SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

スピノザさん巡礼記⑥ スピノザさんの銅像たち

2015年05月07日 | 【イギリス生活】旅行
今回のスピノザさん巡礼で、僕たちは彼の銅像を3つ見つけることができました。
巡礼記の最後にそれぞれご紹介したいと思います。

<Amsterdamのスピノザさん>
場 所:アムステルダムのWaterlooplein。市庁舎(Stadhuis)の近くの橋の広場。
備 考:スピノザさんが生まれた場所。





台座にはオランダ語で「Het doel van de staat is de vrijheid」と書いてあります。
「国家の目的は市民の自由である」という意味の、スピノザさんの政治哲学の立場です。

スピノザさんが羽織っているコートにいろんな鳥が止まっていますが、これはアムステルダムが移民の街だということを示しているのだそうです。
銅像の近くにはここがスピノザさんが生まれた地であるということと彼についての簡単な説明が書かれたプレートがあります(オランダ語&英語)。




<Voorburgのスピノザさん>
場 所:Voorburgの't Loo公園。
備 考:スピノザさんがVoorburgのKerkstraatに住んでいた時期があるためか?



't Loo公園はとても広いので、最初はどうやって見つければいいのか分かりませんでした。
もしThe Hague中心部から行くのであれば、僕が提案する行き方は次の通りです。

①トラムでPrinses Bearixlaan駅へ行く。
②公園沿いのSpinozalaanという通りをNoteboompark方面へ歩く。
③しばらく行くと、開けたところがあって、池の近くに白い銅像が建っています。



ちなみに、この銅像があるすぐ近くに「Spinoza-Flat」という名前のアパートがありました。



この建物を目印にしても良いかもしれません。


<The Hagueのスピノザさん>
場 所:The HagueのPaviljoensgrach通り
備 考:スピノザハウスのすぐ近く





この銅像の写真(1枚目)の後ろにスピノザハウスがあることから分かるとおり、スピノザハウスのすぐ傍です。
スピノザハウスに行こうと思えば必ず見つけられます。

Paviljoensgracht通りに入るところにスピノザさんやこの銅像について説明していると思われるものがありましたが、オランダ語しか書いてなくて僕には理解できませんでした。




それぞれ特徴がありますが僕はハーグの銅像が一番好きでした。
アムステルダムに銅像を建てるときに、ハーグにある銅像を持ってこようかという意見があったそうです。
でも、ハーグ市は、スピノザはアムステルダムから追われたじゃないか、ハーグこそスピノザが主著を完成させた場所だ、と拒否したとのこと(参照、http://vorige.nrc.nl/international/article2053664.ece/Spinoza_returns_home_to_Amsterdam)。
ちなみに上記URLにアムステルダムのスピノザさん銅像についての説明もあります。


僕は学生のときに初めて『エチカ』を読んでから、ずっとスピノザさんの人間を真摯に考察する姿勢に惹かれ、また『往復書簡集』に見られる誠実な人柄を尊敬していました。
一時期はスピノザ研究者になろうかと思って(将来何をしたいのか自分でもよく分かっていなかったのです。)、ライデン大学への留学を考えたことすらあります。
スピノザさんのゆかりの場所を訪れながら、初めて『エチカ』を読んで「「神」をこんなふうに理性的にとらえるやり方があるんだ」と感動したこととか、『神学・政治論』の見事な旧約聖書解釈に頭がくらくらして、それを読んでいたカフェで気付いたらなぜか泣いていたこととか、スピノザさんをどういうふうに研究すれば研究者としてやっていけるのかと考えていた時期にある本に出会って、その素晴らしい研究から自分とその著者の能力の圧倒的な差にショックを受けてスピノザ研究の道を断念した(その著者の名前をRijnsburgのスピノザハウスで見つけました。)ときの寂しさとか、そういう様々なことを思い出していました。

今回のスピノザさん巡礼の旅は、スピノザさんを身近に感じられるようになるだけでなくて、忘れかけていた過去を思い出し、現在の自分を見つめ直す機会にもなりました。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記⑤ Nieuwe Kerk, Den Haag

