クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

三方ヶ原合戦後、武田信玄から非難された武将は?

2023年05月15日 | 戦国時代の部屋
鉄は熱いうちに打てという。
ここぞというときに事を起こす。
「次」があるとは限らない。
この好機を逃してはならない。

そんなとき、事を起こさぬ人がいる。
例えば戦国期の朝倉義景。
いや、義景には義景の理由があったのだろうが、
武田信玄はそう考えなかったらしい。
元亀3年(1572)12月28日付に朝倉義景に宛てた書状の中に、
「不可過御分別」と非難めいて綴っている(「伊能文書」)。
よく思慮すること、これ以上のことはない、と。

武田信玄が三方ヶ原で徳川家康勢を打ち破ったのは元亀3年12月22日のこと。
織田信長の軍勢も援軍に駆け付けていたが少数だった。
武田勢を追撃する形で出陣した徳川・織田勢は、
三方ヶ原で逆に迎え討たれることになる。
徳川・織田勢は敗走を余儀なくされ、家康は九死に一生を得たことはよく知られる。

信玄が遠州へ出馬したのは、
「今度任于大坂并朝倉義景催促、到遠州出馬候」と記しているように(「万代亀四郎氏所蔵手鑑」)、
織田信長を倒すべく連盟を組んだ朝倉義景たちに請われたためだった。
それが表面的な理由だったにせよ、義景が噛んでいたことは間違いない。

それなのに信玄が三方ヶ原で戦っていた頃、義景は帰国してしまったらしい。
信玄が綴る「驚入候」は本音だろう。
そして、先に触れた「不可過御分別候」に続くのである(「伊能文書」)。

又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候、各労兵勿論候、雖然此節信長滅亡時刻出来候処、唯今寛容御備、労而無功候歟、不可過御分別

信玄としては歯がゆかっただろう。
なぜこのタイミングで帰国したのかと、驚きの一方苛立ちもあったに違いない。
いま動かずしていつ動く。
書状からは、信玄のため息が聞こえてきそうな気がする。

大河ドラマ「どうする家康」で描かれる信玄は、
戦国最強と謳われた武将にふさわしい人物像となっている。
家康の視点から見れば悪役的な演出なのだろうが、
だからこそ、スピンオフになってほしい武将かもしれない。

鉄が熱いかどうかを感じるのは個人差がある。
熱いと感じても、すぐ動く者もいれば慎重になる者もいる。
それは個人の性格と価値観によるし、
あえて「打たない」と判断する者もいる。

朝倉義景はどうだっただろうか。
領国に足利義昭が流れ着いたときも、上洛に向けて事を起こさなかった人物ではある。
義景なりの考えもあっただろう。
熟す「機」も、信長や信玄とは違っていたかもしれない。

義景が凡将だったと言うつもりはない。
もし三方ヶ原の数か月後に信玄が死去せず、
もう少し時間が与えられたならば、
義景は「機」を捉え、いまとは違う歴史を作り上げていただろうか。
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