SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

研究倫理ステートメントをめぐる一騒動(愚痴)

2015年04月14日 | 【イギリス生活】学生生活
博士論文の中間報告会(First Year Review)のための書類たちは今日が提出期限でした。
その提出に向けてひとまずは頑張っていたわけですが、書類の一つにこれから行おうとしている研究が研究倫理に反しないこと(反する可能性がある場合は、どのようにしてそれを避けようとするか)を書いてサインをするもの(研究倫理ステートメント)も含まれていました。
その書類にサインするのは、研究者本人と第一指導教授(first supervisor)と第二指導教授(second supervisor)。

ステートメント自体は簡単に書けました。
問題は指導教授たちにサインをもらうこと。
何が大変だったかというと、サインしてもらおうと思って彼らにメールしても全然返信がなかったのです。(先週末までイースター休暇中なので責められないけど。)

ようやく第一指導教授と連絡が取れたのは先週の初め頃。

Ren「この書類にサインをしてもらいたいのですが、今週(=先週)研究室に行っても良いですか?」
先生「いまホリディ中だから来週から来るよ。でも、まだいつから来るかは決めてない。その書類っていつまでだっけ?」
Ren「4月13日の月曜日までです。来られそうですか?電子署名でも良いそうです。」

でも、それからずーっと返信が来ない。
あんまりしつこく言うのも、、、と思って今日まで待っていたけど何も音沙汰がないので、昼頃に再度メール。すると、

先生「ファイルを送ってくれたらすぐサインするよ!電子署名だけど、学部事務局には言っておくから心配しないで。」

まだ第二指導教授と連絡が取れないんですよね、と書きながらファイルを送る(でも、事務局には何を言うつもりなんだろう?)と、すぐにサインしてくれて、事務局と第二指導教授と僕宛にこんなメールが。

先生「Renの研究倫理の書類に電子署名を付けて送ります。ドム(第二指導教授)、この書類に時間あるときにサインしてくれない?」

締切は今日までだから「時間あるとき」では困るし、事務局もいきなりこんなメールを送りつけられて困惑するだろうなと思ったけど、先生には全く悪気はない。僕の指導教授は無邪気すぎます。そういうところが好きなのだけど。。

これでなんとかギリギリすべての書類を提出できる、と思っていた(第二指導教授にはもう一度メールを送った)のですが、それからしばらく何も動かない。
焦った僕は博士課程のディレクターの先生にメール。

Ren「これこれこういう状況で、もうずーーーーっと第二指導教授と連絡が取れません。研究室に行ってみたけど、どうやら今日は来ていないようです。どうしたらいいでしょうか。」
ディレクター「指導教授一人のサインがあれば十分だよ。もう提出しちゃいなよ。」

あ、そうだったの・・・?よかった。
でも、そうなら、どこかにそう書いておいて欲しかったです。。


この2週間ほど、ずっとこのステートメントをめぐってそわそわしていました。
ずっとそわそわしていたので、書類を全部提出できたいまもそわそわしてしまいます。
結局、「どうしても今日までに提出しないといけないんです」とメールをした第二指導教授からはまだ返信がありません。
単にまだメールをチェックしていないのなら良いけど、何か失礼なことをして怒っていたらどうしよう(今後もお世話になるし)、と小心者ののRenは不安です。

「休み中は連絡が全く取れなくなることがあるから注意しなくちゃいけない」ということと、「そういうこともあるから普段からもっと連絡を頻繁にとっておいた方が良い」ということを学びました。


でも、実は、指導教授からドラフトへのコメントを先々週末までにもらう約束だったんだけど、それをまだもらえていない・・・。
きっと先生は忘れてしまったんだと思う(憎めない先生によくあること)から催促はしないでおくけど、もう少ししたら別の相談と一緒にフィードバックしてもらおうと思います。

(投稿者:Ren)