2015年05月06日 | 【イギリス生活】旅行
1677年2月21日午後3時頃。レンズ磨きが原因じゃないかとも言われている結核に長年苦しんでいたスピノザさんは、44歳の若さで亡くなってしまいます。
遺されたのは159冊の本のほかわずかな身の回りの品だけ。
彼は亡くなる前に、自分が死んだらただちに机をそのままアムステルダムの印刷業者へ届けるように大家さんにお願いしていました。
その机の中にあった原稿が『遺稿集』(Opera posthuma)として出版されます。(いま僕たちが岩波文庫その他でスピノザさんの著作を読めるのは大家さんがちゃんとお願いを聞き入れてくれたからですね。大家さんありがとう。)

スピノザさんは2月25日にNieuwe Kerk(新教会)に埋葬されます。
ただし、お金がなかったスピノザさんはちゃんとした墓地を持てませんでした。
一時的に埋葬された後、そこに次のお金がない死者を埋めるために彼の遺体は別の場所に移されたので、いまではそれがどこに行ったのか分かっていません。



しかし、このNieuwe Kerkの敷地内にはスピノザさんの記念碑があります。



1956年に設置されたものらしいのですが、想像していたよりも立派なものでした。
僕と同じようなスピノザさんファンの方が少し前にいらっしゃっていたのか、スピノザさんの印章の上に小さい花が置いてありました。



ちなみに、この印章のBDSはスピノザさんの名前(Benedictus De Spinoza)のイニシャル。
真ん中の花はバラで、Espinosaのポルトガル語の意味(棘)から来ているそうです。(Spinoza House The Hagueの入口に棘のある木が植わっていて「なんてセンスが良いんだ!」と僕は感銘を受けたのですが、それがバラなのかどうかは植物をまったく分からない僕には分かりませんでした。)
「CAUTE」は、ラテン語で「注意せよ」という意味の言葉。

僕はずっとこれを、彼の思想が教会にとって許しがたいものであったために彼は危害を加えられることをおそれて、「気を付けて行動しよう」と自分に言い聞かせていたんだと解釈していました。(実際、彼が生前に偽名で・出版場所も偽って出版した『神学・政治論』はすぐさま禁書になっているし、死後しばらくも彼は無神論者として多くの人から誤解され嫌われていました。)
でも実はそうではなく、手紙を受け取る人に対し「自分の思想は棘があるから気を付けなさい」というようなことを伝えるものであったそうです(RijnsburgのSpinoza Houseの管理人さんのご教示)。
かっこよすぎる。僕もこういう印章を作りたいし、作れるような人になってみたい。


ハーグの多くの教会もそうだったのですが、この教会も中に入ることができませんでした。
とても綺麗な教会だったので、教会好きなSakuraとRenとしては中がどんな感じか見ておきたかったのですが…。
驚くべきことにこの新教会は『地球の歩き方』に載っていませんが、トラムのSpui駅のすぐ近くにあります。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記④ Spinoza House The Hague

2015年05月05日 | 【イギリス生活】旅行
1669~1670年の冬に、スピノザさんはVoorburgからハーグに居を移します。
最初に住んだのはStille Veerkadeにある家。
でも、ここがあまり好きではなかったようで、1671年の5月にはPaviljoensgracht(ごめんなさい、読めません。)にあるHendrik van der Spijckという人の家に引っ越します。
この家に彼は1677年に亡くなるまで住むことになります。

スピノザさんが住んだことのある家でまだ残っている2軒のうちのもう1軒は、このスピノザさんにとって最後の家です。

<Spinoza House The Hague>
住 所:Paviljoensgracht 72-74, Den Haag
行き方:ハーグの中心地から歩いて行けます。
開 館:アポイントを取れば入れます(普段は入れません)
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=460317722

ここには19世紀後半から現在までのスピノザさんについての様々な文献が収められているとのことですが、研究者でもないただのファンがアポイントを取って良いのかどうか分からず(というか僕にその勇気はなかった)、外から見るだけにしておきました。





