――こうしたすべてのものが、近代医学を支え、その推進力となり、医学の、治療の、医学に庇護された健康の、驚嘆すべき進歩を促進してきた。しかし、近代西洋医学のエートスのまさにこうした属性が、同時にその過剰な熱意のゆえ、限界と制限に対する認識不足のゆえ、危険性の過小評価のゆえ、熱狂的に推し進めている処置や投薬から多大な利益を得る患者とほとんど利益を得ることのない患者とを厳密に区別することの忌避のゆえ、害を生み出す可能性がある。(第十一章:203頁)


・「反直感的仮説:医師が対処に苦しむのは、ミスによって有害な結果が生じたときよりも、ミスなくして有害な結果が生じたときのほうである」。医師にとって、自分自身の誤りやすさのほうが、医学自体の誤りやすさよりも受け入れやすいのかもしれない、医師にとって、医学は自らの知識や技能の土台であるばかりでなく、自らの不完全さを埋め合わせるもの、自らにとってのある種の「治療薬」であるから。(第十一章)

・「ヒト胚の取扱に関する基本的考え方」(中間報告書、平成15年12月26日)には、医学研究および医療の範囲を許容される領域と許容しえない領域に二分して線引きしようとする一貫した思考パターンがみられる。「許容される範囲内での研究は「人間の尊厳」を侵さないが、それ以上の研究上の逸脱は尊厳を侵犯するという、専門の名を借りただけの恣意的な考え方である」(第十二章:216頁)。

・イギリスや日本では、ヒト受精胚の研究利用が認められるのは原始線条が形成されるまでの受精後十四日以内のものとされているが、ここではまず「人間の尊厳の有無」が「人格の有無」に、ついで「人格の有無」が「意識の存否」に、さらに「意識の存否」が「神経系の有無」へと、三重の意味でのずらしがなされている。(第十三章)

・西欧における「人間の尊厳」概念は、人間に関して精神や理性のみを焦点化することによって、身体=人体を等閑視している。このようなあらかじめ身体を欠いたかのような人格概念が、ホッブズやロック、カントに伝わっていて、そして今日の生命倫理の議論における「人間の尊厳」概念はこの基礎の上に成り立っている。日本は、こうした西欧の長大な議論を押さえぬまま、字面だけを便宜的に導入している。(第十三章)
「かけがえがない」とは、眼前の者が他の者に置き換え不能というだけではなく、「私」が成り代わることがかなわぬことを意味しているだろう。そして、とりわけこの「私」との交換不能の覚知によって、亡き者の決定的なかけがえのなさが体感されるのであり、このような「かけがえのなさの体感」が、「人間の尊厳の体験」であるように思われる。(第十三章:247頁)

西欧の「人間の尊厳」概念とは、精神・理性・意識などの有無に依拠しているため、「存在の価値」ではなく「状態の価値」をめぐっていたのである。/ここにおいて身体が人格概念の埒外に、したがって尊厳概念の埒外に放逐されているからこそ、身体の技術操作・利用という「新たな野蛮」は、尊厳をめぐる従来の議論では批判を免れることになる。脳死者を臓器提供者にすることや尊厳死を肯定する考えも、実は「状態の価値」という旧来の尊厳概念に支えられているのである。・・・その尊厳概念がひとえに理性を人格・尊厳の基礎としている以上、理性が状態変化して消失すれば、人間は自ずと尊厳をも失うことになる。かような「人間の尊厳」概念=「状態の価値」が、そもそも他との比較考量に途を拓いていたのである。(248頁)

あらかじめ「身体」を放擲した非存在論的な「人間の尊厳」概念では、「人間の身体利用」を含めて「存在の価値」に係わることは考究できまい。身体を導入した「人間の尊厳」概念こそが、すなわち「状態の価値」に換わる「存在の価値」という視座こそが、考究を可能にするのである。(249頁)


・不妊治療はもうかる医療産業。しかし、不妊治療の全体的な成功率はけっして高くはない。また、赴任になる原因を探し出し、それを取り除いていくといった地道で金儲けとは結びつきにくい研究には、医師もビジネスの側もほとんど関心を示さない。(第十五章)

・ハンス・ヨナス:科学とテクノロジーをめぐるユートピア論的な思考(「未来に達成される人類の姿を重視する傾向と、そうした未来の達成を真の人間性がついに姿を現したものと考える思考法」)が打ち出してくる合理化の策略に対して懐疑を表明。

