クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

布川生まれの“赤松宗旦”はどこに眠っている? ―利根川図志Ⅰ―

2010年08月13日 | 利根川・荒川の部屋
いまからずっと昔に生きた人に会うことはできないが、
その墓碑の前に立つと、
ときどき出会えたような気分になるのはなぜだろう。

そこに遺骨が眠っているなら尚更のことだ。
太宰治の墓碑を見に行ったときも、
作家と対面を果たした気分になったのを覚えている。

“赤松宗旦(あかまつそうたん)”の墓碑の前に立ったときも、
姿形も知らないその人にようやく会えた気がした。

宗旦は『利根川図志』の著者として知られている。
本業は布川村(茨城県)の町医師だったが、
利根川沿岸の地誌『利根川図志』を著し、
いまにその名が伝えている。

宗旦は文化3年(1806)に布川で生まれ、
文久2年(1862)に57歳の生涯を閉じた。
現在は布川の“来見寺”にその墓碑が建っている。

『利根川図志』は利根川中・下流域の神社、旧跡、民俗などを書き記した地誌である。
のちの時代、布川で過ごした“柳田國男”にも、
大きな影響を与えた書物として知られている。

知的好奇心の旺盛な人だったらしい。
膨大な資料と踏査から書き綴っていることは読めばわかる。
上流域についても触れるつもりだったようだが、
それは形にはならなかった。

宗旦にとって『利根川図志』は命の次に大切なものだったのかもしれない。
紆余曲折はあったが、意地と信念で出版にこぎつけている。
彼を突き動かしていたものは何だったのだろう。
印旛沼の開発に刺激されて筆を執ったとも言われているが、
それとは別の内的衝動があったのかもしれない。

町医者として過ごしていれば、
出版にかかる苦労や失望を味わうことなく過ごしたに違いない。
少なくとも彼の晩年は、失意のまま息を引き取ることはなかったと思う。

しかし、彼は筆を執った。
『利根川図志』を著し、それを世に出した。
一般的に読まれる書物とは言えないかもしれないが、
往古を知る歴史的資料として大きく貢献をしている。

労働とは異なるものを「趣味」と切り捨てる人がいる。
本業とは違う宗旦の活動を、「道楽」と呼ぶ人もいるだろう。
しかし、時間潰しができるほど、人生は長くない。
己の夢に生きる人は、少しずつ日々を積み重ねている。

結果はすぐに出るものではない。
宗旦を笑う者もいたかもしれない。

しかし、彼は労働ではなく、彼にしかできない仕事を残した。
「町医師」ではなく、「赤松宗旦」として生きたのだ。
町医師は星の数ほどいるが、赤松宗旦は彼一人しかいない。
だから、埼玉くんだりからぼくのような人間が墓碑を訪れるのだ。
「趣味」だとしても、社会に貢献すればそれは立派な仕事である。

来見寺からは利根川が近い。
かつて境内から川を望めたのだろうが、
見ることはできない。
今日も誰かが宗旦を訪れるだろうか。
小高い場所に建つ宗旦の墓碑は、
往来を静かに見つめている。



来見寺(茨城県利根町布川)



利根川

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