夫の父、私の舅に当たる人は戦時中、数百人の部下を持つ陸軍軍人だった。
満州にも母(姑)と出向いて、闘ってきたという。
多くの部下を戦禍に失くし、自分も下腹部を敵の鉄砲の玉が貫通していて、
その後の人生でも、不自由な思いをして暮らしてきた。
ある時、戦争負傷者に、恩給に更に上乗せの支給をするための、
最終申請をする機会があった。
不自由な体ながら、父は、それまで申請をしていなかったらしい。
その体で、昔の辛い農業をこなしてきた。
母が、「じっちゃん、申請したら・・・」と話した時、
父が言った言葉が忘れられない。
今でも思い出すと涙が出る。
「多くの部下を戦争で死なせたのに、自分はオメオメと生きて
祖国に帰って来た。それなのにそんなもの、申請できるか」と。
寡黙な父で、多くを語る事は無かったが、心に負った大きな傷は、
死ぬまで癒える事はなかったのだろう。
父が亡くなって20年。
おじいちゃん、今年も終戦記念日が来ましたよ。
先に行かれた部下の皆様に、もう逢えましたか?
満州にも母(姑)と出向いて、闘ってきたという。
多くの部下を戦禍に失くし、自分も下腹部を敵の鉄砲の玉が貫通していて、
その後の人生でも、不自由な思いをして暮らしてきた。
ある時、戦争負傷者に、恩給に更に上乗せの支給をするための、
最終申請をする機会があった。
不自由な体ながら、父は、それまで申請をしていなかったらしい。
その体で、昔の辛い農業をこなしてきた。
母が、「じっちゃん、申請したら・・・」と話した時、
父が言った言葉が忘れられない。
今でも思い出すと涙が出る。
「多くの部下を戦争で死なせたのに、自分はオメオメと生きて
祖国に帰って来た。それなのにそんなもの、申請できるか」と。
寡黙な父で、多くを語る事は無かったが、心に負った大きな傷は、
死ぬまで癒える事はなかったのだろう。
父が亡くなって20年。
おじいちゃん、今年も終戦記念日が来ましたよ。
先に行かれた部下の皆様に、もう逢えましたか?