SakuraとRenのイギリスライフ

美味しいものとお散歩が大好きな二人ののんびりな日常 in イギリス

Armin Schafer and Wolfgang Streeck, eds., Politics in the Age of Austerity (Polity Press, 2013)

2015年02月23日 | 
指導教授にliterature reviewを提出できた解放感の中、Armin Schafer and Wofgang Streeck, eds., Politics in the Age of Austerity (Polity Press, 2013)を読みました。
本より論文を読むことが最近は多いのですが、本を読み終えるのは論文を読み終えることよりも達成感があります。(なぜだろう?)



本書は2007年頃からの世界金融恐慌を視野に入れてはいるものの、それを直接の対象とするものではありません。
Paul Piersonが明らかにした「era of permanent austerity」(たとえば、Paul Pierson ed. (2001) The New Politics of the Welfare Stateの序章参照)の状況が、世界金融恐慌によってさらに顕在化したことを念頭に、より広くausterityの政治をめぐる様々な諸論点を検討していくものです。

中でも一番力点が置かれているのが、austerityを実施していくことと民主主義との関係。
この論点は、民主主義の正統性を「inputの側面」と「outputの側面」に分け、両者が現在対立していることを指摘するFritz W. Scharpfによる第5章(The Disabling of Democratic Accountability)、政府が「responsiveness(応答性)の要求」と「responsibility(責任)の要求」にさらされていて、近年政府はresponsiblityをより強調しているとするPeter Mairによる第6章(Representative Government and Institutional Constraints)に最も顕著に表れています。
1970年代以降のスウェーデンの福祉国家改革の政治過程を分析するSven Steinmoの第4章(The Political Economy of Swedish Success)もこの問題意識に貫かれていると言って良く、エリートが人民のプレッシャーから自律的に政策を練り上げていくスウェーデンモデルを、インプットの点では民主的かどうかは疑わしいが、アウトプットの点では民主的だと言える(p.103)と主張しています。(ただし、このモデルを他国に当てはめることは様々な条件が異なる中では危険だと、適切に注意しています。)

この論点に関連して僕が個人的に蒙を啓かれた気持ちになったのは、政治参加が先進国で低下している要因を次のように説明しているところ。(編者2人による序章(Introduction)及びWolfgang Streeck and Daniel Mertensの第2章(Public Finance and the Decline of State Capacity in Democratic Capitalism)参照。)
すなわち、緊縮政策が必要になっているとはいえ、義務的経費を減らすことは政治的に難しいので、削減されるのは裁量的経費。
これはつまり、左右どちらの政党が政府を組織しようが政策としてできることは少なくなってしまっているということで、人々からすると政治の選択肢があまりないということになる。
どの政党に入れてもあまり結果は変わらない(政治に期待できない)から投票に行かない。

なお、Armin Schaferによる第7章(Liberalization, Inequality and Democracy's Discontent)の分析によれば、不平等が拡大するほど投票参加率は下がっているとのこと。
austerityが経済格差を拡大するかどうか(拡大されることが多くの文献で前提されているけど)は議論のあるところかなと思いますが、今後は「民主主義の病理」(必要な政策ができない)だけじゃなくて、「民主主義の空洞化」(政治参加が減少して民主主義の基盤が弱くなる)とでも呼べそうな事態にも、ますます政治学(実証も規範も)は真剣に対処していかなくてはいけないのでしょう。


本書はドイツで研究をしている人たちが中心となって執筆しているもののようで、少し前にここで取り上げた英米の研究者のコラボレーションであるWyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis (Oxford University Press, 2012)にはあまりなかった大陸からの視点が反映されていそうで、併せて読むことができたことで世界金融危機の意義をより立体的に垣間見ることができたと思います。
全部が素晴らしい論文で興奮した!ということは残念ながらなかったのですが、前半の論文たち(1~5章)が僕には特に素晴らしく感じました。

(投稿者:Ren)

イギリスの大学の素晴らしい先生たち

2015年02月21日 | 【イギリス生活】学生生活
ずっと書こうと思いながらなぜか書かないできましたが、指導教授とのつい最近の面談で改めて実感した感動が薄れないうちに、僕がこれまで接してきたイギリスの大学の先生たちがいかに素晴らしいかを記しておこうと思います。
ただし、僕が接してきたイギリスの先生は全体で考えれば極めて少数だからとても一般化できないし、同様に日本の先生も極めて少数しか存じ上げないので以下に書くことが日本の先生に当てはまらないと主張する気もありません。

