錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕跡

2021年12月26日 | 歴史探訪
桜島爆発記念碑の後も話は続くよ何処までも・・・ なーんて感じで東桜島小学校を後にした爺さんは桜島港の前に広がる袴腰台地へと向かいました。
そして、そこには先の大戦において本土決戦に備え佐世保鎮守府部隊の第4海上護衛隊を改編して編成された桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕(海軍桜島基地跡)の跡地(坑口)を訪ねることにしました。


先ずこちらの坑口から左側へ2つ目までは魚雷調整室の出入り口で、大地を構成するシラス崩壊の危険性から現在は出入り口の全てが封鎖され坑内へ立ち入ることはできない。


ただ、小型レンズのコンデジで中を撮影すすると👆こんな感じで、坑口から数メートルはコンクリートで固められているが、その奥にある仕切りから先は、剥き出しのシラスのようで長い年月をかけて剥離崩落したと思われる土砂が足元に堆積していた。


また、2つの魚雷調整室の出入り口から更に右側へと進んだ3つ目の坑口はポンプ室への出入り口になります。
そんでもって、これは余談なのですが・・・
この爺さんが若かりし頃は坑口には厳重な鉄製の扉が取り付けてあって、これが桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕跡と知らなかったものだから『避難豪に扉をつけたら意味があるんかい!』なんて思ってました・・・ 恥ず


そして上のポンプ室への坑口から更に先へと進むと藪に埋もれたように動力室への出入り口があるのですが、これら4つ(これらとは別に魚雷保管室の坑口があるらしい)の坑道は全て奥で繋がっていて飲料水槽・穀物庫・厨房・倉庫などの他、蒸留水タンク・臨時爆弾庫・魚雷保管室などがあったらしいのですが動力室の右側が崩落しているために坑内の全容が掴めていない・・・・ らしい。
そんな桜島海軍第5特攻戦隊ですが、当時は蚊龍や海龍の24隻の他に回天46隻、震洋725隻が在籍していたとされています。
ただ、先の戦争で戦死された方々には大変申し訳ないのですが、日本という国が負けたことで軍国主義から解放されたことは間違いがなく、こんなことを当時に書き記したり撮影したりしようものなら確実に身柄を拘束され、それなりの行為を受けていた事でしょう。
また、話は変わりますが・・・・
この海軍桜島基地に補給のために立ち寄られ沖縄運天基地を目指すも、薩摩半島沖合にて攻撃を受け戦死された沖縄蛟龍隊の皆さんのご冥福をお祈り致します。

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桜島爆発記念碑

2021年12月25日 | 歴史探訪
皆さん、こんにちは。
予告していた通り、昨日は15時30分に鹿児島北ICから九州自動車道を利用したルートで無事に帰宅しました。
そして、昨日の話に戻るのですが・・・・
ホテルをチェックアウトして車に乗り込んだものの鹿児島(大隅半島)は朝から雨。
それもお昼を過ぎた頃から本降りの雨に変わるという予報。
ならば、その前にと桜島の中にある桜島市立東桜島小学校へと出かけてきました。


で、その学校を訪れた目的はと言うと・・・
この桜島市立東桜島小学校のグランドの隅には大正噴火を教訓とした桜島爆発記念碑なるものが建てられているのです。
そう、別名を〖科学不信の碑〗と呼ばれている石碑です。
表には大きく『桜島爆発記念碑』と掘り込まれていますが、その裏には・・・・


大正噴火による島民避難の経緯と、それを教訓とした戒めが掘られています。
その全文が👇これです。

大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ
其爆發數日前ヨリ地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ信頼セシ知識階級ノ人却テ災禍ニ罹リ村長一行ハ難ヲ避クル地ナク各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス

大正十三年一月
東櫻島村



それでは、この碑文を現在の文字に直したものが👇こちら・・・

大正三年一月十二日の桜島の爆発は安永八年以来の大災害で全島が猛火に包まれ、噴石が落下し、降灰が天地をおおい、その光景は凄惨を極め、八つの部落を全滅させて百四十人の死傷者を出した。
この爆発の数日前より、地震が頻発し、山頂には多少の崩壊が認められ、海岸には熱湯が吹き出し、旧噴火口から白煙があがるなど、刻刻と容易ならざる現象があったため、村長は何度も測候所(※現在の鹿児島地方気象台)に判断を求めたものの桜島は噴火なしという回答であったため村長は残っていた住民に狼狽して避難するに及ばないと伝達した。
しかし間もなく大爆発が起き、測候所を信用した知識階級の人がかえって災難にかかり、村長一行は難を避ける場所もなく、各自海に飛び込み漂流する中で山下収入役や大山書記などはついに悲惨な最期を遂げるにいたった。 
本島の爆発は、古来の歴史にてらせば、後日また免れないことは必然である。
住民は理論を信頼せず異変を認知する時は未然に避難の用意をすることをもっとも肝要とし、平素から倹約・貯金し、いつ災害にあっても路頭に迷わない覚悟をしなくてはならない。
ここに碑を建て記録とする。 

大正十三年一月
東桜島村

そして原文の中で『理論ニ信頼セス』という一文は、これを執筆した当時の鹿児島新聞(現在の南日本新聞)の記者が忖度したのか測候所(鹿児島地方気象台)ではなく理論と変えたことで、この碑が『科学不信の碑』と呼ばれるようになった。
しかし、この文面の経緯は別にして・・・
昨今に頻発する自然災害に関しても、発令される避難の勧告などはあてにせず『日頃から災害に備え、少しでも危険と感じたら直ぐに自らの命を守る行動をとらなければならない』という警告として感じるのは私だけだろうか・・・

長文でありながら最後までお付き合いをいただき、ありがとうございました。

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カテゴリー追加のお知らせ

2021年10月05日 | 歴史探訪
タイトルで『カテゴリー追加のお知らせ』なんて言っても大した事ではありません。
ただ単に、これまで『雑記(ひまつぶし)』にまとめていた記事の一部を、これからは『歴史探訪』としてのカテゴリーでUPすることにしましたと言うだけのお話。
と言うことで・・・・
もし、これからお暇な時間があれば時々覗いてあげてください。


ちなみに👆上の画像は鹿児島県の沖永良部島にある『屋者琉球式墳墓』
西暦1400年ころに沖永良部島を統治していた世之主(真松千代)に仕えていた家臣の屋者真三郎(四天王の一人)の墓とされるが・・・・
世之主(真松千代)の墓にも厨子甕に収められた四天王の遺骨が四隅に世之主(真松千代)とその家族を囲むように安置されいるらしい。
と、言うことは・・・ 分骨?
それとも納められた厨子甕を移したとか?
まぁ、そんな話は置いといて・・・・
その昔に豊臣秀吉が行った対外戦争で負った薩摩藩の財政を補おうと、助けた一人の琉球人を盾に慶長14年(1609年)から慶長15年(1610年)にかけて島津家久が琉球王国に対して何をしたのかは、また別の機会にでも・・・・

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