クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

天正4年の“上杉謙信”の上野・下野攻め

2020年05月07日 | 戦国時代の部屋
天正2年(1574)に関東各地を焼き尽くし、羽生城を自落させた上杉謙信は、
その年が最後の越山と捉えられていました。
しかし、その後の研究により、
天正2年以降も何度か越山していたと見られるようになります。
永禄年間のような頻度ではないにせよ、天正2年が最後ではなかったということです。

その一つが天正4年に比定される上野国・下野国進攻です。
天正2年に羽生・関宿両城の陥落によって、
利根川防衛ラインが破られたことが悔しかったのでしょう。
鬱憤を晴らすかごとく、両国に攻め攻め入るのです(『上越市史』№1290)。

 (前略)如啓先段、赤石・新田・足利迄誠ニ奇麗ニ田畠共ニ七尺返候、
  はやばや弱もの落来申分者、地下人ハ不及申給人迄、利根南ヘ妻子を引連落由申候
  関東越山数年ニ候得共、如今般之敵々詰候時分ハ無之由各申候
  取分丹後守父子慶申候、渡瀬ヨリ新田・足利ヘ懸ル用水候、是ヲ切落候得者、
  新田・館林・足利迄成亡郷由候間、足利・新田之間、金井宿之際ニ陣取、堰四ツ切落、
  昨日広沢へ引返候、今日ハ桐生之田畠為返候(後略)

これは、5月30日付で直江景綱に宛てた謙信の書状です。
凄まじい進攻だったことが読み取れます。

「七尺返」とは田畑を深く掘り返す攻撃のことで、これを受けると収穫が不能になります。
攻撃は城攻めや野戦だけではなく、七尺返や「刈田」など、田畑を対象とするものも少なくありませんでした。
この攻撃を赤石(群馬県伊勢崎市)・新田(同県太田市)・足利(栃木県足利市)が受けています。
すると、逃亡者が続出。
弱もの・地下人・給人までが利根川の南へと妻子を連れて逃亡しています。

あまつさえ、渡良瀬川から太田や足利へ引く用水を切り落としています。
新田・館林・足利を「亡郷」にするため、「金井宿」に陣取り、堰を4つ切ったのです。

もはや、謙信には上野及び下野の領地を掌握しようとする考えはありません。
「亡郷」にして鬱憤を晴らすべく、攻撃あるのみです。
これまで関東越山を繰り返してきた謙信でしたが、
このときほど敵を追い詰めたことはなかったと、各々は異口同音に評したようです。

まるで嵐のような上杉勢の進攻だったのでしょう。
天正2年以後も謙信は後北条氏の勢力下を攻め、
田畑や堰を攻撃することで一矢報いたわけです。
血は流れないかもしれませんが、人々の暮らしを直撃する攻撃であり、
その精神的苦痛は計り知れません。

羽生・関宿両城が陥落した天正2年閏11月以降、戦場は北面に移っています。
北条氏政は榎本城や祇園城を攻めてこれを攻略。
反北条の国衆たちは武田勝頼を味方に付け、
天正8年には武田勢が上野国へ進攻しています。
小泉城攻めから端を発した沼尻の合戦も、北関東が主戦場でした。

例え主戦場から離れても兵站地として機能したり、
下知に応じて参戦しなければなりませんでした。
気の休まるときがなかったでしょう。
天正4年の上杉謙信の越山。
軍勢が去ったあと、領民たちは「墟」と化した地を呆然と見つめていたのかもしれません。

謙信は天正6年に死去します。
もし謙信が関東へ出陣しなければ、あるいは「関東管領」に就任しなければ、
後北条氏は速やかに関東を平定していたでしょうか。
関東を舞台に上杉氏と後北条氏が激しく衝突することもなければ、
領民がその戦渦に巻き込まれることはなかったかもしれません。

しかし、謙信を呼び寄せたのは関東の国衆です。
後北条氏に対抗するべく、謙信の力を頼った国衆たち。
果たしてそれが吉と出たのか凶と出たのか……。
その歴史的評価を下すのは難しいものです。
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