イギリスの大学の先生に接してきて、僕は以下の3つのことに感動しています。

(1)オフィスアワーがある
僕が日本の大学生だったころ、ある先生が講義の開始時にこんなことを言っていました。
「質問や私の考えへの反論はいつでも歓迎する。ただし、質問する際は少し調べたり考えたりしてからにしなさい。」
でも、学生が感じる疑問なんて、ほとんどの場合ちょっと考えたり調べたりすれば解決してしまうようなもの。
そして、その「ちょっと」がどのくらいかをどうやって判断すれば良いのか、誰も教えてくれない。

僕は日本の学生生活で教授に質問をしたことは一度もありませんでした。
一度だけあるとすれば「授業中にいつでも私の発言を遮って質問していいよ」と言っていたある先生の授業でのこと。
ある理論の内容がよく分からなくてしばらくどういうことだろうと考えた末、次の話題に移っているときに「○○の理論のことですが、」と発言をしたことがあります。
僕の質問の仕方が悪かったのかもしれないし、先生の機嫌がたまたま悪かっただけなのかもしれません。
でも、そのとき、先生は「今ごろそんなことを聞かないでくれる?」と返してきたのです。
すごくショックで、その日以降はその授業に出るのをやめました。(それができてしまうのが僕が通った大学のシステムでした。必要単位以上の授業を履修できるので、必修科目でなければその授業の単位を取れなかったとしてもそんなにダメージはない。去年の大学院では余分な授業を履修できないことになっているので、一つ単位を落とすと修了できない仕組みでした。どちらが良いかは難しいところですが、少なくともこの理由で去年は一年を通してかなりの緊張感がありました。)

いまはもう変わっているかもしれないのですが、僕が大学生だったころ、オフィスアワーなどというものを設定している先生はほとんどいませんでした。
イギリスで通った大学では、すべての先生がオフィスアワーを設定しています。
まずそれに驚かされたのですが、すごく嬉しかったのは、ある先生が「オフィスアワーは誰でも自由に好きなことを話に来て良い時間だから、コースに関係ない雑談でも構わないよ」と言ってくれたこと。
先生に雑談をしにいく人がいるかどうか分からないけど、そう言ってくれたことで質問に行くことのハードルがかなり下がりました。

日本で一度も質問をしに行ったことがなかった僕が勇気を振り絞って研究室を訪れたときに先生が暖かく歓迎してくれたことがいかに嬉しかったことか。
最初に質問に行った先生のその対応のおかげで、質問しに行くことの楽しさとそうすることの実りの多さが分かったし、また、他の授業の先生のところにも積極的に質問に行けるようになりました。
そして、その先生が僕に「博士課程を考えてみたらどう?」と言ってくれなかったら、僕は博士課程に進むことなく帰国していたんじゃないかと思います。
オフィスアワーがあったこと、そして研究室に先生を訪れることの敷居を低くしてくれていたことがいかに僕にとって重要だったか、どれだけ感謝しても感謝しすぎることはできません。


(2)偉そうではない
もちろん、先生は先生なので学生が軽く見ていたりはしません。
でも、先生は自分のことをほとんどの場合ファーストネームのみで自己紹介するし、学生も先生のことをファーストネームで呼びます。
教えるからといって別に偉いわけじゃないということは考えてみれば当たり前なのだけど、僕にとっては大きな驚きでした。
お客さんと店員さんの関係と同じように、学生と先生の関係も、対等な人間関係。
偉そうにしないから、授業中に先生に冗談を交えながら質問する人もいるし、先生への反論(先生が再反論するのでとても勉強になる)も起こりやすいんだと思います。

去年、博士課程出願のための推薦状を書いてもらおうと思ってある先生の研究室を訪問したときのこと。
「実は博士課程の出願のためには推薦状が必要なのですが、それを書いていただくことは可能でしょうか」
というような話をしたところ、すぐさま快諾してくれ、なんと、「じゃあ、何を書くかの参考にしたいから」と、何を研究したいかとか、僕のバックグラウンド(学部で何をしたかとか、どんな仕事をしてきたかとか)を早速インタビューし、「いつまでに書けば良い?」と聞いてくれたのです。
お願いを当然のように気持ちよくOKしてくれて(「仕方がない、△△してやろう」みたいな感じではなく)、しかもそれを先生がすぐに書いてくれるんだ、と思って感動しました。

