大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(2)

2015年01月30日 | 労働者福祉
賀川豊彦のことを調べれば調べるほど惹きつけられていく自分を感じてなりません。
貧困救済運動や労働運動やさまざまな社会運動に携わるわけですが、そのお金はどこから調達してきたんでしょうか?
現在私たちも「フードバンク事業」を手がけていますが、その運営資金調達で苦しんでいます。
そのヒントがふたつありました。
ひとつは「困ったら求めなさい」ということです。
これは早速個々に実践していますが、もうひとつは到底かなわないことでした。
それは彼が作家としてベストセラーを産みだして得た莫大な印税でした。

その印税を彼は惜しみなくつぎ込んでくれました。
その印税に代わるべき善意の資金をどこかに求めなければなりません。
これからの大きな課題です。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

豊彦10歳の時にもうひとつ新たな事件が起きます。
学校の用務員の娘が溝に落ちて、重傷を負い、肋膜炎にかかって亡くなったのです。
ところが豊彦がその子を溝の中に突き倒したのだと、近所の子ども達が犯人扱いしました。
世間はそれを信じ、少女の父親は豊彦に香典として100円を要求しました。
身に覚えのない豊彦でしたが、自分の飼っている鶏が生んだ卵を売って貯めたお金全部を少女の父親に渡します。
後に豊彦は、その少女が田に水を入れる水車を踏んでいて誤って落ちたことを知りますが、この出来事は彼の心に深い傷を残しました。
彼は激しく落ち込んで、心の病に苦しみました。

入学年齢よりも1歳若かったのに、兄に頼んで無理矢理に中学入学の試験を受けさせてもらったのも、この苦しみから逃れるためでした。
村を離れ、新しい所に出ていくことができて、豊彦は大喜びでした。
この徳島中学校時代に豊彦は外国人クリスチャンと出会います。
豊彦はキリスト教に傾倒していく一方で、結核に悩まされたうえ、とうとう長男が継いだ賀川回漕店も破産し、叔父にひきとられていきます。
そんな苦しみから逃れるように、片っ端から本を読みあさっていく彼に最も深い精神的影響を与えたのは聖書でした。
心理的な問題で悩み、家族との不和で苦しみ、疎外され、金銭的な問題、病気の心配を抱えていた若き豊彦は、聖書の言葉によって限りない慰めを与えられます。
徳島日本基督教会でマヤス宣教師から洗礼を受けたのは、豊彦16歳の時でした。

洗礼を受けた年(1904年)に日露戦争の幕が切って落とされます。
教育制度は愛国主義と軍国主義を強調するものに改定されていきました。
徳島中学でも軍服を着用し、軍事教練が正課として行われていました。
銃を片手に野外訓練の行進をしていたとき、豊彦は銃を放り出して、自分は平和主義者であるから人を殺す武器は持たない、と宣言します。
教師は銃を拾い参加するように命令しますが、豊彦はこれを拒否するので、殴打され、蹴られたりもしますが、彼は怯みませんでした。
彼は頑固に信仰に固執して、将来の約束された出世を拒絶します。
中学卒業後、輝かしい将来を約束されている東京帝国大学への道を示されますが、豊彦はそれを断りキリスト教伝道者となるべく明治学院へと進みます。

(つづく)