ちなみに、Rijnsburgのスピノザハウスにあるスピノザさんが遺した文献(と同じ版のもの)たちもアポイントを取れば実際に開いて見ることができるそうです。

スピノザさんがこの家にいた時期に、あの「ハーグの政変」が起こります。
1672年8月の、スピノザさんの保護者であり友人でもあったJan de Wittさんと彼の兄が、群衆によって引きずり出されて残虐に殺された事件です。
スピノザさんは彼の友人はもとより、彼を批判する人でさえ「above reproach」(非の打ち所がない)な人格者として知られていましたが(Garrett (1996) "Introduction", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridge University Press), p.1)、このときだけは激怒して殺害現場に「Ultimi Barbarorum」(お前たちは最も低劣な野蛮人だ、みたいな意味か?)と書いた張り紙を掲示して抗議しようとしたとされています。
いまにも出かけていこうとするスピノザさんに対し、彼も殺されることになってしまうと心配した大家さんは扉に鍵をかけて彼が外に出られないようにしたと言われています。(ありがとう、大家さん!)
ウィット兄弟の殺害現場は、いまは監獄博物館になっています。(建物の前に行ってみましたが、特にその旨を記したものはありませんでした。)


僕は今回スピノザさんの主要なゆかりスポットにすべて行こうと思っていましたが、リサーチ不足でStille Veerkadeには行けませんでした。
ここの存在をイギリスに帰国してから気付くという大失態。ここにもハーグの中心地から歩いて行けたはずだったのに。悔やんでも悔やみきれません。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記③ Kerkstraat, Voorburg

2015年05月04日 | 【イギリス生活】旅行
1663年の夏にはスピノザさんはVoorburg(フォールブルク?)というハーグ近郊の街に引っ越しています。
彼が借りたのは、Kerkstraatという通りにあるDaniel Tydemanという方の家。
ここで彼は一旦『エチカ』の執筆を中断し、『神学・政治論』に取りかかります(1665年から)。

VoorburgのKerkstraatは大きな教会(Oude Kerk Voorburg)が目印です。



この教会はKerkstraatには建っていませんが、Kerkstraatに立つと正面にこの教会を望むことができます。



なお、Kerkstraatを教会側から見るとこんな感じ。



彼が住んでいた家はもう残っていません。
僕が調べた限りでは「Kerkstraatにある家」というだけで、どこらへんにその家が建っていたのかも分かりませんでした。
それでも、きっとスピノザさんはこの教会を眺めながら暮らしていたんだろうなと思うと、急にスピノザさんが身近な存在になったような気がしました。


VoorburgはChristiaan Huygensさんの出身地でもあるそうです。
恥ずかしながら僕はホイヘンスさんを存じ上げなかったのですが、Spinoza House Rijnsburgの管理人の方によるとオランダが生んだ最も偉大な科学者の一人とのこと。
なお、Bunge (2008:7)でも、オランダ出身の偉大な3人の人物のうちの一人としてホイヘンスさんが挙げられています(他の2人は、エラスムスさん(最も偉大な学者)&スピノザさん(最も偉大な哲学者)。個人的にはここにグロティウスさんが入っていないことが驚き!)。

ホイヘンスさんは1629年~1695年に生きた人(Wikipedia)で、スピノザさんと同時代人。
スピノザさんが磨いたレンズを用いており、そのレンズの質を絶賛したとも言われています(Klever, 1996:33-34)。

街の雰囲気も良いし、街並みも綺麗なので、スピノザさんファンの方だけじゃなくて、ホイヘンスさんファンの方にも、あるいはそうでない方にもおすすめの街です。

僕は「't Loo」という、スピノザさんの銅像がある公園から歩いて行きました。
この公園について&ここへの行き方については、後日書く予定です。

(投稿者:Ren)

スピノザさん巡礼記② Spinoza House Rijnsburg

2015年05月03日 | 【イギリス生活】旅行
1661年にはスピノザさんはアムステルダムを離れ、当時のCollegiantたちの拠点の一つだったRijnsburg(ラインスバーグと読むのか?)という街に移住します。
彼はここに1663年まで住み、レンズ磨きで生計を立てつつ、英国のHenri Oldenburgを介してRobert Boyleなどの科学者やアムステルダムにいる友人たちと文通を行います。
また、ここでのちに『デカルトの哲学原理』出版につながる個人指導を、同居人のJohannes Caseariusという学生さんにしています。