そうは言いながら、僕は先生のことをファーストネームでは呼びません。
たとえば、先生にメールを出すときはいつも「Dr.○○」と書いています。
理由は、単に日本社会で生きてきた僕は先生をファーストネームで呼ぶのはそわそわして気持ち悪いということだけですが、先生から「ファーストネームで呼んでよ」みたいなことを言われたことが一度もないので、実はイギリスの先生も「○○先生」と呼ばれると嬉しいのかもしれません。(良いレストランとかホテルに行って、スタッフの方から「Sir」なんて呼ばれると嬉しくなってしまう心理と同じか?この前、駅で駅員さんに「Excuse me, sir」と呼びかけた上である問い合わせをしてみたら、ものすごく親切な対応をされました(笑))


(3)褒めてくれる
「褒められて育ちたい」僕にはこういう先生たちになぜか囲まれたことはとてもラッキーでした。
エッセイなどの問題点を指摘するときも、まず「とてもよくまとまっているんだけど、」とか「すごく興味深いと思うんだけど、」と肯定的なことを言った上でしてくれるので、そのおかげで自信喪失しないですみます。
この前指導教授に出したliterature reviewは散々の出来だったと自分でも自覚してるのですが、それへのコメントとして先生が「とてもよくできている」とまず褒めた上で、「「問題」があるとすれば」という前置きのあと、「もうちょっと長く書いた方が良い」とか「文章の構成をちょっと変えても良いかもしれない」(この2点に問題があったら、ほとんど全体がダメなんじゃないだろうか??(苦笑))と指摘してくれたのには頭の下がる思いでした。

相手のポジティブなところを見つけてそれを伝えてあげることは、やろうとするとなかなか難しい。
こういうことをできる人間になろうと思います。
これは博士になるよりもはるかに重要なことだと思う。


こういった先生たちの特徴は僕のような普通の学生が勉強することを力強く後押ししてくれているように感じます。
研究業績とか研究の質、研究環境がどうかという点は措いておくとしても、この点だけでも僕はイギリスの大学院に来れて本当に幸せだと思う。
転じて、欧米に比べて日本の学生は勉強しない、とよく言われるけど、日本の大学は果たして学生が勉強することをどれだけ応援してくれているのか、最近ちょっと気になっているところです。

(投稿者:Ren)

Alasdair Roberts, The Logic of Discipline (Oxford University Press, 2010)

2015年02月16日 | 
最近読んだ論文に引用されていて気になったので、Alasdair Roberts, The Logic of Discipline: Global Capitalism and the Architecture of Government (Oxford University Press, 2010)を読んでみました。



ちなみに、著者は「Suffolk University Law School」の教授とのことで、勝手に親近感が湧いていたのですが、ここでいうSuffolkはイギリスの州の一つ(素晴らしい教会がたくさんあります!)ではなくて、アメリカのBoston市がある群の名前のようです。
イギリスとアメリカで同じ地名があることはすごくよくあるので注意しないといけません。(せめてNewをつけるとかして違う地名にしてくれればよかったのに。)

さて、本書は1978~1980年以降の時代を「the era of liberalization」(自由化の時代)と呼び、この時代に共通する諸改革の精神を「the logic of discipline」(規律の論理(?))と名付け、それが様々な政策にどのように表れていたのか、そしてその妥当性が否定されていった(著者はそう主張します――p.14)プロセスを論じていきます。
ちなみに、なぜ1978年~1980年かというと、この時期に中国で改革・開放政策が始まったこと、サッチャー政権とレーガン政権の成立及び彼らの下で市場化政策が行われたことが理由として挙げられています。

著者によれば、logic of disciplineは以下の2つの要素から成り立っています(pp.4-6)。
(1)民主的プロセスを通した統治への深い懐疑
(2)それを是正するために、政治家と選挙民の行動を制約して、間違った決定を下せないようにする。その手段として、法律や条約、契約が頻繁に用いられる。

(1)の民主主義への懐疑の原因として、経済学における公共選択理論(政治家は自分の利益を最大化するように行動する)の発展だけでなく、Huntington, Crozier and Watanuki (1975)が提起した「overload thesis」(人々の政治参加が進み、人々は政治に多くの事を要求するようになったが、その要求は政府の応答能力を凌駕してしまった)も挙げられています(pp.9-10)。
ここまではよくある話なのですが、僕が特に勉強になったのは、(2)の手法をnaive institutionalism(ナイーブな制度主義)と呼んで批判するところ。

著者によればナイーブな制度主義の特徴は、ある国の制度を別の国に導入することで所期の目的を達成できると考えているところにあります(pp.15-17)。
Douglass NorthやPaul PiersonやPeter Hallなどの「新制度論者」は制度の重要性を主張して学界に大きな影響を与えたけど、彼らは制度として公式な(formal)ものだけでなく、文化や習慣などの非公式な(informal)ものも含めた。
formalな制度は簡単に変えやすいけれど、informalな制度はなかなかすぐには変わらない。

