SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Cecilia L. Ridgeway, Framed by Gender (Oxford University Press, 2011)

2018年10月15日 | 
ここ最近、セクハラだったり入試における女子生徒の差別的取り扱いだったりと、ジェンダーの問題に関わるニュースをよく見聞きします。
これらの問題について考える上では、まず一歩引いて、基礎的なことを知っておくことが有益ではないか。
ということで、この度読んだのが、この本でした。



Cecilia L. Ridgeway, Framed by Gender: How Gender Inequality Persists in the Modern World (Oxford University Press, 2011)。

経済や政治等の環境の変化もあって、女性が男性と同じくらい働くようになってきたり、性別による差別が禁止されているにもかかわらず、なぜ米国においてジェンダー不平等が残っているのかを明らかにすることが、本書における著者のモティベーションです。
著者はこの問題を考えるにあたり、我々が他者と関わるときに無意識に、自動的に、相手を男であるか女であるかをまず判断する、ということに着目します。

著者は、人間は、自分や他者をなんらかのカテゴリーに属するものとしてから、他者とコミュニケーションをとったり、自分がどう振る舞うべきかを考えるのだけれど、そのようなカテゴリーの中で最も基礎的なものの1つが性別だ、と言います。
人種や階級などと違って性別が重要であるのは、男と女はあらゆるセクターにまたがって存在しており、両者は相互に関わることが非常に多いということ、そして、生殖のためにお互いがお互いを必要とするということがあるから。
我々は、他者が現れたときに、まず、その人が男なのか女なのかを判断することから関係を始め、それがうまくいかないと当惑を覚える。
本書のタイトルは、この点、すなわち、我々の社会が、ジェンダーというフレームによって構築されていることを指したものです。

ジェンダーというフレームがあることは、しかし、それが必然的に不平等な関係をもたらすとは限りません。
しかし、なんらかの原因(それを解き明かすことは本書の任務ではないといいつつ、著者は男性の身体的強靭さや女性が子供を産んだり授乳したりすることによる身体的制約を要因の一部として挙げています)で不平等が生じ始めると、片方の性が継続的に、体系的に有利な状況が作られ、それが現在にまで至っている。
それが、一般的に男性の方が能力があるという信念だったり、男女で適性がある仕事の種類が異なっているというステレオタイプだったり、男性はより積極的で女性はより気遣いができるという主張だったり。
これらが女性を仕事においても家庭においても不利な立場に置き、それがいかに維持されているか、ということを、社会学、社会心理学、組織行動論の理論と実証研究を豊富に引用しながら、論じていきます。

仕事におけるジェンダーバイアスとしては、
・使用者が労働者を募集する際に、その仕事に必要な性質や能力を既存のジェンダーバイアスに沿って考えやすく、「男性的」な職場では女性はあまり雇われない、
・人は自分と似ている人を好む傾向にある(in-group bias)ので、不確実性のある状況で上司は自分が頼りにできる部下を探す。その「頼りにできる」人は、自分に似た人であることが多く、同性の人が出世しやすくなる。マネジメントの地位にいるのは男性が多いので、ますます男性が出世しやすい、
・母親であるということだけで、能力や仕事へのコミットメントの度合いを疑われてしまい、男性よりも能力がかなり高くないと雇ってもらえない。一方、男性は父親であるだけで、強いコミットメントを評価される、
といったことなどが論じられ、
家庭におけるジェンダーバイアスとしては、
・家事育児時間の格差に影響する要因は、仕事のあるなしや賃金の多寡などたくさんあるけれども性別が最も強い説明力を持っていること、
・家事の中でも、より頻繁に行わなければならないようなコアな部分、すなわち料理、皿洗い、掃除などは女性がものすごくたくさんしているが、男性は、庭仕事などのように、そんなに頻繁にしなくても良いことをより行っている
・妻の家事時間を減らす大きな要因は、妻の収入。妻の収入が上がっても夫の家事時間が増えるわけではなく、妻の収入から外部委託(家事サービスや子供のケアなど)のお金が支出されるだけ。
・結婚し、特に子供ができると、女性のソーシャルネットワークは狭くなってしまい、家族以外の人とのコンタクトが少なくなる(男性は逆にネットワークが大きくなる)。外部の人たちとのコンタクトが減ることで情報や様々な機会を制限されてしまい、この悪影響が生涯の収入やキャリアの成功に響く、
といったことなどが書かれていました。