ここには2軒残っているスピノザさんが実際に住んでいた家の1つがあって、今回の巡礼の旅の僕にとっての最大のハイライトでした。

<Spinoza House Rijnsburg>
住 所:Spinozalaan 29, Rijunsburg
行き方:Leiden Central Stationで37番のバスに乗る(Katwijk行き)。15分~20分乗って、Spinozalaanで降りる。片道4ユーロ。
開 館:13:00~17:00(火~日)
料 金:3.5ユーロ
http://www.spinozahuis.com/main.php?obj_id=435102236


バスは少し前の北ウェールズ旅行でお世話になったArriva bus。
電光掲示板&アナウンスで次の停留所を教えてくれるので降りる場所が分からないということにはなりませんでした。
(小心者のRenがしたように、バス会社のHPからすべての停留所をメモに転記しておくという方法もあります。http://wiki.ovinnederland.nl/wiki/Lijn_37_Katwijk_Vuurbaak_-_Leiden_Centraal_Station

目的地のSpinozalaanはかなり田舎です。



Spinozalaanという通りをずっと行くと、



Spinoza Houseがありました。



スピノザさんに興味がある人は世界中にたくさんいらっしゃるようで、この博物館には、Max Weberさん、Albert Einsteinさん、Daniel Barenboimさんといった錚々たる方々も訪れてゲストブックに名前を残しています。
博物館の管理人の方に伺ったところ、ここには外国人がたくさん来るものの、地元の人は非常に少ないとのことです。(当時とは違って宗教的に保守的な人が多いようで、近所の教会や保護者がスクールトリップ等でここを訪れることに反対するのだそうです。)

この博物館に何があるかというと、
・スピノザさんの様々な肖像画&銅像
・スピノザさんが書いた手紙(ライプニッツさん宛のも!とても丁寧な字でした。)
・スピノザさんの蔵書(彼が持っていたそのものではないけど、同じ版のものを集めたらしい。スピノザさんは借金を残して死去したので、彼が持っていた本はほとんど売却されたそうです。なお、スピノザさんは本に線を引いて、余白に自分の考えとかをメモしていたそうで、同じことをしているRenは嬉しくて仕方ありませんでした。)
・スピノザさんが使っていたのと同じ型のレンズ磨きの機械(実際に触ることも可能!)
・実際に出版された『神学・政治論』(様々なバージョンがありました。)
・スピノザさんについてのビデオ などなど

すべてというわけにはいかないものの、少なくとも半分くらいの展示物にはオランダ語だけじゃなくて英語の解説もついていました。
また、博物館の中では管理人の方がそれぞれのものを丁寧に説明してくださるので、オランダ語が分からなくても十分に楽しめると思います。

管理人の方はスピノザさんについてすごく詳しくて(英語もものすごくお上手)、スピノザさんの思想や彼の人生について長時間語り合うことができました。
その日はとてもいい天気だったので綺麗な庭にも案内してくださって、そこでご親切にもお茶までいただいてしまいました。

館内は写真撮影可だったものの、SakuraもRenも写っていない良い写真がないので、庭の写真だけ。



結局、このSpinoza Houseには2時間ほど滞在。
スピノザさんについて詳しい人と彼について語れて、スピノザさんゆかりの品もたくさん見れて、ものすごく幸せな時間でした。

(投稿者:Ren)


スピノザさん巡礼記① Portuguese Synagogue

2015年05月03日 | 【イギリス生活】旅行
スピノザさんの巡礼のためにオランダに行ってきました。

インターネットを検索してみると、日本語で様々なスピノザさん巡礼スポットについて情報を残している方が結構いらっしゃいます。
学識あるそんな方々とは違って僕はただの「なんちゃってスピノザさん愛好家」に過ぎないのですが、彼ら彼女らの情報のおかげで僕の今回の旅が実現したのと同じようにここに書くことで誰かの役に立てるかもしれないと期待しつつ、自分自身の思い出の整理も兼ねて、これから数回に分けて「スピノザさん巡礼記」を書いておこうと思います。

なお、スピノザさんの伝記的な話については、特に記していない場合は以下の文献に依拠しています。
・W. N. A. Klever, "Spinoza's life and works", in Don Garrett ed., The Cambridge Companion to Spinoza (Cambridege University Press, 1996), pp.13-60
・Wiep van Bunge, Philosopher of Peace: Spinoza, Resident of The Hague (Municipality of The Hague, 2008)