イースターホリデイ中のキャンパス

2015年04月06日 | 【イギリス生活】
イギリスはいま総選挙の真っ最中で、政治学を勉強している僕にとってわくわくの毎日ですが、春休み中の大学はがらんとしています。
特にイースターを含むこの連休中は大学内のいろんな店が閉まってしまっているからか、大学を歩いていてもほとんど人に出会いませんでした。

家の近く。


キャンパス中心部への道。


図書館周辺。


社会科学部の建物。


キャンパスの中心部。


いつもは人で溢れる広場。



こんなに誰もいないのに、広場にあるコーヒー屋さん「COSTA」は時間を短縮してではあるものの空いていました。
最近は毎日のようにここに来て、二人でラテ&勉強をしています。

実は二人でここを利用し出してからすぐに、僕たちは店員さんに顔を覚えられました。
僕たちの顔を見るなり店員さんはラテを作りだします。
カウンターにつくと、「Two small lattes?」とか、何も言わずに、「Anything else?」と聞かれるので、最近は「Yes」か「No」くらいしか英語を使う機会がありません(オーダーすらしない)。
(※ちなみに、「two cups of cafe latte」みたいな文法的に正しい言い方はほとんど誰もしていません。複数飲みたいときは、「coffees」「lattes」「teas」です。)

正直に言うとたまにはラテ以外を飲みたいときもあるのですが、一回、「いや、今日はカプチーノが飲みたいです」と言ったら、もう僕たちのラテができるところで、店員さんに「もう作っちゃったからラテはサービスするよ」と言われて申し訳ない気持ちになってからは、ラテ以外のものをオーダーしないことにしています。
ごくたまに僕たちのことを覚えていない店員さんがいたりして、そのときに「What can I get for you?」などと言われると、英語を話す用意ができていない僕はあたふたしてしまうのです。
覚えられるのも良いことばかりではありませんね。

(投稿者:Ren)

Bo Rothstein, Just Institutions Matter (Cambridge University Press, 1998)

2015年04月05日 | 
今日はBo Rothstein, Just Institutions Matter: The Moral and Political Logic of the Universal Welfare State (Cambridge University Press, 1998)を取り上げたいと思います。



本書は、1994年にスウェーデン語で出版された、Vad bor staten gora? Om valfardsstatens politiska och moraliska logik (SNS forlag)の英訳。
タイトルをそのまま翻訳したWhat Should the State Do?が本書全体のモチーフになっています。

本書のポイントは以下の2点にまとめられます。
(1)規範的政治理論と実証的政治科学を組み合わせたこと。
(2)制度のあり方が国民の福祉国家政策に関する選好に影響することを主張し、正義に適う制度(Just institutions)を構築することの重要性を指摘したこと。

これらにより、著者は選択的福祉国家よりも優れているものとして、普遍的福祉国家を擁護しようとします。

著者は福祉国家の将来を議論するためには、何が起こり得るか(Can)だけではなくて、何が望ましいか(Should)も考えなければならないと主張します(p.1, pp.8-9)。
ところが、著者の見るところ、政治哲学者たち(Rawls、G. A. Cohen、John Roemer、Bruce C. Ackerman、Richard J. Arnesonなどの錚々たる論者たちを参照しながら)は自分たちの提案の実現にかかる政治的及び行政上のコストをほとんど考慮しておらず、それゆえに現実の政治においてなんら使えるものではない(pp.10-14)。

著者は、政治制度がその制度の下で行動する人々にどの戦略的行動が合理的かを示すだけではなく、その社会における確立した規範を示すものであること(pp.16-17)に注目し、政治哲学と実証政治学をリンクさせるものとして、制度を研究することを目指します。
政治哲学において著者が依拠するのはリベラリズム。
主なリベラリズムの議論を参照しながら(功利主義とリベラリズムとコミュニタリア二ズムを教科書的に反駁しつつ)、国家は「equal respect and concern」をすべての構成員に確保すべきで、それを実現するために国家が介入し、市民の自律的な選択を支援するべきと主張します(第2章)。