こういうジェンダーバイアスは、また、人々の自分が期待しているものや見たいものしか見ないというconfirmation biasや、あるいは社会の多くの人がそのようなジェンダーバイアスを持っていることを知っているので、そこから外れた振る舞いをすると非難されてしまうということもあって、経済社会や政治といった環境が大きく変化しても、このバイアスの変化にはラグがある、と著者は指摘します。
しかし、だからと言って、不平等が永続することは避けられないのかというと、そうではなくて、著者は、ジェンダーに紐づいた信念を薄くする戦略と、ジェンダーが重要な意味を持つ領域を狭くしていく戦略を提唱します。
前者については、現状、男女それぞれが得意なものがあると言ったとしても、現実には男性がより多く従事しているタスクの方がより高く評価されているので、男性的とされるタスクと女性的とされるタスクの価値をイコールにする必要があるとします。
具体的には、ケア提供の価値をもっと高めるべきで、そのためには男性がもっとルーティンな家族のためのケア提供にもっと参画するようにすべきだと主張します。
後者については、女性がもっと職場に進出することと、現在典型的に女性がついているような仕事に男性がもっとつくようにして、仕事をジェンダー中立的なものとすべきとします。

つまり、まとめると、
・男性がもっと基礎的な家事をするようにすべき
・女性が「男性的」な仕事にもっとつけるようにすべき
・もっと多くの男性が「女性的」な仕事につくようにすべき
ということで、少なくとも上の2つは日本の課題と同じなのかなという感想を持ちました。
最後の1点はとても重要なのだけど、「女性的」な仕事(典型的にはケア提供)は、往々にして評価だったり賃金が低く設定されているので、この分野の賃上げが実現しないと難しいのではないかなと思いました。

本書は、人々がジェンダーというフレーミングで世界を見ているということから現在のジェンダー構造を明らかにするという点では、とても分かりやすくて良かったのですが、政策論というところでいうと、具体性がもう一歩で、「じゃあ、この構造を変えるためには何をしたら良いのか」という最も重要な問いには十分に答えられていないように思いました。
ただ、政策論を考えるためには、現在の不平等がどういう仕組みで成り立っているかが分かっていることがとても重要。
この本の内容を踏まえると、経済学や政治学などで提案されている政策提案がよりよく理解できるのではないかと期待しています。

世界の見え方が変わる、楽しい読書ではあったものの、コアなルーティンの家事を男性は全然していない、という指摘は僕にぐさりと突き刺刺さりました。
もっと家事を頑張ります。

(投稿者:Ren)

Alice H. Eagly and Linda L. Carli, Through the Labyrinth (Harvard Business Review Press, 2007)

2018年08月19日 | 
だいぶ久しぶりになってしまいましたが、今回も本の紹介です。
Alice H. Eagly and Linda L. Carli, Through the Labyrinth: The Truth About How Women Become Leaders(Harvard Business Review Press, 2007)



「Labyrinth」とは、女性が置かれている状況を表現する比喩として著者が提案するものです。
よく「ガラスの天井」(glass ceiling)という言葉が使われますが、この言葉はもう現実をうまく表現できていない、と著者は言います。
ガラスの天井とは、女性たちが順調に昇進して行っても、どこかの段階でそれまで見えなかった壁にぶち当たり、上に行けなくなることを表していましたが、いまや様々な分野でトップの地位についている女性は少なくない。
「The glass ceiling had broken」(p.6)。でも、やはり依然として女性がリーダーになるには障害がたくさんあって、成功する道を見つけることは難しい。
そこで、著者は、女性たちがリーダーになっていくために必要なルートを「迷宮」と名付けるのです。

女性がリーダーになる上での障害はいくつもある中で、本書が明確に否定するのは、一部の進化心理学者たちが主張する、男性は生まれつきリーダーに適しているから、女性よりも男性の方がリーダーになることが多い、というもの。
そのエビデンスの弱さや、それら理論の矛盾などを指摘し、リーダーとして成功する心理的な特性はいくつかあるけれど、それらは「男性的」とされているものもあるし、「女性的」なものもあることを示します。

進化心理学からの議論を丁寧に反論した上で、本書は残りのバリアーたち、すなわち家事育児への責任、女性差別、偏見、女性がリーダーになることへの拒否反応、会社組織の働き方などについて、女性がどういう状況に置かれているかを膨大な研究と、それに関わる一般書や新聞・雑誌の記事の引用を行いながら描きます。
なお、本書は、研究論文を注で説明する一方、一般書などの引用(大きな会社のCEOなどの回顧録や発言)を本文で書いてくれていることもあって、とても読みやすく、分かりやすい文章になっていると思いました。
英語の文章に拒否感がない方なら、楽しんで読み進めることができる本なのではないかと思います。

