クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

棟札から読む織田信長の進攻を受けた社の一例

2023年05月01日 | 戦国時代の部屋
江戸期に作成された地誌を読むと、
戦国期の動乱によって荒廃した神社仏閣を改めて創建した、という記事をよく見かける。
中興開基・開山者としてその名を刻む人物や僧侶がいて、
歴代住職墓碑の中にひときわ立派な石塔が建っていたりする。

戦国期における敵軍の進攻はすさまじく、乱妨狼藉が横行したという。
家の焼失や金品の強奪のほか、田畑の作物は悉く刈り取られた。
捕らわれた女性たちは売り飛ばされ、
老人や子どもも容赦なくなで斬りにされた。
乱妨狼藉は神社仏閣も例外ではなく、灰燼に帰すことも珍しくなかった。

例えば、上洛の途にあった織田信長の軍勢は、
永禄11年(1568)に近江国蒲生郡に押し入った。
9月17日、同郡の醫師社への乱妨狼藉が行われたらしい。

民家及び僧侶の住む家屋に火がかけられると、たちまち炎上する。
その炎にあおられて、醫師社にも火の手があがった。
と同時に、宝物殿や薬師堂などの施設にも引火し、ことごとく焼失したという。

右前之御本社者、尾張国織田信長、当国乱入時、彼党輩、永禄十一年丁辰九月十七日、当所令乱入、僧坊在家放火之余炎、当社ニ吹懸、七社之御宝殿(中略)悉焼失仕畢(棟札より)

敵勢による社寺進攻の様子がうかがえる。
本殿・本堂に直接手をかけなくても、「僧坊」は放火の対象だったらしい。
おそらく、火をかける前に強奪も行われたのだろう。
荒廃するのも無理はない。

ところが、醫師社の再興は速やかに行われ、
永禄11年12月21日には御仮殿が完成している。
これは、人々の信仰心の厚さによるものと、地域力も関係しているのだろう。
荒廃したまま近世を迎えた社寺は多く、戦乱が鎮まるのを待つほかなかった。
再興したところですぐさま戦火に見舞われる可能性が高い戦国期においては、
心情的にも建て直しの気運は上がらなかったのではないだろうか。

江戸期作成の地誌の中には、戦乱によって社寺が荒廃していたため、
それを再興した旨がサラリと書かれているものもある。
どのように荒廃したのか触れられていないのだが、
強奪や放火は視野に入ってくるだろう。
社寺が領民にとって精神的支柱だったならば、
そこへの攻撃は精神的苦痛が少なくなかったはずである。
灰燼に帰した社寺を目の当たりにし、世の終わりを感じる領民もいたかもしれない。

そのような社寺が再興を迎えたとき、
それは戦乱の終わりを象徴するものだったように思われる。
地誌に名のみ記された中興開基・開山者は、
往時おそらく人々から畏敬の念を一身に集めたに違いない。
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