新制度論者が指摘していたこの点は、しかしナイーブな制度論者によって忘却されます。
そもそも制度のナイーブな見方は、第二次世界大戦後すぐの政治学者によって否定されていたものだったそうです。
しかし、制度改革をしたい人たちは時間や資源に制約を抱えているためにinformalな制度のことまで考えていられないことや、改革の成果を測定するためにはformalな制度の変化を見るのが分かりやすいから、彼らはformalな制度の変更ばかりを目指すようになってしまった。
でも、たとえば、法文上で素晴らしいことを意図していたとしても、それを適用する段階で政治、行政、社会経済の様々な主体の地からによってその意図は容易に歪められてしまう(1970年代のGreat Societyがあまり大きな変化を起こせなかった理由を著者はこの点に帰しています)。
著者はある論者の次の言葉を引用しています。
「政策の企画と適用は複雑で、多面的で、断片化されていて、予測のつかないプロセスだ」(p.17)。

「ナイーブ」とされた側からは、「文化とか習慣とかがなかなか変えられないからこそ、変えられる制度を改革することでよりよい社会にしようとしているんだ!」と反論されるような気がしますが、この指摘はとても重要なんじゃないかなと思いました。

本書でケーススタディの対象になっているのは、中央銀行の独立性付与(2章)、財務当局の権力増大/財政ルール(3章)、主に途上国における徴税当局の権限増大(4章)、海港や空港の管理運営の民営化(5章)、海外投資の規制緩和(6章)、インフラ整備の契約手法(PFIとか)(7章)。
僕の興味は2章&3章でしたが、多岐にわたる主題が簡単にまとまっていて、世界で起こっていることを概観できた気になりました。

ただ、著者が本書で示そうとした、「logic of disciplineの妥当性が否定されつつある」ことについては、あまり成功していないんじゃないかと思ってしまう。
世界金融危機によってこの精神の説得力は弱まった、と著者は繰り返し語っているけど、現実には世界の各国の政策はそんなに変化していない(ちょっと前に取り上げたGrant and Wilson (2012)とか、もっと露骨にはPhilip Mirowski (2013) Never Let a Serious Crisis go to Wasteとか。外在的な批判でしかないけど)。
Colin Hayが言うように、我々はalternativeを保持していないのであり、説得的なalternativeなしではそれまでのアイディアは、いかにそれが「失敗」だったと言われようと廃棄されない(Hay (2011) "Pathology Without Crisis?", Government and Opposition 46(1), pp.1-31; Blyth (2002))。
でも、それは、本書を2008年~2009年にかけて書いた(Acknowledgementsより)著者に言うのはちょっとズルいかもしれない。

(投稿者:Ren)

グースは氷の上が好き?

2015年02月13日 | 【イギリス生活】
最近は少し暖かくなってきたのですが、2週間ほど前までは寒い日が続いていました。
大学内にある池の表面が凍っていることも結構ありました。

池が凍っていると、水鳥たちは氷の上を歩き出します。(泳げないから。)



これはグースたち。
初めて池の上を歩いている姿が見られたとき、近くにいる学生が「おい見ろ、ジーザス・クライストがいる!」と言っていました。(僕たちも同じことを考えていました(笑))



氷の上はつるつるしているからか、時々脚を滑らせながら歩いています。
それを見るのが好きなSakuraとRen。



しばらく立っているとグースの重みか体温かで氷の上に水が浮き上がってきます。
一度、氷が割れて、池の中に落ちてしまったグースがいました。(この写真を撮ったときは誰も落ちていません。)
さすがにそのときは彼(彼女?)も焦ったようで、しばらくわたわた、ばさばさしていました。(割れたスペースが小さかったので、なかなか氷の上に上がれなかった模様。)

最近気になっているのは、水鳥たちが、あたかも氷の上を好んで歩いているかのように見えること。
池の中でも凍っている部分とそうでない部分があったときに、なぜか多くの鳥たちが(グースだけじゃなくて、カモやカモメも)氷の上を歩くことを選択しているのです。
いましかできないレアな体験を楽しんでいるのか、氷の上に何か特別なごちそうが落ちているのか、たまたま僕たちが見るときに歩いているだけなのか。

頑張って探したら誰か研究してそうだけど、でもどうやって彼らが氷の上を歩くのが「好き」だということを証明できるのか。
いろいろ興味は尽きません。

(投稿者:Ren)

Wyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis

2015年02月11日 | 
そんなにすごくおすすめというわけではないのですが、こういう本があるということを紹介する意義はあると思うので、今日は、Wyn Grant and Graham K. Wilson, eds., The Consequences of the Global Financial Crisis: The Rhetoric of Reform and Regulation (Oxford University Press, 2012)を取り上げたいと思います。