さて、本書で僕が最も意外に思ったのは、米国の企業の働き方を描く箇所でした。
著者によれば、企業には「an implicit model of an ideal employee」があるとのこと(p.139)。
それによれば、社員は長時間労働を行い、そのほか会社の利益になるために個人の犠牲を厭わないことが期待されている。
本書で引用されている社会学者のLewis Coserの1970年代の文章では、会社は労働者に「exclusive and undivide loyality」を求めていることが書かれていますが、それは最近さらにextremeになってきており、ある会社の女性幹部はこう述べているそうです。「幹部クラスになると、会社は実際にその人を所有するようになる。」(p.140)
また、昇進の条件の一つに、転勤を何度かすることがある(少なくない女性は家族との関係でそれが難しいので、昇進ができなくなる)ことも書いてあったりして、日本の会社員が置かれている状況とあまりにも似ていることに驚きました。

雇用システムは、欧米は「ジョブ型」である一方、日本は「メンバーシップ型」であり、それが日本で雇用分野における男女平等がうまく進んでいないことの理由の一つである、と濱口桂一郎さんの議論を参考に考えていたのですが、そんなに単純な話ではないということですね。
おそらく僕が濱口さんの議論を勝手に単純化して理解していただけだと思うので、もう一度丁寧に濱口さんの本を読んで、この問題を考えてみようと思いました。

現在のジェンダー差別構造を受け入れているという批判はあるかもしれないが、そんなに簡単に現実は変わらないし、女性リーダーが増えることで現実を変えることが可能だ、と主張しつつ、本書は、リーダーになろうとする女性に2つのアドバイスをします。
1つは、blending agency with communion(能動性と親しみやすさをブレンドさせること、とでも訳すのでしょうか?)。
女性リーダーは、親切さとか感じの良さ、思いやりといった、伝統的に女性に期待された特性を示すだけでは、リーダーとしての強さが欠如しているとか、自己主張が弱いとかと批判されてしまう一方で、あまりにもこうした「男性的」なリーダーシップを発揮しようとすると、今度はそれはそれで女性として期待される温かみがない、などと反発されてしまう。
男性リーダーはそういう苦労はあまりしないとのことですが、女性リーダーは特に両者の狭い道をバランスをとって進まなければならないということのようです。

アドバイスの2つ目は、ソーシャルキャピタルを築くこと。
リーダーになるためには、会社内で様々なレベルの人と積極的に雑談をしたり、交流する中で信頼され、彼らからインフォーマルな情報を集めることが有効になるそうです。
男性が支配的な職場では女性は男性たちの輪の中になかなか入れないかもしれないけど、積極的に交流をして、ネットワークを社内でに作っていくことが大切だ、と著者は主張します。
Renは男性ですが、これらのアドバイスは男性にも有益なのではないかなと思いました。


久しぶりにブログを書くとうまく文章を紡げなくて、本書の魅力を全然伝えられませんでしたが、社会における女性が置かれている状況をたくさんの論文に基づいて説明してくれる本書は、この問題にアプローチするための入門書としてとても有益でした。
文献もたくさん引用されているので、次に読むべきもののあたりをつけることができることも、初心者に嬉しいポイント。
また、本書は、様々なディシプリンから女性がリーダーになることの困難さとその理由を説明していますが、リーダーシップ論にもたくさん言及されていて、これまで1冊もこの分野の本を読んだことがなかった僕にとって、この観点でも大変勉強になりました。

(投稿者:Ren)

Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities

2017年05月07日 | 
前回からかなり間を空けてしまいましたが、ゴールデンウィークのおかげでようやく「この本は紹介しておかねば!」という本を読み終えることができました。
今日は、Robert E. Goodin, Protecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilities (The University of Chicago Press, 1985)をご紹介します。



本書は1985年と、30年以上も前に出版された本ですが、今なお読むに値する本だと思います。
そのように思う理由には2つあって、その1つ目が、本書の問題設定。
本書は多くの人が自明視している、家族や友人やクライアント等への特別な責務の根拠を問い直すところからスタートします。
この論点については、多くの優れた哲学者たちでさえも、見知らぬ人よりも家族を優先するのは当たり前、というようなことしか言っておらず、ここに着目した著者のセンスは素晴らしい、と感銘を受けずにはいられませんでした。