さて、スピノザさんはポルトガル系のユダヤ人移民の息子として、1632年にアムステルダムのWaterlooplein(ウォータールー広場)の近くで生まれました。
23歳のとき(1656年)に、理由はよく分かっていないらしいのですが(彼の自由な思想が原因とも金銭的なこと(=シナゴーグへの税の不払い)が原因とも言われています)、スピノザさんはポルトガル系ユダヤ人のコミュニティーから破門されてしまい、結果、彼はアムステルダムのユダヤ人たちとのコミュニケーションをすべて断たれます。

このスピノザさんを破門したポルトガル系ユダヤ人のシナゴーグ(Portuguese Synagogue)がWaterloopleinの近くにあります。



このシナゴーグができたのは1675年なので、スピノザさんを破門したときにはまだここには建っていません。
でも、スピノザさんを破門したポルトガル系ユダヤ人コミュニティは継続していて、このシナゴーグを利用しているようです。

実はシナゴーグを見るのは初めてなので、このシナゴーグが他と比べてどうなのかはよく分からないのですが、当時のユダヤ人たちのお金持ちっぷりが分かる、大きくて立派な建物でした。
シナゴーグの中には入りませんでしたが、後ろに回ってみると、銅像(ユダヤ人の苦難を示しているのか?)が建っていました。




ちなみに、ユダヤコミュニティから破門される前後から彼はFranciscus van den Endenという人からラテン語と無神論思想について学び始めます。
この先生からスピノザさんが受けた影響はものすごく大きくて、「いわゆる「アムステルダム・スピノザサークル」は、むしろ「Van den Endenと彼のサークル」と呼んだ方が良い」(M.Bedjai, 1990(quoted in Klever, 1996:26))とする研究者もいるほどなので、ファン・デン・エンデンさんのお墓も訪れておかなければと思ったのですが、彼はパリで亡くなっていてお墓もパリにあるようです。
パリに行く機会があればお墓参りしておこう。


(投稿者:Ren)

北ウェールズ旅行記(3)Conwy

2015年03月12日 | 【イギリス生活】旅行
北ウェールズ旅行記の最終回はConwyについてです。

ConwyはLlandudnoからバスで20~30分くらい。
今回はConwyが終点ではないので、バスのアナウンスの存在がとてもありがたかったです。

ちなみにConwyには鉄道駅もあるのですが、切符をインターネットで注文したときに「request only stop」という恐ろしいことが書かれてありました。
止まってくれなかったら困るので、今回の旅の往路の電車の中で何度も車掌さんを呼び止めて「Conwyに行きたいんですけど、どうしたらいいですか?」と聞くRen。
そのたびに「あとで別の人が来るから、その人に伝えて」と言われたものの、伝えるべき適切な人は最後まで現れず、でも電車はConwyで止まってくれました。
復路についても、Conwyの駅に、「リクエストがないと電車は止まらないので、運転手に明確な合図を送って止めてください」との表示があったため、Renは電車が近づくとバスを止めるのと同じ仕方(手を横に出す)で合図を送ったのですが、同じプラットフォームにいた人は誰もそんなことはしていなくて、恥ずかしい思いをしました。
いったい何が正解だったのでしょうか。

さて、Conwyも一番の見どころは城です。
Conwy CastleはCaernarfon Castleにすごく雰囲気が似ていますが、後者より若干小さい感じ。



ここもたくさんあるタワーに上って、城を見下ろしたり街を見渡したりすることができます。
今回は前回の反省を活かして、上ったのは2つくらい。(教会でも城でも、西洋の古い建物の階段はかなり急です。)



この城がどういう背景で建てられ、どういう役割を担っていたかを詳しく解説してくれる展示があれば良いのですが、そういうのを見つけることはできませんでした。(ちょこっとした解説はありました。)
なので、せっかく行ってきたけど、CaernarfonについてもConwyについても、『地球の歩き方』を超える知識が僕に追加されることはありませんでした。