タイトルから、世界金融危機を受けた諸国の政策対応が分析されているんだろうなと思っていたのですが、どちらかというと本書の主眼は「世界金融恐慌が起こったというのに、ネオリベラリズムに基づく政策がほとんど変わらず行われている」ことを主張する点にあるようです。

本書は多岐にわたるトピックと国をカバーしています。
取り上げられている国は、イギリス(第3章)、アメリカ(第4章)、フランス・イタリア・スペイン(第9章)、デンマーク・スウェーデン(第10章)、フランス(第11章)、中国(第12章)。
トピックとしては、国際経済ガバナンス(第2章)、店頭デリヴァティブ市場の規制(第5章)、東アジアの地域主義(第6章)、資本移動規制(第7章)、格付け会社(第8章)。
あまり取り上げられるテーマやアプローチに体系性や統一性は感じられず、それぞれの論者たちが自分の得意なことを書いたのを寄せ集めた、というような印象。
それにもかかわらず、危機を経ても政策はあまり変化していないという上記の結論が多くの分野から出てくることが重要なのかもしれません。

読んでいて特に勉強になったのは、イギリスの政策対応がとても分かりやすくまとまっていた第3章(Andrew Gamble)、資本主義の危機が中道左派の危機をもたらしたという皮肉をアメリカを事例に分析した第4章(Graham K. Wilson)、従来のVoC研究に異議を唱え、国家主導型の市場経済(State-Influenced Market Economies)という類型が必要なことを主張し、それを構成する諸国としてフランス・イタリア・スペインの危機の影響を比較分析した第9章(Vivien A. Schmidt)。
国以外のトピックに着目したものは、結局「いろいろあったけど、でもやっぱり本質的にはそれまでと変わっていない」という結論になるので、読んでいてダイナミズムを感じられず、あまり面白さを感じませんでした。(それぞれの章を書いた人が悪いというわけではなく、ただそのトピックの性格によるもの。)


特に新しい理論が提示されているわけではないけど、世界金融危機が様々なものにどういう影響を与えたか、論点を知ったり事実を整理する上では有益な本だったと思います。

(投稿者:Ren)

Mark Blyth, Great Transformations (Cambridge University Press, 2002)

2015年02月11日 | 
政治におけるアイディアを重視する文献でほぼ必ず引用・参照されているMark Blyth, Great Transformations: Economic Ideas and Institutional Change in the Twentieth Century (Cambridge University Press, 2002)をやっと読むことができました。



「Great Transformations」というタイトルは、もちろんKarl Polanyiを意識したものです。
ただし、本書全体がポランニーさんの学説について書かれているわけではありません。
ポランニーさんの『大転換』は本書のモチーフとして使われているだけです。

著者は冒頭においてポランニーさんの「double movement」という概念を紹介した上で、それは次のような欠陥があると指摘します。
すなわち、ポランニーさんは「double movement」を一方通行のプロセスとして描いてしまっているけれど、実は市場の埋め込みと脱埋め込みは現在もまだ続いている(p.4)。
20世紀には2つの大きな転換(1920~30年代及び1970~80年代)が起きており、本書において著者はその両者を整合的に説明しようと試みています。
(なので、「Great Transformation」(『大転換』の原題は、The Great Transformation)ではなく、「Great Transformations」という複数形のタイトルが付けられています。)

2つの大転換を説明するために著者が注目するのが、「アイディア」の役割です。
人々の利益(interest)ももちろん大事なのだけど、何がその人の利益であるかは実はそんなに明らかではない(p.27ff)。
本書が注目する大転換が起こったときのように「ナイトの不確実性」(Knightian uncertainty)が社会経済を覆っているときにおいてはなおさら、どうすることが利益になるのかがよく分からなくなる。
その人の利益は何らかのものによって定義されなくてはいけなくて、ここにおいてアイディアが重要になってきます。
アイディアはナイトの不確実性の状況下において、現状がなぜそうなっているかを診断し、その診断によってどんなアウトカムが可能か、どのアウトカムが望ましいのかを定義します。
アイディアをこのようにとらえることによって、合理的選択論者のようにアイディアを残余(auxiliary)の説明変数として扱うのではなく、もっと積極的な役割を果たすものと位置付けることが可能になる。