2つ目が、それを解明していく際の方法論(pp.9-10)。
著者は反照的均衡プロセスの応用により、論述を進めていきます。
すなわち、私たちの社会において共有されている道徳のルール(何が良いとされ、何が悪いとされているか)の本質を暴き、それを参照しながら一般的ルールを導きだします。
そして、それをより普遍的に、より広く適用すべきことを著者は説くのです。
この「社会において共有されている道徳のルール」を見るときに、著者は法に注目する(法はその社会の道徳的な直観を公式に定式化したものだ(p.50)、と著者は主張します。)のですが、政治哲学、政治理論を極めて実証的に論じるスタイルが、僕にとって、とても新鮮でした。

さて、このような方法論で著者が見出した、家族や友人、クライアント等への特別な責務の存在と、他の道徳的ルールが衝突しないような原理こそが、「protecting the vulnerable」(無防備な者の保護)の原理です。
(※ vulnerableは「脆弱性」と訳されることが多いのですが、著者は、私たちの行動や選択に依存している存在のことを指してvulnerableと呼んでいるように思われるので、仮に「無防備」と訳すことにしました。)

たとえば、被用者は雇用者に対して、消費者は企業に対して、患者は医者に対して、交渉力の格差や情報の非対称性等によってvulnerableな立場であるから、優位に立っている者(雇用者、企業、医者)は特別な責任を負うことになるし、子は成長するまでは親の庇護がないと生存できないという意味で、年老いた親は赤の他人ではなく自分の子に援助されることで情緒的な結びつきを確認できるという意味で感情的に、また友人同士は信頼することによってお互いに、vulnerableであるから、親、成長した子、友人は特別な責任を負う、ということが主張されます。

このように、vulnerabilityは物質的のみならず心理的な事柄についても言える関係的概念で、①その人又はそれは、何に対してvulnerableなのか(何があれば、その人又はそれが被るかもしれない害は避けられるのか)、②その人又はそれは、誰に対してvulnerableなのか(誰がその人又はそれに害を及ぼそうとしているか)が問われ、これらに関する一貫したルールとして、著者は以下の原理を提示します。

<個人責任の第一原理>(p.118)
Aの利益がBの行動や選択に対して無防備であるとき、BはAの利益を守る特別の責任を負う。その責任の強さは、Bがどの程度Aの利益に影響を与えられるかに依存する。

<集団責任の原理>(p.136)
Aの利益がある集団の行動や選択に対して無防備であるとき、それが誰か一人の行動で足りるときであれ、全員のまとまった行動が必要なときであれ、その集団は集団による調整された計画を策定し、実行し、Aの利益を守る特別の責任を負う。

<個人責任の第二原理>(p.139)
Bが集団責任の原理によってAに特別の責任を負う集団の一員である場合、当該Bは以下の特別な責任を負う。
a. Aの利益を守る行動を集団が行うよう取り計らう。
b. その集団が計画したことにのっとって、彼自身に課せられた責任を完全かつ効率的に遂行する。

さらに、これら原理を、福祉国家の正当化、外国への援助、将来世代への責務、動物の権利、自然環境の保護等の諸論点を考える際にも適用させるべきことを著者は主張します。
30年前に書かれた作品なのに、現在の法哲学・政治哲学で盛んに論じられている(と僕が勝手に思っている)テーマがたくさんここに登場していて、驚かされました。


無防備な者の保護という原理は、多くの道徳理論でその根拠が十分に追及されてこなかった、様々な特別な関係にある者への責任を包み込むことができる極めて魅力的なものだと思いましたが、その導出が徹底的に内在的(その社会における道徳的直観がどういうものなのかが詳細に分析され、一般化されているという意味で)であるがゆえに、そもそもその道徳は適当なのか、という外在的批判にどれほど頑健なのか、「私たちの文化」以外の文化圏における道徳について、この原理は妥当するのかといった疑問がすぐにわいてしまうところです。
また、著者は「より自らの行動や選択にvulnerableなものを優先せよ」という指針は示すものの、対立競合する配慮の対象があったときに、それらの利益の考慮をどう重みづけするべきかについては別の道徳原理(功利主義であればすべてを平等に扱う、ロールズ主義であれば最も不利なものを有利にする、などと言って(p.111))に譲っているのですが、そうだとすると、protecting the vulnerableの射程はどこまでで、それはなぜなのかも気になってしまいます。