本来的な人間は、自らの高みと深み、自らの偉大さと惨めさ、自らの至福と苦悩、自らの正義と罪において――要するに自らの人間性から分離することのできないあらゆる両義性の只中において――、現在すでに存在しており、また知られる限りの歴史を通じて存在していた[。]・・・こうした構造的両義性の破棄を望むということは、測り知れぬ自由を有する人間というものの破棄を望むということである。この自由によって、また自由の状況ごとの一回性によって、たしかに人間は常に新しく、過去のだれとも異なっているが、彼がいっそう「本来的」になることはない.・・・ユートピアに暮らす完全に両義性をもたない人間は、平板にされ、行動を規定された存在、未来主義的心理工学のホムンクルスとしてしか存在し得ない。(第十六章:321頁。ただし、ヨナスの文章の引用。)



引用をしなかったり、取り上げなかった重要な話がまだまだこの本の中には詰まっています。
読みながら、過去の暗黒の側面があまりにも現在にも残っているように僕には思えてきて、恐ろしくなりました。
よく生命倫理上の問題が出されたときにナチスの例が出され、そのときに「いや、ナチスは例外でしょう」というようなことも言われるのだけど、確かに同じようなことは起こらないとは思うけれども、しかし、ナチスの「例外」さは我々が想像しているよりも遥かに例外ではない。
七三一部隊の話もそうだし、アメリカにおける話もそうだし、非倫理的な研究が「合理化」される背景は、現在とそこまで変わっているわけではない。
過去を学ぶことの重要さを改めて教えてもらったような気がします。

そういえば、香川知晶『死ぬ権利:カレン・クインラン事件と生命倫理の転回』(勁草書房、2006年)の「あとがき」にこんなことが書かれていました。
長くなるけれど、重要なことだと思うので、引用します。

生命倫理として問題となっている事柄の多くは、過去の歴史を振り返るだけでは対応しきれない切実さと緊急性を備えている。求められているのは、明確な方向を指し示す議論といえる。必要なのは悠長な歴史談義ではなく、わかりやすい断定であり、そうした緊急性に答えるきっぱりとした結論を提示してみせる「生命倫理学者」は日本でも育ちつつある。だが、それにしても、明確でわかりやすい結論が元気よく出されれば、それで十分というわけにはいかないだろう。そうした元気よさには時として、事実による裏づけと粘り強い思考、つまりは知恵が欠けているように見えることがないとはいえない。しかも、少し調べてみればとてもいえそうにもないようなことを平気でいいきるのは、痛切な緊急性をもつ生命倫理的な問題の場合には、たんなる迷惑をこえた害をもたらしかねない。そうした恐れを避けるには、問題から距離をとり、生命倫理なるものや自己の立場を相対化する努力も同時にするほかないだろう。歴史的な検討が必要だというのは、そうした意味においてである。(389-390頁)



さて、奇しくも本日、臓器移植法の改定案のうち「A案」が、衆議院を通過してしまいました。
この、脳死者からの臓器移植をしやすくする法案の審議において、本書に書かれていたような暗黒の歴史を踏まえてどこまで真剣に検討がなされたでしょうか。
「臓器が足りない」から、「待っている患者さんがたくさんいる」から、「いつまで待っても結論が出なさそう」だから、すぱっと決めた、というようなことは果たしてなかったでしょうか。

危ないな、と僕は思います。
暗黒の歴史からいったいどの程度、我々は学べているのでしょうか。

(投稿者:Ren)

いぬ

2009年06月17日 | 日記
お久しぶりです、Renです。こんばんは。

今朝、街を歩いていたらこんな風景に出会いました。



そう。ベンチの上に犬がちょこんと座ってたんです。
僕は特別犬が好きなわけじゃないんですけど、これはかわいいと認めざるを得ない。
思わず携帯のカメラでパチリと撮ってしまいました。

あまりにもお行儀が良いので、しばらくそのまま見守っていたら、行儀よく座るのに飽きたんでしょうか、寝そべってしまいました。



でも、こちらもとても優雅なので、携帯カメラでパチリ。
少し近づいて撮ってみました。
見知らぬ人間(Ren)が彼(女)が寝そべっているかなり近くまで来たのに警戒したり驚いたりしないなんて、大物ですね。
僕のほうには一瞥もくれずに、ただ涼しげな視線をどこかに向けていました。

・・・ところで、飼い主さんはいったいどこにいらっしゃたんでしょうか。。

(投稿者:Ren)

菊池馨実〔編著〕『自立支援と社会保障』(日本加除出版、2008年)