本書における仮説は次の5つです(pp.34-42)。

仮説1:経済危機の時代において、アイディアがその危機の原因と処方箋を提供することにより不確実性を減少させる。
仮説2:不確実性が減少した後、アイディアは様々な主体の共通の枠組みとなることで集合行為や連合形成を可能にする。
仮説3:既存の制度を脱正統化する際において、アイディアが武器として使われる。
仮説4:アイディアは既存の制度に取って代われるべき新しい制度の青写真となる。
仮説5:制度構築の後、アイディアは制度の安定性をもたらす。


ちなみに、本書の表紙の絵は上記の2つ目の仮説を表現したものと言えます。
描かれているのは、裕福で恰幅の良い資本家と貧しい労働者。
彼らの利益は普通に考えると異なっているはずなのに、なぜか2人は腕を組んで歩いている。
このような連合を可能にするものこそがアイディアだという意味が、この絵に含意されています。

これら仮説の実証はアメリカ合衆国とスウェーデンのそれぞれの大転換を詳細に描くことによって行われています。
このケースの選択は、most different case strategyであるということ及び、これがcrucial case study(最もその状況が起こりやすそうなケースと最も起こりにくそうなケースをペアにすることによって説明能力を高め得る)であるということによって正当化されています(p.11ff)。
それぞれのケースについて著者は丁寧にそのプロセスを叙述してくれているのですが、いろんな場所で「あるアイディアに基づく政策が失敗したという事実だけではその思考の型を覆すのに十分でない」ことが強調され、「旧来のアイディアに取って代わるアイディア」の存在と「そのアイディアを支持する連合を形成する動き」の重要性が主張されていることが特に印象的でした。


おそらく本書の最も重要な貢献は、アイディアが大きな役割を果たすのが「いつ」(When)で、それはどういう理由によるかを示したことなんだと思います。
ある状況がナイトの不確実性の状況かどうかというのは後付けじゃないのかとか、そもそも「平時」は存在するのか(政治を見ていると、常に何らかの大きな課題がある気がする。)とか疑問もあるけど、アイディアが活躍する条件を著者は我々読者に見事に示している。
でも、「なぜあのアイディアではなくてこのアイディアだったのか」はやっぱり十分に明らかではないように思われる。

もちろん、あらかじめ、どのアイディアが勝利するかを予想することは不可能だとは思うけれど、今後の研究は「どういう」(What)アイディアがどういう条件で影響力を持ちやすいのかという方向で行われていくのかなあと漠然と思いました。
そういう意味で、それぞれの国の政治制度とアイディアの関係(coordinative discourseとcommunicative discourse)を分析したVivien Schmidtさんの研究(2002)などと組み合わされる必要があるし、また、政策変化には課題の認識とその課題を解決できそうな政策アイディア、その政策アイディアを推進できる都合の良い政治的状況の3つがすべて揃っていないといけないと主張するJohn W. Kingdonの研究(Agendas, Alternatives, and Public Policies)等の再度の読み直しも実り多いかもしれません。

(投稿者:Ren)

Berlin旅行記⑧ 番外編:ルターさんに会いに行く

2015年02月10日 | 【イギリス生活】旅行
SakuraとRenの旅行は、一か所に留まってゆっくり過ごすのが特徴。
でも、滞在中に一度だけベルリンを出たことがありました。
ベルリンからそんなに離れていない場所にRenが尊敬してやまないルターさんゆかりの場所があることを知って、「Lutherstadt Wittenberg」(以後、『地球の歩き方』に倣って「ヴィッテンベルク」と書きます)という町に行ってきました。(SakuraへのRenの趣味の押し付け。)

ヴィッテンベルクはルターさんが「95箇条の提題」を掲げた(1517年)場所であり、ルターさんが神学の教授として活躍していた場所であり、また、ルターさんが自らへの「破門脅迫の大教勅」を焼いた場所であり、要するに、全世界のルターファンにとっての聖地の一つ。
ベルリンからは、Hauptbahnhof(ベルリン中央駅)からRE5で1時間15分ほど。『地球の歩き方』には「ICE特急で」と書いてありましたが、駅員さんからこっちをおすすめされたので、たぶん少し安めなんだと思います。ただし、そんなに頻繁に電車が走っているわけではないので、時刻表は要確認。

さて、全世界のルターファンの聖地、ヴィッテンベルク。
きっとRenみたいにルターさんに会いに来た人たちでうようよしてるんだろうなーと思っていたところ、



・・・あれ??誰も歩いていない。。
時折地元の人っぽい方が通るのですが、東洋人がよっぽど珍しいのでしょう、おじさんもおばさんもみんな、僕たちをじーーーーっと見て通り過ぎていきました。
Manningtreeに初めて来たときの感覚が思い出されました(笑)

