今日は太平洋戦争の終戦記念日で、
テレビでは特集番組を組んで戦争を振り返っている。
私は開戦の年、昭和16年8月に生まれたので参戦した経験はないが、
幼いながら感じた戦争の強烈な印象は残っている。
先ずその第一は「高松空襲」の経験である。
敗戦まじかの昭和20年7月4日の早朝午前3時頃、119機のB-29が飛来し、
高松は空爆・炎上して羅災者は約8万6,400人であった。
当時私はまだ4歳だったが、
高松から北西約20Kmの県中央部の田舎に住んでいた。
その日は突然半鐘が打ち鳴らされ警戒警報が発せられ、
庭の片隅に作っていた防空壕に避難する様になっていた。
幼かったので母の背に負われて寝床から連れ出された記憶が、
今も昨日のように鮮明に甦ってくる。
しかも早朝というのに高松方向の暗闇の空は、
一瞬線香花火の様に光り、バパッと爆発して赤々と燃え上っていた。
その光景はまるで戦争映画を見ているようで、今もその残像が残っている。
話しは変わるが我が地方の修学旅行(小学校)は岡山(岡山城・後楽園)、
広島(広島城・原爆ドーム)、愛媛(松山城・道後温泉・龍河洞)が定番コースであった。
私が行った終戦から僅か8年の昭和28年春だったが、
なかでも鮮烈に覚えているのが原爆ドームと原爆資料室の見学だった。
今は広島平和公園として整備されているが、
当時は「原爆参考資料陳列室」として中央公民館の一角に設置されていた。
その後丹下健三氏により設計され、りっぱな「広島記念資料館」となっている。
薄汚れた「原爆参考資料陳列室」には漠然と陳列されていたが、
そこで強く印象に残ったのは原爆直後の崩壊した広島市街模型、
原爆投下時に止まった時計、熱風でくっ付いた徳利、石に写った人影・・・・
どれをとっても驚嘆の眼で見たが、この原爆の威力を強烈に感じとった。
もう一つは原爆投下の象徴「原爆ドーム」(元広島産業奨励)で、
当時はドームの周辺に瓦礫の山のようにレンガが散乱していた。
そこには2~3人の被爆者がいて原爆の恐ろしさを語ってくれたが、
途中でシャツを脱ぎケロイドになった背中を見せつけられた。
最後は土産物を売ったりするのだが、
子供心に原爆の悲惨さを否というほど知らされた修学旅行だった。
とにかく終戦の日にささやかな幼い記憶を辿ったが、
戦争は恐ろしい愚かな行為である事には間違いない。
テレビでは特集番組を組んで戦争を振り返っている。
私は開戦の年、昭和16年8月に生まれたので参戦した経験はないが、
幼いながら感じた戦争の強烈な印象は残っている。
先ずその第一は「高松空襲」の経験である。
敗戦まじかの昭和20年7月4日の早朝午前3時頃、119機のB-29が飛来し、
高松は空爆・炎上して羅災者は約8万6,400人であった。
当時私はまだ4歳だったが、
高松から北西約20Kmの県中央部の田舎に住んでいた。
その日は突然半鐘が打ち鳴らされ警戒警報が発せられ、
庭の片隅に作っていた防空壕に避難する様になっていた。
幼かったので母の背に負われて寝床から連れ出された記憶が、
今も昨日のように鮮明に甦ってくる。
しかも早朝というのに高松方向の暗闇の空は、
一瞬線香花火の様に光り、バパッと爆発して赤々と燃え上っていた。
その光景はまるで戦争映画を見ているようで、今もその残像が残っている。
話しは変わるが我が地方の修学旅行(小学校)は岡山(岡山城・後楽園)、
広島(広島城・原爆ドーム)、愛媛(松山城・道後温泉・龍河洞)が定番コースであった。
私が行った終戦から僅か8年の昭和28年春だったが、
なかでも鮮烈に覚えているのが原爆ドームと原爆資料室の見学だった。
今は広島平和公園として整備されているが、
当時は「原爆参考資料陳列室」として中央公民館の一角に設置されていた。
その後丹下健三氏により設計され、りっぱな「広島記念資料館」となっている。
薄汚れた「原爆参考資料陳列室」には漠然と陳列されていたが、
そこで強く印象に残ったのは原爆直後の崩壊した広島市街模型、
原爆投下時に止まった時計、熱風でくっ付いた徳利、石に写った人影・・・・
どれをとっても驚嘆の眼で見たが、この原爆の威力を強烈に感じとった。
もう一つは原爆投下の象徴「原爆ドーム」(元広島産業奨励)で、
当時はドームの周辺に瓦礫の山のようにレンガが散乱していた。
そこには2~3人の被爆者がいて原爆の恐ろしさを語ってくれたが、
途中でシャツを脱ぎケロイドになった背中を見せつけられた。
最後は土産物を売ったりするのだが、
子供心に原爆の悲惨さを否というほど知らされた修学旅行だった。
とにかく終戦の日にささやかな幼い記憶を辿ったが、
戦争は恐ろしい愚かな行為である事には間違いない。