旧北川辺町(現加須市)と茨城県古河市を結ぶ“三国橋”がある。
下を流れるのは渡良瀬川。
ここは、かつて『万葉集』にも詠まれた「許我(こが)の渡」に比定される。
麻久良我(まくらが)の許我の渡りの韓梶(からかじ)の
音高しもな寝なへ児ゆゑに
(佐竹昭広 他校注『万葉集(四)』岩波文庫 より)
なお、ほかに「許我」が詠まれた歌として、
逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我
漕ぐ舟に君も逢はぬかも
(同書より)
がある。
前者の意は、
「まくらがの許我の渡し場に響く韓梶の音のように噂が高いなぁ。一緒に寝もしない子なのに」となり、後者は
「逢わずに行くのは残念。まくらがの許我を漕ぐ舟であなたにひょっこり逢えないかなぁ」という意になる。
「許我」は現在の古河市に比定される。
前者の歌を刻した歌碑が、埼玉と茨城の両方に建っている。
埼玉は鷲神社の境内、
茨城は渡良瀬川の土手の上。
どちらも三国橋のすぐ近くだ。
ちなみに、茨城県最大の道の駅と言われる「まくらがの里こが」は、
『万葉集』に詠まれた歌に由来したのだろう。
上記以外にも、「麻久良我」を詠んだ歌がある。
白たへの衣の袖を麻久良我よ
海人漕ぎ来見ゆ波たつなゆめ
(同書より)
「衣の袖をまく、麻久良我を通って海人が漕いで来るのが見える。波よ決して立つな」という意。
「許我の渡」「舟」「波」という言葉が表すように、
そこは舟運交通の要衝地だったのだろう。
(作者が実際にその景色を見たとは限らないが)
だから、四季を通して気軽に渡れるものではなかった。
特に雪解けの春や、梅雨の夏などは増水し、
川は行く手を阻む存在であったはずだ。
洪水も頻繁にある。
道の維持の安定化も難しい。
したがって、戦国時代に多くの兵を率いた軍勢が
陸路として積極的にこのルートを使用しただろうか?
と、学者が指摘するのも頷ける。
古河市に建つ碑
三国橋
下を流れるのは渡良瀬川。
ここは、かつて『万葉集』にも詠まれた「許我(こが)の渡」に比定される。
麻久良我(まくらが)の許我の渡りの韓梶(からかじ)の
音高しもな寝なへ児ゆゑに
(佐竹昭広 他校注『万葉集(四)』岩波文庫 より)
なお、ほかに「許我」が詠まれた歌として、
逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我
漕ぐ舟に君も逢はぬかも
(同書より)
がある。
前者の意は、
「まくらがの許我の渡し場に響く韓梶の音のように噂が高いなぁ。一緒に寝もしない子なのに」となり、後者は
「逢わずに行くのは残念。まくらがの許我を漕ぐ舟であなたにひょっこり逢えないかなぁ」という意になる。
「許我」は現在の古河市に比定される。
前者の歌を刻した歌碑が、埼玉と茨城の両方に建っている。
埼玉は鷲神社の境内、
茨城は渡良瀬川の土手の上。
どちらも三国橋のすぐ近くだ。
ちなみに、茨城県最大の道の駅と言われる「まくらがの里こが」は、
『万葉集』に詠まれた歌に由来したのだろう。
上記以外にも、「麻久良我」を詠んだ歌がある。
白たへの衣の袖を麻久良我よ
海人漕ぎ来見ゆ波たつなゆめ
(同書より)
「衣の袖をまく、麻久良我を通って海人が漕いで来るのが見える。波よ決して立つな」という意。
「許我の渡」「舟」「波」という言葉が表すように、
そこは舟運交通の要衝地だったのだろう。
(作者が実際にその景色を見たとは限らないが)
だから、四季を通して気軽に渡れるものではなかった。
特に雪解けの春や、梅雨の夏などは増水し、
川は行く手を阻む存在であったはずだ。
洪水も頻繁にある。
道の維持の安定化も難しい。
したがって、戦国時代に多くの兵を率いた軍勢が
陸路として積極的にこのルートを使用しただろうか?
と、学者が指摘するのも頷ける。
古河市に建つ碑
三国橋
朝日に照られた渡良瀬川には心が癒されそうです。
土手上を走るのは気持ちがいいですね。
過日、息子と雀神社を参拝しました。
土手上から三国橋を眺める景色は・・・・
古河の町中にある古書店を訪ねて帰路に就きました。
昔、お世話になった先生が古河を案内してくれたのが春だったので、そのときのことを懐かしく思い出しました。
許奈良の須