(※ たとえば、著者は、ある個人Bは自分自身の行動や選択に対してものすごく無防備(uniquely vulnerable)なので、Bが自分の利益を守るための責任を負うこともあると、ある箇所(p.118)で主張するのだけれど、これは自分を他者に優先するときの正当化根拠になってしまって(「そこに溺れかけた人はいるけど、アイスクリームを食べ始めたらそれを最後までゆっくり味わうことは誰にも譲れない、人生における信念だ!だから、その人を助けることはしない」とか。溺れかけている人は、その人の近くにいるこの人が助けることが可能であるという意味で、この人に対して疑いようなくvulnerableではあるけど、この人の信念はこの人自信でしか守ることができないという意味で、この人も自分自身の選択に対してvulnerableだと主張し得る。)、エゴイストなどはそれを援用して常に自分を優先することになる。
 これを不当であるとするとき、protecting the vulnerableではない別の原理によってそれを主張することになるけれども、そうした場合に、protecting the vulnerableと衝突していないか。)

こうした疑問もないわけではないけれども、テーマの設定や方法論の新鮮さ、理論自体の魅力は、この本が今なおもっと多くの方に読まれるべき理由として十分過ぎると思います。
やたらと長い脚注がたくさんあったり、その脚注と同じことをほんの少し後の本文で書いていたり、スペルミスが散見されてこれはどういう意味だろうと悩まないといけなかったりと、そこまですごく読みやすい本ではありませんでした(平易に書こうと恐らくされているおかげで、難解というわけではありません)が、とても刺激的で面白く、読了時の満足度が高い本でした。

(こんなに素晴らしい本だと思うのに、この本の主張について立ち入った検討・紹介がなされている日本語の論文・著作を見かけないような気がするのは、なぜだろう。実は素晴らしいと思うのは僕だけで、本当はそんなに大したことないということだったりするのでしょうか・・・。)

(投稿者:Ren)

Jeremy Moon, Corporate Social Responsibility: A Very Short Introduction (Oxford University Press)

2017年01月05日 | 
意識的に英語を読むようにしているRenですが、一向に英語を読むスピードは速くなりません。
でも、ゆっくりとしか読めないからこそ、丁寧に読むことにもつながります。
(逆に、日本語の本だと、飛ばし読みしてしまって、頭の中にあまり残らない、ということも少なくありません。)
こういう利点があるから、門外漢の分野の本を読むとき、あえて英語の本を選ぶのも悪くありません。

ということで、日本語の入門書ですらこれまで一冊も読んだことがない、CSRについて書かれた本である、Jeremy Moon, Corporate Social Responsibility: A Very Short Introduction (Oxford University Press, 2014)を今日はご紹介したいと思います。



本書は、CSR(企業の社会的責任)という概念について、その理論的フレームワーク、その系譜(前史、アメリカにおける発展、近年における世界的な広まり)、それが近年特に注目されるようになった背景、その限界、等々といったことをコンパクトでありながらとても分かりやすく説明するものです。
冒頭に書いたように、僕はCSRについて「なんとなく聞いたことがある」レベルの知識しかなかった(それで「知識」と言えるかは措くとして)のですが、
・もともとフィランソロピーだったり従業員のための施し的なものとして始まったCSRが、どんどんその対象を拡げ、またそれが企業にとってのソフトな規制になっていく(ハードな法的規制をかけなくても、政府は企業に社会的に責任のある行動を行わせることができる)こととか、
・企業が激しい人材獲得競争を行う中でCSRに熱心に取り組んでいることが有利に働く(人は社会に貢献したいという欲求を持っているので、その企業がCSR活動に熱心なことは被雇用者のモチベーションアップにつながる)こととか、
・欧州においては米国とは異なり民衆の株式保有が少なく、企業は銀行や家族によってファイナンスされていたため、「大企業は社会的責任を果たすべきだ」という意見は強くなく、また戦後、コーポラティズムの枠組みで、企業は環境、教育を含む様々な政策領域において政府の政策にコミットしていたという事情があって企業のCSR活動は米国と比べて活発ではなかったが、近年になって公共目的の直接の政府行動が相対的に低下してきたことやマネジメントの理論と実践の標準化を背景に、欧州においてもCSRが急速に求められるようになってきたこととか、
・今後の課題として、企業のCSR滑動のアウトカムを評価するためのツールやシステムを開発していくことが指摘されていることとか、
非常に興味深く、感心しながら読み進めることができました。

おそらく本書の特徴は、著者がもともと政治学をバックグラウンドを持つ人であることなのではないかと思います。
著者のプロフィールによれば、もともと著者がCSRに興味を持ったのは、1980年代前半に大量の失業者問題に対する公共政策を研究していたときのことであるとのこと。
http://www.cbs.dk/en/research/departments-and-centres/department-of-intercultural-communication-and-management/staff/jmoikl#profile
その関心を反映して、本書もCSRを政府の活動との関わりで論じるところが少なくありませんでした。