城の中にいたときは天気に恵まれなかったのですが、昼食をとって外に出るといつの間にか良い天気になっていました。



日差しがとても気持ち良かったので城壁の上を歩くことに。
Conwyは城壁の保存状態がとても良く、城を取り囲む城壁のほとんどを歩くことができます。



城壁は城から離れるにつれて高度があがっていきます。
Renは高いところが怖いので、この写真を撮ったときは、手が震えていました。



そして、一番高いところからConwyの街並みとConwy城が綺麗に見えました。
(もちろん、このときも手が震えていたので、カメラを落とさないように必死でした。)



もしConwyを訪れたときに天気に恵まれたとしたら、城壁ウォーキングはmust-doだと思います。
天気の条件が等しくないのでCaernarfonにはフェアではないことを自覚していますが、でも、Conwyのほうが街が綺麗だったし、見るところも多かったです。
北ウェールズ旅行をするなら、Conwyをメインにして、Caernarfonは時間があったら行くところにしても良いように思いました。


今回の旅のまとめ。
・Conwyがおすすめ。晴れていたら城壁の上を歩きましょう。
・Llandudnoは街自体も素晴らしいしConwyやCaernarfonへのアクセスもとても良いので、宿泊先としておすすめです。


(投稿者:Ren)


北ウェールズ旅行記(2)Caernarfon

2015年03月11日 | 【イギリス生活】旅行
北ウェールズ旅行記の2つ目は、今回のメインイベント(のつもりだった)Caernarfon。

CaernarfonはLlandudnoから5番のバスで90~100分ほど。
往復(というか一日乗り放題)で一人£5.00でした。

イギリスでバスに乗ると常に「どこで「降ります」ボタンを押すべきか問題」に悩まされるのですが、この地域のバス(Arriva bus)では電光掲示板&アナウンスで次の停留所を教えてくれるのでとても助かりました。(Caernarfonは終点なので、行きに関してだけなら別にこれがなくても困らなかったと思いますが。)
さらに、Coventryのnational expressバスとは全然違って、「運転手さんに話しかけても反応してくれる」し、「細かいコインがなくてもおつりをくれる」という素晴らしさ。
ArrivaさんがCoventryに進出してくださらないかなと本気で思いました。(念のために補足すると、イギリスがどこでもnational expressと同じというわけではありません。Colchesterのバス会社Firstはちゃんと運転手さんは反応してくれたし、おつりもくれました。)

ちなみに、Llandudnoでは全く見かけなかったウェールズ語を話す人たちがCaernarfonに近づくにつれて多くなってきます。
ようやく「外国」に来ているんだなという気持ちになりました。

さて、Caernarfonはイギリスの王室の皇太子即位式が執り行われる由緒正しいCaernarfon Castleがあるところ。



本来であれば入場料を払わなければならないのですが、補強工事が行われていてアクセスできない場所があるということで、無料で入場することができました。

外側から見る印象よりも城内は広くて開放的。
天気が良かったら、もっと緑が鮮やかに映えて素晴らしかったんだろうなと思います。



ここも風がものずごく強くて、おかげでウェールズの旗が綺麗にはためいていました。



なお、城にはたくさんのタワーがあって、そのほとんどに上ることができます。
なんとなく全部のタワーに上ってしまいましたが、見える景色はほとんど変わらないので、上るならどれか一つで良いかもしれません。

さて、Caernarfon Castleは良かったものの、Caernarfonはこの城以外に見るところがほぼありません。
城と城の周りのほんの少しの道以外は荒れていて雰囲気があまりよくありませんでした。

ただ、昼食に入ったクレープの店「Scoops」はとても美味しかったです。



クレープと聞くとどうしてもスイーツを思い浮かべてしまいますが、ちゃんとチーズやオニオンの乗った食事用のものもあります。
店内はほとんど地元の人ばかりでウェールズ語が飛びかっていましたが、店員さんにはちゃんと英語が通じました。


楽しみにしていたCaernarfonですが、あまり街の居心地が良くなかったのですぐにLlandudnoへ戻りました。
昼食の時間を入れても、滞在時間は3時間程度。(往復のバス時間の方が長かった…。)
『地球の歩き方』には「北ウェールズを代表する中世の古都」とあるのですが、ちょっとそれは言い過ぎなんじゃないかなと思います。
確かにCaernarfon Castleは良かった。でも、ここをメインの目的地にして旅行するほど良いとまでは感じませんでした。

