5/28 Tue.
この日の朝、またもやの悲報が列島を駆け巡りました。
川崎市の、いつもの平穏な朝を 文字どおり切り裂くことになった凶悪事件は、再び みたび私たちの心を震撼させ「なぜ・・・」としか言いようのない結末をまき散らしながら、事(こと)を起こした者の一方的な都合で一方的に幕を閉じることとなりました。
事件の報に触れ、驚き・怒り・悲しみ・やるせなさ、あらゆる負の感情を呼び起こさせられたところです。
「防ぎようがない」そう思ったのは 私だけではないでしょう。
私たちは、いったい どうやってこの種の事案に向き合えばいいのでしょう。社会で孤独を極めた者が、自暴自棄となって暴発する事件、何の落ち度もない市民、それも将来ある幼児(おさなご)の命をも奪う事案には、やるせなさが募るばかりです。
でも そのような存在も存在として認め、暴発を未然に防ぐことができる環境づくりもなければ、また どこかで暴発する者が現れるかもしれません。
古き佳きコミュニティ社会から 核化社会へと変遷した中で、負のエネルギーが培養された結果 発生したかの今回の事案は、またもや私たちに、重い社会課題を突きつけたまま終焉したのでした。
過日、あいさつ回りに同行してくださった N 幹事長、かつて公僕として建築設計に携わった方は、移動中、こう漏らしたのが印象的でした。
「なあクラちゃん、例えば道路なんかの公共物は、人知に限りはあるけれど、人の安全は工夫次第で防ぐことができるんだ。
例えばだな、こないだの大津の事故は、交差点に「ポール」が無かったんじゃないか。あそこにポールが一本建ってさえいれば、大切な生命は守られたろう。」
「これからの社会、どうすれば安心安全を守ることができるか、その一点だけに集中して物事に臨む。そんな気構えが求められているのかもしれないな。」
印象的なつぶやきだったのでした。