それは、僕のように政治学が専門の読者にとってはとっつきやすいし、分かりやすい(し、すごく面白かった!)のだと思うのですが、もっぱら経営学的な興味で本書を手に取る人にとっては不満を抱くところなのかもしれません。
事実、企業の営利活動やブランド戦略とCSRがどのように結びつくか、という観点の論述は、もちろんなかったわけではないものの、当初予想していたよりも薄かったように思います。
本書を読んでCSRに俄然興味が湧いてきたので、次は経営学的側面に力点を置いた本も読んでみたいと思いました。

(投稿者:Ren)

Kathleen R. McNamara, The Currency of Ideas (Cornell University Press, 1998)

2016年11月27日 | 
このところ、本の感想をブログにアップするのをサボっていました。
一度期間が空いてしまったために再開するハードルが高くなってしまっていましたが、ブログに感想をアップした本と読みっぱなしの本では自分の記憶への定着率が全然違うので、頑張って少しずつ、再開しようと思います。


今回は、Kathleen R. McNamara, The Currency of Ideas: Monetary Politics in the European Union (Cornell University Press, 1998) について、今後のハードルを上げないためにも短くご紹介します。


本書は、戦後の欧州においてなぜ通貨統合(monetary integration)が進展したのかを解明しようとしたものです。
ブレトンウッズ体制、ブレトンウッズ体制の崩壊を受けて為替の安定を実現しようとしたSnake、Snakeの失敗を活かして合意されたEMS(European Monetary System)を丁寧に振り返りながら、著者は、エリートのコンセンサスがEMS発足には重要であったことを示します。
この意味で、本書は政治学においてアイディア(理念)を重視する研究の系譜にあるものです。

本書によると、戦後欧州のエリートたちに為替が安定していることが望ましいというコンセンサスが強固に存在していた中で、オイルショックを経て、下記のような新しいコンセンサスが生まれたといいます。
①オイルショック後、ケインズ政策は機能していないという理解
②マネタリズムというオルターナティブが存在するという認識
③ドイツはマネタリズム政策を実行し、成功したという認識

欧州の各国について、このコンセンサスがどのようにできていったかを、各国が置かれた外的要因や政策変化を分析しながら、本書の論は進んでいきます。
本書の結論は、このところの反EUの主張の高まりを考えると、まるで不吉な予言のようになっています。
すなわち、本書において著者は、エリートたちの理念におけるコンセンサスが通貨統合への熱意を生み出し、持続させ、EMS発足につながったのだと主張しますが、一方で、このプロセスには民主的なレジティマシーが欠如していると指摘します。
そして、欧州統合は外的要因によって強いられてきた(他に選択肢はなかった)ものだと思われるかもしれないけれども、実は本書で示されたように、これまでの道は政治によって選ばれてきたのだから、違う道を歩むことも政治の判断によって可能である、従って、これからの欧州統合は民主的なレジティマシーを確保しながら進めていくことが課題となる、と著者は示唆します。

現在欧州で反EUの主張がこれほど強くなってしまっている背景や理由について僕はまだよく分かっていませんが、もしかすると、本書において示唆されている、エリートと民衆が乖離したままエリート間の合意が先行する状況は変わっておらず、これがEUへの不信感を高まらせてしまったのかもしれない、と本書を読みながら思いました。

本書は、戦後の国際政治経済史がとても分かりやすく整理(マンデルが指摘した国際経済のトリレンマを中核において)されているので、欧州から見た戦後国際政治経済史に興味がある人も面白く読めるんじゃないかと思います。
ただし、政治が重要(politics matter)であることはとても説得的に描かれているものの、アイディアがどのように重要なのかについての理論的説明はそこまで丁寧にはなされておらず、理論的な興味が強い人には若干不満が残るかもしれません。

(投稿者:Ren)

Locorotondo旅行記(4) バロック建築の街(?)、Martina Franca

2016年10月29日 | 旅行
SakuraとRenが足を伸ばして出かけたもう一つの街が、Martina Francaです。
AlberobelloもLocorotondoの隣町でしたが、Martina FrancaはAlberobelloと反対方向の隣町です。
ここに行こうと思ったのは、『地球の歩き方』に載っている観光地であったことや、そこにMartina Francaはバロックの街で、AlberobelloやLocorotondoと雰囲気が違って面白い、というようなことが確か書いてあったからでした。
でも、実際行ってみると、雰囲気にそんなに大きな差を感じることなく、「街が大きくて、教会はたくさんあって立派だけど、(Locorotondoと比べて)人が多いだけ」というのが正直な感想でした。