一方で、著者は制度のあり方は国民の福祉国家政策への支持に影響することを、Margaret Leviの「contingent consent」に基づいて主張します。
すなわち、著者(というかLeviさん)によれば、人々は自分の利益を追求するけれど、同時に正しいこともしたい(pp.140-141)。
なので、道徳的価値と結びついている政策が十分な支持を得るためには以下の条件が満たされていることが必要になる。
①その政策が公正(fair)であると人々によって認識されていること
②自分だけじゃなくて他の市民たちもちゃんと公正な仕方で貢献すると信じられること
③その政策は公正に実施されること

以上の議論から、著者は普遍的福祉国家が選択的福祉国家より優れていると主張します。
たとえば、①に関して、選択的福祉政策(capabilityを欠く人たちに福祉を提供)は、(i)誰が本当に必要としていて誰が必要ないのか、(ii)必要としている人は、そうなってしまった原因が自分にあるのかそうでないのか、という2つの解決することない境界線問題に悩まされ、「undeserving poor」に議論が集中することになる。
結果、政策が公正だと受け止められることはあまりない。
また、境界線をめぐる議論の中で福祉の受給者に負の表象(スティグマ)が付されることになり、彼(女)らは自尊感情を傷つけられてしまう。
これでは自律的な市民として行動できず、equal respect and concernの原則にも抵触すると指摘されます(pp.157-160)。

一方で普遍的福祉政策では、「poorな人たちに何をするか」から「市民と国家の関係はどうすれば公正になるか」に、「彼らの問題をどうするか」から「我々の共通の課題(医療、教育、年金等)をどう解決するか」に問題が移行するために上記の問題は生じない。
著者はHugh Hecloの次の指摘を引用します。「貧乏な人たちを助ける最善の方法は、彼らについて話さないことだ。つまり、彼らを特別にターゲットにした政策を作らないことだ」。

同様に、②③に関しても「equal respect and concern」の原則及び「contingent consent」の観点からの検討が行われ、いずれの面から見ても普遍的福祉国家が優れていることを確認します(長くなりそうなので省略します)。


政治哲学が大好きな僕は本書の議論の進め方に大いに魅了されたのですが、指摘できることを2つ。
まず1点目として、本書の理論的貢献がよく分からない。
「contingent consent」論を福祉国家にも適用したところが新しいのかもしれないけど、この理論の中身はLeviさんとほとんど一緒でした。
これに関わる2点目として、「contingent consent」論による実証がstaticなものにとどまっていて、説得力が弱いように思われる。
Leviさんの税制を対象にしたOf Rule and Revenue(1988)や徴兵制を対象にしたConsent, Dissent, and Patriotism (1997)で行われているような充実したdynamicなケーススタディーが必要だったのではないかと思いました。
また、普遍的福祉国家のほうがたとえうまくいっていたとしても、それはたまたまその国がそうしやすい環境にあっただけで、それを他の国に適用できるのかどうかはそう簡単に言えることではない(なぜ規範的により望ましいはずの普遍的福祉国家が、こんなに少ない国でしか志向されていないのか?)。

重要なテーマに対する野心的な挑戦だけにいろいろと批判をすることはできるけれども、人々の規範意識に注目し、制度をどのように構築するかが重要だという本書のメッセージは直観的にすごくよく分かる(この点で、とてもpolicy relevantな重要な研究でもあると思う)。
ただ、やっぱり、以前取り上げた加藤淳子さんの「付加価値税を早くに導入した国はそれが福祉に使われるという信頼があるからその後も税金を上げやすくて、その結果福祉もさらに充実する」論(Regressive Taxation and the Welfare State, 2003)に指摘できることと同じように、すでにJustでない制度を作ってしまった普遍的福祉国家以外の国々はどうすればいいのか(もうどうしようもないのか)という悩みをどうしても抱かせられてしまう。
政治哲学と実証を橋渡ししようとする試みに心を躍らせられながら、でも、ちょっと物足りなさも感じた本でした。


(投稿者:Ren)