錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

田原坂

2022年02月05日 | 歴史探訪

今日っていうか、日付が変わって昨日になりましたが西南戦争の激戦地の一つである田原坂へ行ってきました。
そして、ここ田原坂は熊本城への援軍として南下する政府軍と北上する薩摩軍が明治10年(1877年)の3月4日から17日間の攻防戦を繰り返した場所で約4000人の死傷者をだした場所であることは有名。


そして、ここ田原坂は『雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂』と民謡【田原坂】の歌詞にもあるように加藤清正が熊本城を築城した際に城攻めを想定して道幅を可能な限り細くし、両脇の切り通しとしたことで土手上から城へと進軍する兵を弓やら鉄砲で狙えるようになっている。
だから、熊本城を落城されせるであろう南下する敵兵だけを想定ていたものだから熊本経由で北進する薩摩軍が一時的に優位に立てってしまった。
ただ、この後に薩軍は敗走することになるのですが、この田原坂で薩軍が政府軍を制圧し熊本県境にある南関を越えて福岡入りを果たしていれば、今の歴史は大きく変わっていたと思う。


で、そんな田原坂ですが下から一の坂。


続いて二の坂。


そして最後に三の坂と3つの坂で構成されていて、その坂と坂の間と最上部は見下ろす形で陣を設けられるように平坦な土地になっている。
そんな田原坂ですが・・・
母方の実家が、この田原坂の近くと言うこともあって子供の頃は駆け回って遊んでいた。
特にクワガタやカブトムシなどの虫捕りね…w
しかーし!
ここで忘れてはならいのが、その昔に政府軍が薩摩軍が攻防を繰り返した激戦地であるということ・・・・
だから踏みつけた足の下に硬いものを感じたら、それは石くれではなく大人の親指ほどもある鉛でできた銃弾だったり中には四斤防弾などの破片なんてものもあった。
そして、時には真っ赤に錆びてはいるものの刀であったり銃剣を見つけたりすると『カッコえー』と有頂天になって持ち帰ると・・・
こんな『人を何人殺したか分からないモノを持って帰るんじゃない!』と、こっ酷く叱られたものでした。


で!
今でこそ周辺はミカン畑と化して明るくはなったけど、この爺さんが子供のころは雑木が茂り薄暗くて帰りが遅くなるとマジで怖かったことを思い出す。
と、言うか・・・・
場所が場所だけに怪しげの話も多くありましたし、ここの官軍墓地や薩軍墓地で肝だめしをやって血の気が引く思いをした連中たちが少なからずいた事も確か。
いつかは、そんな話を『本当にあった怖い話』というカテで語ろうかと思いますが・・・ 今回は、これにてお終い。
次に行くときはタムシチンキ大作戦じゃぁ!👈ちょっと違うけど・・・

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