違いが良く分からなかったのは建築のことが全然分かっていないためだと思います。
芸術でもなんでも、ちゃんと味わったり楽しんだりするためには知識が必要で、これまで建築様式だったり建築の思想の勉強を全然してこなかった自分の知の浅さを痛感しました。
なかなか自分の専門外の分野に手を拡げる余裕がないのだけど、このままではいけない。ちょっとくらいは勉強しよう。

さて、上記のような感想だったので、実は街並みにそんなに感激せず、写真はあまり撮っていません。
数少ない写真のうちから旧市街を撮ったものをご紹介すると、こんな感じ。





写真を改めて見てみると、確かにLocorotondoとかとはだいぶ雰囲気が違うかも。
どうして「あまり変わらない」なんて思ったのだろう。。

この街は教会がとても多くて、たくさんお邪魔してきたのですが、その中でも特に見事だったのがBasilica di San Martinoという教会です。



ちょうどこの日は結婚式が行われていて、居合わせた他の観光客の人たちと一緒に、しばし見学しました。
こういうものに出会えると、ちょっと得した気持ちになれますね。



結婚式が終わった数時間後に中に入ると、こんな感じのところでした。





イタリアの教会はイギリスのと比べて色が鮮やかですね。
これはやっぱり天候の違いなんでしょうか。

ちなみに、Martina Francaから、Locorotondoを遠くに望むことができます。



(分からないと思うので、かなりズームします。)




Martina Francaで最大の心残りは、名産のCapocolloを食べなかったこと。
マーケットにも行ったのに、なぜ買うか食べるかしなかったのか。本当にもったいなかったです。

(投稿者:Ren)

Locorotondo旅行記(3) 足を伸ばしてAlberobelloへ

2016年10月08日 | 旅行
この旅行期間中、SakuraとRenはほとんどずっとLocorotondoを散歩していたのですが、せっかくだからと思って、2か所にだけ足を伸ばしに行きました。
その一つが今回ご紹介するAlberobelloです。



この街の旧市街には、綺麗な、よく手入れされたトゥルッロがたくさん建っていますが、その貴重さからここはユネスコの世界遺産に登録されています(1996年)。
確かに、旧市街はどこもかしこもトゥルッロだらけで、この日の真っ青な空と相俟って、非常に見事な景観を形成していました。





トゥルッロの教会まであります。



日本の方にとても人気があることも肯ける、とても綺麗な街でした。
しかし、やはり観光地であるため、観光客相手のビジネスがとても発達しています。
お土産屋の方に日本語で話しかけられたり、お店の看板が日本語で書かれているものまであったりもします。
観光に訪れるにはとても良いけれども、何日も落ち着いて過ごすような場所ではないのかなと思いました。((注)Locorotondo好きのバイアスがかかっています。)

レストランも旧市街の中は観光客向けになっていますが、この街に行かれる方に是非おすすめしたいのが「Ristorante-Pizzeria 'Gli Ulivi'」(http://www.ristorantegliulivialberobello.it/



場所は、リンク先を確認していただければと思いますが、旧市街から少し離れた場所にあります。
少し歩かなければならないものの、地元の人に大人気のお店らしく、僕たちが入った後、すぐに満席になっていました。
このレストランは、出てくるものすべてが本当に美味しくて、滞在期間中いろんなレストランに行ったけれども、ここを超える料理は出てきませんでした。(それでいて、とてもリーズナブルです。)
ここに結局1回しか行けなかったことが、今回の旅行における僕たちの最大の心残りの一つだったりします。

(投稿者:Ren)

Locorotondo旅行記(2) Locorotondoのおすすめワインショップ

2016年10月03日 | 旅行
Locorotondoに行くことがあれば是非立ち寄っていただきたいのは、このワインショップです。



この店にはプーリア州で作られたワインとオリーブオイルがたくさん並んでいます。
ワイン専門店なのでちょっと入るのにびくびくしてしまうかもしれませんが、10ユーロ以内で買えるようなものもたくさんあるので安心です。

このお店では、店主のおじさんがワインやオリーブオイルについて、その該博な知識と誠実な人柄(高価なものは全然おすすめしてきませんでした!)で情熱的に教えてくれます。
唯一の難点は、このおじさんはイタリア語しか話せないこと。
でも、おじさんがゆっくりと丁寧に教えてくれるので、イタリア語レベルがまだA2の勉強が始まったばかりのlower intermediate(自己評価)なRenでも、3割くらいは理解することができました。(Sakuraは半分以上分かっていた模様。さすが!)
おじさんにおすすめしてもらって、テイスティングもさせてもらったオリーブオイル&ワインを味わう日が楽しみで仕方ありません。