この町の必見スポットは3つ。「ルターの家」とルターさんの銅像がある「マルクト」、それから「95箇条の提題」が貼り付けられた「城教会」。
まず「ルターの家」。



ただのルターさんが住んでいた家なのかなと思っていたら、ルターさんについて大変充実した展示がある博物館でした。
ドイツ語だけじゃなくてちゃんと英語での解説もあって、ルターファンならきっと満足できるんじゃないかと思います。
博物館の中に、実際にルターさん一家が住んでいた部屋が残されていたのですが、あるルターファンの方に(というのも、いろんな展示をRenと同じ顔をして見ていたので)、「写真を撮ってください」とお願いされました。その方に勝手に親近感を抱いたRenでした。

Renが一番興奮したのは、ルターさんがドイツ語翻訳をする際に使用した聖書の展示。
聖書の至る所に、赤線と書き込みがあって、なんとそれがRenの本の汚し方にすごく似ていたのです。
「そうか、ルターさんも線を引いて、書き込みながらいろいろ考えてたんだ」と思って、嬉しくなりました。
ルターさんって現存した人物だったんですね、歴史の本に名前だけ載っているだけじゃなくて、ちゃんと500年くらい前の時代に生きていたんですね。それを今回の旅で感じられて本当に良かった。

次に、マルクト。



ルターさんの銅像だけじゃなくて、ルターさんのお友達だったメランヒトンさんの銅像もあります。(写真の右端にほんの少しだけ写りかけているもの。)
ちなみに、ルターさんの後ろに見えるのは、市庁舎。
ここは今も現役なのかどうか、気になるところ。
市庁舎の右に見えるのが、聖マリエン市教会。長くなるので書きませんが、ここもとても良い教会でした。

そして、城教会。



ん??なんか工事中にしか見えない。。
事務所があったので聞いてみたら、現在2017年の宗教改革500周年プロジェクトに向けて大改装工事中とのことで、いまは中に入れないらしいです。
実はヴィッテンベルクに来た半分以上の目的はこの教会の中にあるルターさんのお墓をお参りすることだったのですが…。

「95箇条の提題」があるところだけは白い布に覆われていなかったので、せっかくなので写真を撮っておきました。



もちろん、ルターさんが貼り付けたものがそのまま残っているわけではなくて、95箇条が刻まれているだけです。
一番の目的を達成できなかったので、2017年以降に、必ずまたここに戻って来ようと思います。


城教会に入れないという痛恨のハプニングはあったものの、Renにとって最高に充実したお出かけでした。
Sakuraはさぞかし退屈だっただろうと思いきや、ランチで入ったイタリアンレストランのパスタがとても美味しかったようでご機嫌でした。



僕だけが良い思いをしていたら申し訳なかったので、彼女も楽しんでくれて良かった。(パスタだけど。)
でも、、、それにしても、この町には本当に人が全然いなかったのですが、世界にルターファンってあまりいないのでしょうか…。


旅行から帰ってきてから2人して体調を崩すなどいろいろあって、旅行記を書き終えるまで時間がかかりすぎてしまいましたが、これでBerlin旅行記はおしまいです。
次回からはまた通常通りに戻ります。

(投稿者:Ren)

Berlin旅行記⑦ ベルリンフィル&ベルリン国立歌劇場

2015年02月09日 | 【イギリス生活】旅行
今回の旅行で一番したかったことは、ベルリンフィルとオペラを観ることでした。
ありがたいことに、両方とも公式HPがとても分かりやすく、座席指定もできるし英語表示にもなるので、大変スムーズにチケットが取れました。
ベルリンフィルはチケットをあっという間にイギリスまで送ってくれ、オペラの方はチケットをメール(PDF)で送ってくれたので、それを印刷し持参しました。楽ちん。

Berliner Philharmoniker(http://www.berliner-philharmoniker.de/en/

これはコンサートホールの入口。


会場の中はこちら。かなり大きいホールで、扉もたくさんあるので、席を見つけるまで結構時間がかかりました。一階席はシンプルだけど、上の席で初めて行く方は、少し早めに行ったほうがいいかもしれません。

ベルリン国立歌劇場(http://www.staatsoper-berlin.de/en_EN

ここに写っているチケットオフィスのお兄さんに聞くまで知らなかったのですが、ベルリン国立歌劇場は2010年から大改修工事中で、今ここでは上演していません。

かなり焦りましたが、工事中の間は別のホールで上演しているとのこと。Ernst-Reuter-Platz駅にある「シラー劇場」です。



私たちは「魔笛」と「CANDIDE」を観ましたが、魔笛はドイツ語のため字幕はなく、CANDIDEは英語のオペラなのでドイツ語の字幕が出る、という感じでした。十分楽しめましたが、魔笛ではアドリブ言ってた気がするし、CANDIDEは英語だから歌詞が分かるだろうと思っていたけど、うまく聞き取れず、Renは「英語の字幕が欲しかった。。。」とつぶやいてました(笑)

