クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

中ノ目のお地蔵さまも背が高い? ―背高地蔵―

2018年06月05日 | 利根川・荒川の部屋
旧騎西町(現加須市)にある「背高地蔵」を紹介したことがある。
(2017年10月18日「そのお地蔵さまはなぜ“背”が高い? ―背高地蔵―」)。

この背高地蔵は2体ある。
“下崎”と“中ノ目”だ。
先に紹介したのは“下崎”のお地蔵さまだった。
“中ノ目”も取り上げたい。

このお地蔵さまは背が高い。
なぜか?
それは大水が関係している。

その昔、村々は大水に襲われた。
民家は流され、田畑は潰れ、
犠牲となった人も少なくなかったらしい。

そこで、村人たちは犠牲となった人たちを供養するために地蔵尊を建立。
大水が来ても潜らないように……ということで、
背の高いお地蔵さまを建てたという。

下崎の背高地蔵が建立されたのは享保3年(1718)。
大水からおよそ60年の歳月が流れていた。
大水に襲われた当時を知る人はすでに少なくなっていただろう。
大水を決して忘れないように、との祈りもあったのだろうか。

とにもかくにも背の高いお地蔵さまが建立された。
それから6年後のこと、
同じく中ノ目において背高地蔵が造られることになる。
それが2体目の背高地蔵だ。

理由は同じ。
大水で亡くなった人々への供養と、
水に潜らないようにと、さらに背の高い地蔵尊を建立したのだった。

このお地蔵さまはいまも存在している。
近くを見沼代用水路が流れ、その控えの土手に建っている。
下崎が南向きに対し、中ノ目は東向きだ。
あくまでも主観だが、前者がやや痩せ型なのに対し、
後者はやや恰幅がいいかもしれない。

そもそも「中ノ目」という地名は、
低湿地に形成された島状の集落を指すという。
「メ」は、流れを横切るところ、狭い場所を意味するのだとか。

見沼代用水路は、元流れていた星川を利用して掘削されたものだ。
星川はかつての荒川の流れに比定される。
古くから低湿地で大水に悩まされた地域だったのかもしれない。

その地域に、大水に潜らない背の高いお地蔵さまが建立されるのだから、
偶然ではなく必然と言えよう。
用水路は護岸され、人的管理によって流れているように見える。
しかし、背高地蔵は大水に襲われた地域の歴史をいまに伝えている。


見沼代用水路の控えの土手を通る道路


(おまけ)下崎の背高地蔵と幼子

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