不覚なことに、このお店の名前は忘れてしまいましたが、地域の名店「Trattoria Centro Storico」の隣にあります。
ちなみに、このTrattoriaでは是非、AntipastoにCapocolloを食べてみてください。
Capocolloは、Martina Franca名産の生ハムみたいなサラミですが、これは本当に絶品です。
このお店は外国人もたくさん訪れるからか、英語も通じます。

(投稿者:Ren)

Locorotondo旅行記(1) Locorotondoに行ってきました

2016年10月02日 | 旅行
南イタリアのプーリア州にある小さな街、Locorotondoに行ってきました。



実はRenにとってはこれが初めてのイタリアです。
知り合いがLocorotondoにあるトゥルッロ(この地域の伝統的な住居)のオーナーを紹介してくださったおかげで、ローマやミラノやヴェネツィアやナポリを経験する前に、この素晴らしい街に来ることができました。
(ただし、実際にはそのトゥルッロは中心部からかなり離れた場所にあって、周りはオリーブ畑&ぶどう畑で、街灯が皆無な夜は真っ暗でプラネタリウムのような星空が広がっていました。)

Locorotondo自体は日本ではそこまで有名ではないのかもしれませんが、Alberobelloの隣の駅の街なので、たまにブログでこの街のことを書いてくださっている方がいらっしゃいます。
その皆さんが、Locorotondoのことをとても綺麗な街だと紹介してくださっているので、出かける前からすごくわくわくしていましたが、来てみると想像していた以上に素晴らしいところでした。

旧市街の丁寧に白く塗装された建物と、綺麗に掃除された街路と、丹念にケアされた植物と、南イタリアの陽光が組み合わさった素晴らしさはとても写真では伝えきれませんが、いくつか貼り付けだけしておきます。









迷路みたいな旧市街の小路のどこに行っても綺麗で、毎日Sakuraと散歩しても飽きませんでした。
また、ここはただ綺麗なだけではなく、素晴らしく安全でもあります。
僕たちはその街の安全度を、人々の歩く速度やバッグの持ち方で判断していますが、ここでは夜中でも人々がバッグのファスナーを握りしめないでゆっくり歩いていました。(ちなみに、子どもたちも夜中まで遊んでいます。)

ここをAlberobelloのついでに訪れる方がどうやら多いようですが、それはあまりにももったいないことだと思います。
むしろ、Locorotondoをメインにして、ついでにAlberobelloに行くプランの方が良いんじゃないかとすら思います。

次回は、そのLocorotondoにおけるmust-goなお店をご紹介します。

(投稿者:Ren)

JSTORは完璧ではなかった

2016年07月17日 | 【イギリス生活】学生生活
大学に在籍していたときにできていて、退学したいまできなくなったことの一つに、「大学の図書館のウェブサイト経由で電子ジャーナルにアクセスすること」があります。
これは本当に素晴らしくて、どこにいてもインターネットをつなぐだけで、読みたいと思った論文はほぼすべてダウンロードすることができました。
最先端の学説にちゃんとついていくために不可欠な論文へのアクセスができなくなることは、研究を続けていく上で大きな障害になります。

でも、実はRenが修士を過ごした大学は、卒業生(alumni)にJSTORのアクセス権を付与してくれていました。
大学の図書館のIDが失効するのを受けて、今日初めてalumniのIDでJSTORにアクセスしてみました。
しかし、、、いままで知らなかったのですが、JSTORはすべての主要なジャーナルをカバーしていないばかりか、アクセスできたものも最新のものが見られないという、完璧とはとても言えないものでした。

最新のものが見られない、とはどういうことかというと、たとえば今日(2016年7月17日)現在のアクセスでは、

American Journal of Political Science:2014年まで
The American Political Science Review:2012年まで
British Journal of Political Science:2010年まで
Comparative Politics:2014年まで
International Organization:2012年まで
Journal of Public Policy:2010年まで

というような状況。
また、Political Studies、The British Journal of Politics and International Studies、West European Politics等々といった 欧州の電子ジャーナルはあまりカバーしていない印象です。

もちろん、完璧ではないといっても、AJPSとかAPSRの数年前までの論文をダウンロード可能なことはとても有難いことです。
これができるのとできないのとでは全然違います。
でも、図書館のIDを持っているということはとてつもない特権だったんだなと気が付きました。
しばらく、この特権が失われたことを寂しく思いそうです。

(投稿者:Ren)