クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

禁を犯した“伊達政宗”と“徳川家康”の行動は?

2007年12月15日 | 戦国時代の部屋
――伊達政宗。
12月12日放送の「その時歴史は動いた」(NHK)で取り上げられたのは、
慶長遣欧使節団から見た伊達政宗の野心でした。

遅れてきた武将と言われた政宗。
もし豊臣秀吉や徳川家康と同世代に生まれていたならば、
いま伝えられる歴史とは違っていたかもしれません。
そうした想像を禁じ得ない実力を持つ男です。
慶長遣欧使節団を見ても、
武だけでなく、文治に優れた武将だったことが窺えます。

そんな伊達政宗の実力は、徳川家康もよく知っていたのでしょう。
強大な力を蓄えないよう、江戸城普請など財政的打撃を与えるのでした。
その一方で、政宗との仲が険悪にならぬよう気を遣っていたようです。
慶長6年(1601)、家康は政宗に“鷹場”を与えています。

鷹場とは鷹狩りが許可された土地。
戦国武将たちは武術の鍛錬や、土地の監察、あるいは敵地の探索のために、
頻繁に鷹狩りを行っていました。
特に家康の鷹狩り好きはよく知られており、
寿命を縮めたと言われるタイの天ぷらを食べたのも、
鷹狩りの出先です。

ところで、政宗が鷹場として与えられた土地は、
現在の埼玉県久喜市を中心にしたところでした。
合わせて130カ村にも及んだそうです。
これはきわめて異例なこととして、
「おそらく政宗が、家康や秀忠の鷹狩りとかち合い問題を起こすことを恐れての措置であったろう」
と、『鷲宮町史』は記しています。

同書によると、ある日政宗は禁猟区に入り猟をしていたところ、
向こうから家康がやってくるのを発見。
政宗はあわててその場をあとにし、
家康もまたそれに気付いて空堀に身を隠しました。

後日両者は面会し、その話題になると次のような会話をしたそうです。
「あの日、禁猟区に入って鳥をとっていましたが、家康公が見えたのであわてて竹林へ逃げ隠れました」
「いや、ワシもそなたの鷹場に入ったと思っておったので、いきまいて逃げたのだ。お互いに鷹場を犯していたことを知っていれば、そうもせずともよかったのに」
2人はそう言って笑ったということです。
互いが気を遣い合っていることが窺えるエピソードです。

もちろん表には出さない裏の駆け引きがあったのでしょう。
家康が没したあと、政宗は幕府に反旗を翻すことなく、
寛永13年(1636)5月24日に亡くなります。
政宗の鷹場は、寛文2年(1662)に将軍家へ返上されたということです。

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