クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

三船山合戦で父を亡くした幼女の行く末は?

2023年05月10日 | 戦国時代の部屋
合戦で父を亡くした幼女がいた。
その名を“福”という。
永禄10年(1567)における三船山合戦で、北条方に属した“賀藤源左衛門尉”という者が討死する。
その娘が福だった。

里見義弘率いる軍勢に敗北したとはいえ、
北条氏政は源左衛門の「忠節」を賞賛する。
同時に、父を失った福を不憫に思ったのだろうか。
あるいは政治的な力が働いたのかもしれない。
源左衛門の甥である“賀藤源二郎(源次郎)”に対し、
賀藤家を断絶させないよう取り計らうのである。

 (前略)然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上相当之者、妻一跡可相続候、
 其間者源次郎可有手代者也(後略)

すなわち、源左衛門の跡目に福を継がせようにも、あまりにも幼い。
そのため、福が成人して婿をとったときに相続させることとする。
それまでは、賀藤家は源二郎に任せるというものだった。
かくして、氏政は永禄10年9月10日付で、源二郎に対して判物を発給したのだった(「武州文書」)。

この賀藤家は、のちに旧騎西町(現埼玉県加須市)に移ったとみられる。
当家家譜によると、父源左衛門を失ったときの福は、わずか3歳だったらしい。
一方、氏政から賀藤家の後見を一任された源二郎は、当時15、6歳であった。

三船山合戦は、岩付城主“太田氏資”が討死した戦いでもあった。
源左衛門は氏資の軍勢に加わり、身命をなげうって戦ったと家譜は伝える。
この合戦後、岩付城には“太田氏房”が新たに就くこととなった。
賀藤源二郎は、改めてこの氏房に仕えることとなり、岩付に居住したようである。

ところが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで岩付城は陥落。
源二郎は生き延びたものの、民間に身を潜め、浦和町付近に流れ着いた。
同年、徳川家康が関東に入府し、世間が落ち着きを見せ始めた頃だろう。
源二郎は騎西領へ移ったという。

家譜によれば、賀藤家の名跡は結局源二郎が継いだとする。
福は成人ののち、婿をとったわけではなく、どこへ嫁いだのかも不明と記されている。
ただ、家譜という性格上、その記述の全てを鵜呑みにすることはできない。
例えば、『新編武蔵風土記稿』では源二郎は福を伴って騎西領へ移り、
のちに福が賀藤家を相続したとしている。

戦国時代、戦場で父を失うことは珍しくなかったと思われる。
幼いとはいえ、福は父の訃報に接し胸を痛めたのではないだろうか。
討死した源左衛門にしても、幼子を残してこの世を去るのは無念だったに違いない。
敵の凶刃に倒れたとき、最後に脳裏に浮かんだのは幼い福の顔だっただろうか。

ちなみに、源二郎の妻は雲祥寺七代住持の姪と家譜は記す。
この妻こそが、福本人だったのかもしれない。
つまり、いとこ同士での結婚である。
その可能性が考えられるものの、決定打はない。
もしそうであれば、北条氏政は未來が見ていたのだろう。
だからこそ、先の判物を発給したのかもしれない。

父と娘。
戦国期に限らす、どの時代にも父と娘は存在する。
むろん、現在もいる。
北条氏政の判物は、「戦場で散った父」及び「戦場で父を亡くした娘」、
そして「為政者による戦後処理」を浮かび上がらせている。
いまから約500年前に生きた人々である。
が、幼くして父を失った福が、
その後幸せな生涯を送ったと願わずにはいられない。
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