(投稿者:Ren)

北ウェールズ旅行記(1)Llandudno

2015年03月10日 | 【イギリス生活】旅行
週末に北ウェールズに旅行に行ってきました。

一番の目的は、『地球の歩き方』を読んでいて行きたくなったCaernarfon訪問。
ところが、Caernarfonまでは電車が通っていない。でも『地球の歩き方』を見ると、この街の近くにConwyという別の観光地が載っている。
ということで、せっかくなのでConwyも「ついでに」行くことにしました。

今回宿泊したのは、Llandudno。
旅行を決めたのが出発の数日前だったのでConwyで手ごろなホテルが空いておらず、「仕方なく」近くのこの町に泊まることに。

でも、以上の「ついでに」と「仕方なく」が結果としては大正解でした。
その理由を含めて、これから何回かに分けて書いていこうと思います。


まず、Llandudno。



『地球の歩き方』には「スランドゥドゥノ」と書いてありますが、泊まったB&Bのご主人に確認したところ、どうやら「クランディドゥノ」と読むようです。
発音の仕方が分かるように大胆に書くなら、「Clandidno」のような感じでしょうか。

Llandudnoは、North ShoreとWest Shoreの2種類のビーチを楽しめるところが特に魅力的。
ビーチリゾートとして発展してきたので、街もとてもお洒落&綺麗でした。
さらに、Great Orneという山がすぐ傍にあり、また、少し遠くを見るとSnowdoniaの山々も見えるので、山を見るのが好きな人にもおすすめ。

さて、2つある海岸のうち、リゾートとして整備されているのは、North Shore。
ここにはホテルが立ち並んでいて、夏はきっと物凄い数の人たちで溢れるんだろうなと思います。



一方で、West Shoreの方面にはおそらくこの町と恋に落ちて移住してきたんだろうなと思われる人たちの家々がたくさんあって、海岸も落ち着いていて海水浴というより散歩したくなる雰囲気。
ここから見る夕焼けが特に素晴らしかったです。こんなに美しい夕日を見たのは久しぶりでした。



また、この街をめがけてたくさんの人々がやってくるからでしょうか、街の中心にはとても大きな教会がありました。



「Holy Trinity Church Llandudno」という、およそ150年前にできたParish Churchなのですが、教会の方に聞いてみたところ、元々Great Orneに教会が建てられていたものの、人が多くなってきたので、「Cathedralistic」(「大聖堂的」?どういうところがそうなのかは聞けませんでした。)な教会を新たに建てたとのこと。

内部はシンプルで、とてもRen好み。



「The Angel」という、キリストの生涯を天使の身体や羽に彫ったもの(これができたのは、1970年頃と比較的新しいようです)もあって、ちょっと不気味ですが一見の価値ありです。




LlandudnoからはConwy・Bangor経由でCaernarfonへのバス(乗り換えなし!)が頻繁に出ているので、ConwyやCaernarfonに観光に行く分にはまったく困りません。
レストランもとても種類が豊富なので、フィッシュ&チップスしかない、という事態には間違っても陥りません。
ConwyやCaernarfonに行こうという方にはここでの宿泊を強くおすすめしたいところです。
機会があればシーズン中(夏)にもう一度来てみたいと思いました。

ただ、風がめちゃくちゃ強いのには驚きました。
どのくらい強いかというと、普通に立っているのが不可能なくらい。
一年中こうなのか、それとも夏は穏やかなのか、気になるところです。

(投稿者:Ren)

Berlin旅行記⑧ 番外編:ルターさんに会いに行く

2015年02月10日 | 【イギリス生活】旅行
SakuraとRenの旅行は、一か所に留まってゆっくり過ごすのが特徴。
でも、滞在中に一度だけベルリンを出たことがありました。
ベルリンからそんなに離れていない場所にRenが尊敬してやまないルターさんゆかりの場所があることを知って、「Lutherstadt Wittenberg」(以後、『地球の歩き方』に倣って「ヴィッテンベルク」と書きます)という町に行ってきました。(SakuraへのRenの趣味の押し付け。)

