自転車で利根川の土手沿いをひたすら下り、
海へ向かったのは18歳の春でした。
具体的な計画もなければ、地図も持たない旅です。
わかっているのは、川の果てに海があるということだけ。
海が見たい。
動機はただそれだけでした。
若さ所以だったかもしれません。
海の町で泊まるのか、それとも日帰りなのかも決まっておらず、
体の奥からわき上がる内的衝動のみでペダルをこぎ続けたのです。
海へ向かったあの春の日は、
時折自分の生き方と重なる気がします。
綿密な計画を立てるわけではなく、地図をも持たず、
内的衝動のみで突っ走る。
走り出してから考える。
情熱と虚無感は常に背中合わせでも、
まあ何とかなるだろうと、楽観の方がわずかに上回る。
走り続けることが許されるなら、行きつくところまで行ってみたい。
途中で自ら見切りをつけることはしたくない。
まなざしが海へ向いている限り、足は止まっていないと信じたい。
止まらなければ、わずかでも海に近づいている。
そう思いたい。
あの日向かった海は、振り返れば自分の生き方とどこか似ている気がします。
海へ向かう途中、目に焼き付いている光景があります。
それは関宿城(千葉県野田市)。
埼玉県羽生市から出発して、およそ約90分が経った頃でしょうか。
対岸に見えたのは白い天守閣です。
菜の花に彩られた土手の向こう側、突如城が目に飛び込んできたのです。
それが千葉県立関宿城博物館の建物と知ったのは、少しあとになってのことでした。
春の穏やかな日差しを浴びて、きらきら光って見えた天守閣。
同館は1995年11月11日の開館で、僕が目にしたのは1997年4月1日ですから、
その時点ではまだ新しかったことになります。
地図を持たない僕は、それが何の城なのかわかりません。
ただ、視線が釘付けになったまま、ペダルをこぎ続けたのを覚えています。
さらに川を下ると、目に引くものが現れます。
関宿水閘門(せきやどすいこうもん)です。
それは江戸川への洪水分派を目的として作られた水門で、
大正7年(1918)に着手し、昭和2年(1927)に竣工した近代遺産でした。
圧倒的な存在感です。
少なくとも、18歳の目にはそう見えました。
過去に何かがあったからこのような人工物ができたのでしょう。
何があったのか?
どのような経緯を経て現存しているのか?
天守閣と水閘門。
一体ここはどんな場所なのだろうと首を傾げました。
その当時、地域史に関心があったわけではありません。
関宿城の存在はおろか、羽生城がどのような歴史を辿ったのか知らなかったくらいです。
ただ、天守閣と水閘門に目を奪われてそこに立ち止まったのは、
その芽がすでにあったからなのでしょう。
関宿城の歴史は、地元の地域史とつながっていました。
関宿城が羽生城と共に上杉謙信に従属し、
最後まで後北条氏に抵抗していたと知るのはその数年後のことです。
水運の要衝地にあり、関宿城を手中に収めることは一国を得るに等しいと言われた城。
そのため、後北条氏は二つの砦を築いて関宿城を落とそうとしたほどです。
(北条氏照も関宿後略のために栗橋城に入城)
北条氏康・氏政父子は、手鑓を持って自ら出撃。
関宿城主簗田氏の巧みな戦術や「野伏」によって落城は叶いませんでしたが、
その後も執拗に攻め続けています。
そして、天正2年(1574)閏11月に開城。
同時期に羽生城も自落し、これをもって後北条氏は勢力伸長に成功するのです。
ちなみに、当時は忍び(忍者)が暗躍していたらしく、
関宿城から程近い水海城では、城の際に建つ小屋が火事に見舞われました。
忍びによる仕業と思われましたが、そうではないことが判明。
したがって小屋の者たちは安心するよう、簗田晴助は伝えています(「下総旧事」)。
夜前水海之際小屋火事無是非次第候、
然共敵地へ申合子細無之、忍之所行無之由も申上候間、小屋之者共心やすく存、
ちかくにか、はりすてし可致、在城之由堅可能申付候(後略)
わざわざ忍びの仕業ではないと伝えていることから、
当時は特殊な技術を持った者たちが暗躍し、かつ警戒されていたことが読み取れます。
それは羽生城に関連する資料からもうかがえることです。
ところで、18歳のあの日、辿り着いた海は東京湾でした。
葛西臨海公園に自転車をとめ、ひとり海を眺めました。
沖に飛ぶ飛行機、ぽつりぽつり浮かぶ船、少し遠くに見えるディズニーランド。
春の日差しを受けた海はキラキラ輝いていました。
あれから23年が過ぎ、いま海からどのくらいの距離にいるのだろうと思います。
18歳のときよりも海は姿を変え、その意味合いは異なるものになったかもしれません。
それは自分が変わったからなのか、それとも時代のせいなのか……。
年を重ねて性格はいささか慎重さを増したと思いますが、
根本的なところは何も変わっていない気がします。
関宿城の天守閣はいまも変わらず建っています。
あれから博物館内に何度も足を運び、城址碑も訪れましたが、
右岸の土手から見る天守閣に最も惹かれます。
関宿城や川の歴史を調べるほど、
18歳のときに初めて目にしたのと同じインパクトをもって、
僕の前に現われ続けています。
過去の自分に対してさほど葛藤はないかもしれません。
“ヨルシカ”が唄う「だから僕は音楽を辞めた」のように、
過去と現在の自分の狭間で揺れ動く振れ幅は少ないように思います。
さすがに18歳のような真っ直ぐな気持ちは消え、
思い描く未来は修整されています。
それでも海があるから、
あるいはあると信じたいからなのかもしれません。
関宿城、水閘門を横目で見ながら海へ向かったあの春のように、
強い想いがあって、それに突き動かされていたいからなのかもしれません。