2009年06月12日 | 
こんにちは、Renです。
あ、僕(Ren)が投稿するときは文字を青くして、Sakuraが投稿したり、二人で投稿したりするときとは一目で区別できるようにしようかなと思っていますので、今後はご挨拶を失礼することがある可能性もあります。どうかお含みおきくださいませ。

昨日はSakuraが音楽のことを書いてたので、今日は僕が自分の趣味の本の話題をしようかなと思います。
読み終わった本すべてをここに書く予定はないけれど、「お、これは!!」って思った本があったら、どんどんここでご紹介していこうかなと思っています。

さて、今日は菊池馨実〔編著〕『自立支援と社会保障――主体性を尊重する福祉、医療、所得保障を求めて――』(日本加除出版、2008年)を取り上げようかなと思います。
(ちなみに、「日本加除出版」という出版社さんはこの本で初めて知りました。日本加除出版さん、すみません。)


本書は、最近の社会保障法制度の改革で「自立支援」がキーワードの一つになっていることに注目し、この「自立保障」の観点から社会保障各分野の諸制度を論じたものです。
編著者の菊池馨実さんの「はしがき」に本書の性格が分かりやすくまとめられているので少し引用すると、

「本書は、主に社会保障法学を専攻分野とする法律学研究者と社会保障政策の立案に携わっている実務家が中心となって、今日における論争的概念である自立ないし自立支援を軸として、制度横断的にわが国社会保障法制の現状と課題、将来のあるべき方向性などを明らかにすることを目的として編まれたものである」

「本書は、単に自立支援の観点からみた社会保障というテーマに関連する研究論文集を目指したものではない。最近の社会保障をめぐる理論動向や、制度改革の動向を網羅するとともに、可能な範囲で制度(改革)の概略的な説明を付すことにより、いわばテキストブックとしての性格をもたせることも意図している」(p.ii)


とのことです。

具体的には、第1部の総論で、「自立支援」がキーワードとなった背景や、そこにおける(あるいは、あるべき)「自立」の内容、自立支援のための政策手法などが語られ、それを踏まえて(必ずしも「自立」等の概念の内実についてすべての執筆者にコンセンサスがあるわけではないのだけれど)、第2部の各論で子育ての支援や生活保護、障害者福祉、高齢者、医療・介護といった諸制度が「自立支援」の観点から論じられます。
各章の概要や意義については「本書の構成」(pp.v-xiv)でとても分かりやすくまとまっているので興味のある方はそこをご参照ください。

第1章で西村淳さんが示しているところによれば、日本の社会保障の歴史は、

第1期(1973年の福祉元年まで):社会保障制度の整備の時期、
第2期(1985年頃の老人保健・基礎年金制度の創設まで):社会保障の再編と適正化の時期、
第3期(現在まで):微調整と行き詰まりの時期

を経てきて、いまや「社会保障制度改革の技術的な解決法よりも、社会保障の展望をひらくための新たな理念が求められ」るようになった。(以上につき、本書の2-4頁参照。)
その「新たな理念」として注目されるようになったのが「自立支援」ということになるのだろうけれど、そういう意味でそれは十分な議論・検討を経て、満を持して登場したような概念ではなくて、慌てて登場した(あるいは、要請された)という側面もあるのではないかとも思えるのだけれど、でも、僕はこれからの社会保障制度のキーワードの一つとして「自立支援」という概念を導き入れるということは、極めて適切なことだと思っています。
しかし、「自立支援」をキーワードに社会保障の諸制度を本格的に論じる書物というのは、これまでおそらく本書を措いてあまりなかったのではないでしょうか。(もし違っていたらごめんなさい。)
そういう意味で、本書は画期的だと思うし、読んでいて大きな知的刺激を受けることができました。

本書においては、執筆者は共通して、自立を単に「経済的自立」のみとして見るのではなくて、「身体的自立」や「精神的自立」等、多層的なものとして捉えていて、また、自立をただの「状態」として見るのではなく、「自律」に向かう指向性、「自律」の獲得過程として捉える議論(明示的には、終章(菊池馨実)、第三章(尾形健))もあり、僕の「自立支援」に対する視野がぐぐんと広がりました。
各論における諸制度の「自立支援」の観点からの解説も分かりやすくて、また、新しい視点をたくさん教えられて、大変勉強になりました。
知的にわくわくできて、また、大変勉強にもなって、読むことができて本当に良かったと思えた、素晴らしい本でした。