確かスカラ座でオペラを観たときは、座席の前に小さい画面があって、イタリア語か英語の字幕が選択できた気が。改修後のベルリン歌劇場ではどんな風になるんでしょう。

(投稿者/Sakura)

Berlin旅行記⑥ おすすめ観光スポット・その2「フンボルト大学」

2015年02月07日 | 【イギリス生活】旅行
おすすめ観光スポットの二つ目は、フンボルト大学(Humboldt-Universitat zu Berlin)。
ガイドブックには観光スポットとして載ってはいなかったのですが、設立されてから錚々たる人たちを輩出してきた大学なので、どんなところなのか入ってみたいと思っていました。
ちなみに、フンボルト大学はベルリンの中心部にあります。(ベルリン大聖堂からも近い。)

正面の入口から大学に入ってまず目につくのは、大きな階段。



かつてここの法学部の学生だったカール・マルクスの言葉が大きく彫られていました。

「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。しかし、肝心なのはそれを変えることである。」

階段を上っていろいろ探検すると、廊下にはこの大学の卒業生や教授たちの写真・絵が。
これはフィヒテさん。



他にもアインシュタインの写真があったり、ウィルムヘルム・フンボルトのネームプレートがあったり、ミーハーなRenを興奮させるものだらけでした。

大学の周りには様々な銅像がありました。

ハインリッヒ・ハイネさん。



ヘーゲルさん。(違う日に撮ったので雪が積もっていません。)



実は、事前調べによると、大学のどこかにハイネの詩の一節が刻まれたモニュメント(ナチス政権下において反体制的とされた約20000冊の本が焼かれた事件を記念するもの)があるとのことでした。

"Das war ein Vorspiel nur, dort wo man Buecher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen" (これは、前奏曲に過ぎなかった。本を燃やしたその場所で、最後には、彼らは人を燃やすのである) (ウィキペディアより。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3

このモニュメントをどうしても見たかったのですが、探し出せなかったことが残念です。
(ハイネさんの銅像を見つけたときは「これだ!」と思ったのですが、どうやら違うものでした。)


ちなみに、大学内に銅像・絵があったフィヒテさんとヘーゲルさんですが、街の中心部から徒歩圏内にお二人のお墓もあります。(Dorotheenstadtischer Friedhof Berlin)
お二人はお隣同士です。



こういうところを好きな人がどれだけいるか分からないけど、おすすめ。

(投稿者:Ren)

Berlin旅行記⑤ おすすめ観光スポット・その1「ベルリン大聖堂」

2015年02月05日 | 【イギリス生活】旅行
ベルリンには魅力的な観光スポットがたくさんありました。
SakuraとRenは旅行先でゆっくり過ごすのが好きなので、ベルリンでもそんなにたくさんの場所に行ったわけではありませんが、行くことができた中から「ここはとても良かった」というところを2つご紹介したいと思います。

2つのうちの一つ目は、ベルリン大聖堂(Berliner Dom)。



見た目はそこまでめちゃくちゃ綺麗ではないのですが、中は見事です。



イギリスの田舎の質素な教会を見慣れている僕からすると、ちょっとギラギラし過ぎ(お金持ちアピールが過ぎる)じゃないかなと思ってしまうけど、それでもやっぱり綺麗でした。
実はこの教会には宗教改革に重要な役割を果たした人たちの銅像があります。(上の写真で言うと、正面の柱の上の方。)
ちなみに、ここにいるのは、左からツヴィングリ、ルター、メランヒトン、カルヴァン。
この人選は、ルター派とカルヴァン派の和解を表しているとのこと。
Renはルターさんのファンなのですが、まさかこんなところでお会いできるとは思っていなくて、一人で興奮していました。

ちなみに、後ろを振り返ると、今度は宗教者じゃなくて、世俗の領主たちが立っています。



こちらも4人なのですが(写真には3人しか写っていません)、それぞれが誰だったのかはもう忘れました。。

この教会の良いところは、こうした情報を教えてくれる分かりやすい音声&ビジュアルガイド(モニター)が教会内のいろんなところに設置されていること。(言語はドイツ語と英語。)
教会の成り立ちや宗教改革の話、近現代史とこの教会の関わり等、様々なことをイラストや写真とともに解説してくれて、とても勉強になりました。

(投稿者:Ren)