海へ向かったのは18歳の春でした。
具体的な計画もなければ、地図も持たない旅です。
わかっているのは、川の果てに海があるということだけ。
海が見たい。
動機はただそれだけでした。
若さ所以だったかもしれません。
海の町で泊まるのか、それとも日帰りなのかも決まっておらず、
体の奥からわき上がる内的衝動のみでペダルをこぎ続けたのです。
海へ向かったあの春の日は、
時折自分の生き方と重なる気がします。
綿密な計画を立てるわけではなく、地図をも持たず、
内的衝動のみで突っ走る。
走り出してから考える。
情熱と虚無感は常に背中合わせでも、
まあ何とかなるだろうと、楽観の方がわずかに上回る。
走り続けることが許されるなら、行きつくところまで行ってみたい。
途中で自ら見切りをつけることはしたくない。
まなざしが海へ向いている限り、足は止まっていないと信じたい。
止まらなければ、わずかでも海に近づいている。
そう思いたい。
あの日向かった海は、振り返れば自分の生き方とどこか似ている気がします。
海へ向かう途中、目に焼き付いている光景があります。
それは関宿城(千葉県野田市)。
埼玉県羽生市から出発して、およそ約90分が経った頃でしょうか。
対岸に見えたのは白い天守閣です。
菜の花に彩られた土手の向こう側、突如城が目に飛び込んできたのです。
それが千葉県立関宿城博物館の建物と知ったのは、少しあとになってのことでした。
春の穏やかな日差しを浴びて、きらきら光って見えた天守閣。
同館は1995年11月11日の開館で、僕が目にしたのは1997年4月1日ですから、
その時点ではまだ新しかったことになります。
地図を持たない僕は、それが何の城なのかわかりません。
ただ、視線が釘付けになったまま、ペダルをこぎ続けたのを覚えています。
さらに川を下ると、目に引くものが現れます。
関宿水閘門(せきやどすいこうもん)です。
それは江戸川への洪水分派を目的として作られた水門で、
大正7年(1918)に着手し、昭和2年(1927)に竣工した近代遺産でした。
圧倒的な存在感です。
少なくとも、18歳の目にはそう見えました。
過去に何かがあったからこのような人工物ができたのでしょう。
何があったのか?
どのような経緯を経て現存しているのか?
天守閣と水閘門。
一体ここはどんな場所なのだろうと首を傾げました。
その当時、地域史に関心があったわけではありません。
関宿城の存在はおろか、羽生城がどのような歴史を辿ったのか知らなかったくらいです。
ただ、天守閣と水閘門に目を奪われてそこに立ち止まったのは、
その芽がすでにあったからなのでしょう。
関宿城の歴史は、地元の地域史とつながっていました。
関宿城が羽生城と共に上杉謙信に従属し、
最後まで後北条氏に抵抗していたと知るのはその数年後のことです。
水運の要衝地にあり、関宿城を手中に収めることは一国を得るに等しいと言われた城。
そのため、後北条氏は二つの砦を築いて関宿城を落とそうとしたほどです。
(北条氏照も関宿後略のために栗橋城に入城)
北条氏康・氏政父子は、手鑓を持って自ら出撃。
関宿城主簗田氏の巧みな戦術や「野伏」によって落城は叶いませんでしたが、
その後も執拗に攻め続けています。
そして、天正2年(1574)閏11月に開城。
同時期に羽生城も自落し、これをもって後北条氏は勢力伸長に成功するのです。
ちなみに、当時は忍び(忍者)が暗躍していたらしく、
関宿城から程近い水海城では、城の際に建つ小屋が火事に見舞われました。
忍びによる仕業と思われましたが、そうではないことが判明。
したがって小屋の者たちは安心するよう、簗田晴助は伝えています(「下総旧事」)。
夜前水海之際小屋火事無是非次第候、
然共敵地へ申合子細無之、忍之所行無之由も申上候間、小屋之者共心やすく存、
ちかくにか、はりすてし可致、在城之由堅可能申付候(後略)
わざわざ忍びの仕業ではないと伝えていることから、
当時は特殊な技術を持った者たちが暗躍し、かつ警戒されていたことが読み取れます。
それは羽生城に関連する資料からもうかがえることです。
ところで、18歳のあの日、辿り着いた海は東京湾でした。
葛西臨海公園に自転車をとめ、ひとり海を眺めました。
沖に飛ぶ飛行機、ぽつりぽつり浮かぶ船、少し遠くに見えるディズニーランド。
春の日差しを受けた海はキラキラ輝いていました。
あれから23年が過ぎ、いま海からどのくらいの距離にいるのだろうと思います。
18歳のときよりも海は姿を変え、その意味合いは異なるものになったかもしれません。
それは自分が変わったからなのか、それとも時代のせいなのか……。
年を重ねて性格はいささか慎重さを増したと思いますが、
根本的なところは何も変わっていない気がします。
関宿城の天守閣はいまも変わらず建っています。
あれから博物館内に何度も足を運び、城址碑も訪れましたが、
右岸の土手から見る天守閣に最も惹かれます。
関宿城や川の歴史を調べるほど、
18歳のときに初めて目にしたのと同じインパクトをもって、
僕の前に現われ続けています。
過去の自分に対してさほど葛藤はないかもしれません。
“ヨルシカ”が唄う「だから僕は音楽を辞めた」のように、
過去と現在の自分の狭間で揺れ動く振れ幅は少ないように思います。
さすがに18歳のような真っ直ぐな気持ちは消え、
思い描く未来は修整されています。
それでも海があるから、
あるいはあると信じたいからなのかもしれません。
関宿城、水閘門を横目で見ながら海へ向かったあの春のように、
強い想いがあって、それに突き動かされていたいからなのかもしれません。