ちなみに、本書と執筆者が一部重なる方々が旬報社より『希望の社会保障改革』という本を最近出しているみたいで、おそらく本書の議論の問題関心とも重なるところが結構ありそうなので、近いうちに読んでみようかなと思っています。
早く読んでみたいのだけど、果たしてSakuraから購入の許可を得られるかどうか・・・。(←おねだり)

(投稿者:Ren)

オペラ『チェネレントラ』 @新国立劇場

2009年06月11日 | 音楽
こんばんは。Sakuraです。
初めてのブログでわたわたしています・・・笑。みなさんこんな難しいことなさってるんですね。文字の色を変えるにも一苦労です(笑)
私もはやく慣れるように、ちょっとずつ覚えていきたいと思います。

今日は先日観に行った新国立劇場の「チェネレントラ」(http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000076_opera.html)について、
ちょこっと書きたいと思います。

なんといっても、Sakuraのお目当ては、主役のヴェッセリーナ・カサロヴァ。
随分前に今シーズンの演目とかキャストが出た時から、行きたいなぁ行きたいなぁって思ってました。
・・というわけで、Renをまきこんで、いざGo!笑

いやー・・・素晴らしかったです・・・。

カサロヴァは最初から最後までコントロールが素晴らしく、高音から低音までムラがありませんでした。
この方の好きなところは、よくあるようなオペラの作り声ではなく、自然な発声をするところです。
誰よりも楽そうにさらーーっと歌いながら難しいアジリタも高い音も低い音もさらっとこなす。鼻歌のようにコロコロしながら、とても的確で遠くの席まで飛んでくる声でした。
そして、言葉も聞き取りやすい。よく近くではワンワン聞こえるけど、遠くに飛んでこない歌い手っていますよね。
カサロヴァは小さい声も、歌詞も、遠くまではっっきり飛んできました。素晴らしいですねー。
今度はロッシーニじゃないのを聴きに行きたいなぁ。
大~満足の公演でした!


・・・それに、ストーリーも分かりやすいので、
オペラ初心者のRenにも好評だったようです(笑)


よかったよかった。

投稿者:Sakura

味乃宮川 東京オペラシティー店

2009年06月10日 | グルメ
こんにちは。初めて投稿します。Renと申します。

この前、オペラ『チェネレントラ』@新国立劇場(http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000076_opera.html)を観に行ってきました。
『チェネレントラ』については、初オペラだった僕よりもSakuraのほうが適切で的を射たことを書いてくれるはずなので、Sakuraにお任せします。(Sakura、よろしくね~。)
僕はそのときのランチで訪れた店のことを書きましょう。


東京オペラシティーにある味乃宮川さん。(http://www.hotpepper.jp/A_20700/strJ000124762.html
うな重がどうしても食べたくなって、僕たちはこの店に吸い込まれてしまったのでした。

すごく落ち着いた雰囲気で、心地良い、和なBGMが流れていたこの店で僕が頼んだのは、うな重の「竹」。

うな重とお吸い物と漬け物と、食後にコーヒーが付きます。
「特上」「上」「松」「竹」とある中で一番財布に優しいものだったので、「大丈夫かな」とほんの少し思ったりもしたけれど、うなぎも十分大きくて、ご飯もたくさん入っていて、もちろん味もとってもおいしくて、大満足でした。

スーパーとかで時々うなぎの蒲焼きが安く売っていると思うのですが、そういうのの中には、つくったような、少し甘ったるい味がするものがあって、いつもいつもおいしくは食べれない。
ところが、ここのうなぎはそういう「つくったような」味がなくて、本当のうなぎの味を楽しめた、ような気がして(本当のうなぎの味がどんなものかは知りませんからね)、とてもよかったです。
ご飯にかかったタレの量もちょうど良かったです。

それからもう一つ嬉しかったことは、サービスで出してくれる暖かいお茶がおいしかったこと。
何回かお代わりをいただいちゃいまいました。
欲を言うなら、僕が「お茶、もう一杯いただけますか?」と言う前についでくださってたら、もっともっと嬉しかったです。


落ち着いて居られて、とてもおいしいうなぎが味わえる味乃宮川さん、大満足でした!
いつかこの店でうな重の「特上」を食べることを目標にします。

(投稿者:Ren)

自己紹介

2009年06月09日 | ご挨拶


こんにちは。

このブログは夫婦ふたりで書いています。
くにたちで出会ったSakuraとRenですが、いろいろあってイギリスにやってきました。
周りの親切な人たちに助けられながら、初めての異国暮らしに奮闘中です。

Sakura & Ren (2014.4.28更新)