ヴィッテンベルクはルターさんが「95箇条の提題」を掲げた(1517年)場所であり、ルターさんが神学の教授として活躍していた場所であり、また、ルターさんが自らへの「破門脅迫の大教勅」を焼いた場所であり、要するに、全世界のルターファンにとっての聖地の一つ。
ベルリンからは、Hauptbahnhof(ベルリン中央駅)からRE5で1時間15分ほど。『地球の歩き方』には「ICE特急で」と書いてありましたが、駅員さんからこっちをおすすめされたので、たぶん少し安めなんだと思います。ただし、そんなに頻繁に電車が走っているわけではないので、時刻表は要確認。

さて、全世界のルターファンの聖地、ヴィッテンベルク。
きっとRenみたいにルターさんに会いに来た人たちでうようよしてるんだろうなーと思っていたところ、



・・・あれ??誰も歩いていない。。
時折地元の人っぽい方が通るのですが、東洋人がよっぽど珍しいのでしょう、おじさんもおばさんもみんな、僕たちをじーーーーっと見て通り過ぎていきました。
Manningtreeに初めて来たときの感覚が思い出されました(笑)

この町の必見スポットは3つ。「ルターの家」とルターさんの銅像がある「マルクト」、それから「95箇条の提題」が貼り付けられた「城教会」。
まず「ルターの家」。



ただのルターさんが住んでいた家なのかなと思っていたら、ルターさんについて大変充実した展示がある博物館でした。
ドイツ語だけじゃなくてちゃんと英語での解説もあって、ルターファンならきっと満足できるんじゃないかと思います。
博物館の中に、実際にルターさん一家が住んでいた部屋が残されていたのですが、あるルターファンの方に(というのも、いろんな展示をRenと同じ顔をして見ていたので)、「写真を撮ってください」とお願いされました。その方に勝手に親近感を抱いたRenでした。

Renが一番興奮したのは、ルターさんがドイツ語翻訳をする際に使用した聖書の展示。
聖書の至る所に、赤線と書き込みがあって、なんとそれがRenの本の汚し方にすごく似ていたのです。
「そうか、ルターさんも線を引いて、書き込みながらいろいろ考えてたんだ」と思って、嬉しくなりました。
ルターさんって現存した人物だったんですね、歴史の本に名前だけ載っているだけじゃなくて、ちゃんと500年くらい前の時代に生きていたんですね。それを今回の旅で感じられて本当に良かった。

次に、マルクト。



ルターさんの銅像だけじゃなくて、ルターさんのお友達だったメランヒトンさんの銅像もあります。(写真の右端にほんの少しだけ写りかけているもの。)
ちなみに、ルターさんの後ろに見えるのは、市庁舎。
ここは今も現役なのかどうか、気になるところ。
市庁舎の右に見えるのが、聖マリエン市教会。長くなるので書きませんが、ここもとても良い教会でした。

そして、城教会。



ん??なんか工事中にしか見えない。。
事務所があったので聞いてみたら、現在2017年の宗教改革500周年プロジェクトに向けて大改装工事中とのことで、いまは中に入れないらしいです。
実はヴィッテンベルクに来た半分以上の目的はこの教会の中にあるルターさんのお墓をお参りすることだったのですが…。

「95箇条の提題」があるところだけは白い布に覆われていなかったので、せっかくなので写真を撮っておきました。



もちろん、ルターさんが貼り付けたものがそのまま残っているわけではなくて、95箇条が刻まれているだけです。
一番の目的を達成できなかったので、2017年以降に、必ずまたここに戻って来ようと思います。


城教会に入れないという痛恨のハプニングはあったものの、Renにとって最高に充実したお出かけでした。
Sakuraはさぞかし退屈だっただろうと思いきや、ランチで入ったイタリアンレストランのパスタがとても美味しかったようでご機嫌でした。



僕だけが良い思いをしていたら申し訳なかったので、彼女も楽しんでくれて良かった。(パスタだけど。)
でも、、、それにしても、この町には本当に人が全然いなかったのですが、世界にルターファンってあまりいないのでしょうか…。


旅行から帰ってきてから2人して体調を崩すなどいろいろあって、旅行記を書き終えるまで時間がかかりすぎてしまいましたが、これでBerlin旅行記はおしまいです。
次回からはまた通常通りに戻ります。

(投稿者:Ren)