大河ドラマ「どうする家康」で、阿部寛扮する武田信玄がこの世を去りました。
魅力的に描かれていたため、信玄を失ったのはとても痛い。
圧倒的強さで徳川家康を翻弄する信玄を目にすると、
激戦を繰り広げた上杉謙信に自ずと想いがいきます。
ドラマの中では名前は出ても、姿を見せることのない謙信。
もはや話題に出ることもありませんが、不気味な存在感を放っています。
信玄の宿敵は上杉謙信とよく言われます。
両者の一騎討ちの逸話はあまりにも有名で、川中島にはその銅像も建っています。
しのぎを削り、己の正義をもって干戈を交えた両者ですが、
臨終の際にあった信玄が嫡男勝頼に遺言として伝えたのは、
意外にも謙信を頼れというものでした。
(前略)勝頼弓箭の取やう、輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれバ、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合てより、頼とさへいへば、首尾違間敷候、信玄おとなげなく輝虎を頼と云事申さず候故、終に無事になる事なし、必勝謙信を執して頼むと申へく候、左様に申不苦謙信なり(後略)
『甲陽軍鑑』が伝える信玄の言葉です。
謙信と和を結べば、彼は「たけき武士」であるがゆえに、
若い勝頼に苦しい思いはさせぬし、頼りとすれば一貫して違えぬだろうと、全幅の信頼を寄せているのです。
そんな人物とわかっていながら、信玄はどうして謙信と手を結ばなかったのか?
大人げなかった、と信玄自ら述べています。
若気の至りと言っていいのか、謙信を頼りにするとは言えなかったので、和議を結ぶことができなかったということです。
男の世界というか、ハードボイルドな雰囲気さえ漂います。
敵とはいえども、一人の男として認めている。
息子に対し、いざとなったら宿敵である謙信を頼れとは、
その器がなければなかなか口にできないものでしょう。
ただ、『甲陽軍鑑』は二次史料であるため真相は定かではありません。
全くの創作かもしれず、
「こうあってほしい」という人々の願いがこめられている可能性も皆無ではない気がします。
さて、武田家の軍事力の前で、九死に一生を得たのは徳川家康です。
その家康は信玄の訃報を聞いたとき、
口から出たのはその死を惜しむものでした。
(前略)信玄ノ如キ名将アルヲ聞カス、惜哉、年齢五十有余ニシテ志ヲ果サス命ヲ落ス、傷マシヒカナ(後略)(『大三川志』より)
53歳で死去した信玄に対し、家康は75歳まで生きました。
編纂者の観点から見れば、信玄の死は道半ばもいいところでしょう。
『大三川志』も江戸時代の編纂物であるため、
家康が実際に信玄の死を惜しんだのかは不明と言わざるを得ません。
ただ、武田家の強さと知略を痛いほど知っていたのは確かでしょう。
ところで、今際の際にいた信玄から全幅の信頼を寄せられた謙信でしたが、
当の本人は訃報に触れたときどのような態度だったのでしょうか。
『古老物語』によれば、信玄の死を知ったとき、箸を投げ捨てたと伝わります。
そして、その死を惜しみ、悲しんだのだとか。
しかし、謙信も人の子。
戦国乱世に生きる武将の一人です。
6月26日付で上野国の長尾憲景へ送った書状には、
「信玄果候儀必然候」と伝えた上で、織田信長と今秋の計画(策略)について話し合う旨が述べられています(「赤見文書」)。
信玄の死を一つの機と捉えて軍事戦略を立てる謙信は、
戦国武将そのものです。
実際に武田家と上杉家が手を結ぶのは、謙信亡きあとの上杉景勝の時代のことでした。
しかし、天正10年(1582)に織田信長によって武田家は滅亡。
同じ年に信長自身も明智光秀の謀叛によって自害に追い込まれ、
信玄の待つ「黄泉の国」へと旅立つのでした。
魅力的に描かれていたため、信玄を失ったのはとても痛い。
圧倒的強さで徳川家康を翻弄する信玄を目にすると、
激戦を繰り広げた上杉謙信に自ずと想いがいきます。
ドラマの中では名前は出ても、姿を見せることのない謙信。
もはや話題に出ることもありませんが、不気味な存在感を放っています。
信玄の宿敵は上杉謙信とよく言われます。
両者の一騎討ちの逸話はあまりにも有名で、川中島にはその銅像も建っています。
しのぎを削り、己の正義をもって干戈を交えた両者ですが、
臨終の際にあった信玄が嫡男勝頼に遺言として伝えたのは、
意外にも謙信を頼れというものでした。
(前略)勝頼弓箭の取やう、輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれバ、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合てより、頼とさへいへば、首尾違間敷候、信玄おとなげなく輝虎を頼と云事申さず候故、終に無事になる事なし、必勝謙信を執して頼むと申へく候、左様に申不苦謙信なり(後略)
『甲陽軍鑑』が伝える信玄の言葉です。
謙信と和を結べば、彼は「たけき武士」であるがゆえに、
若い勝頼に苦しい思いはさせぬし、頼りとすれば一貫して違えぬだろうと、全幅の信頼を寄せているのです。
そんな人物とわかっていながら、信玄はどうして謙信と手を結ばなかったのか?
大人げなかった、と信玄自ら述べています。
若気の至りと言っていいのか、謙信を頼りにするとは言えなかったので、和議を結ぶことができなかったということです。
男の世界というか、ハードボイルドな雰囲気さえ漂います。
敵とはいえども、一人の男として認めている。
息子に対し、いざとなったら宿敵である謙信を頼れとは、
その器がなければなかなか口にできないものでしょう。
ただ、『甲陽軍鑑』は二次史料であるため真相は定かではありません。
全くの創作かもしれず、
「こうあってほしい」という人々の願いがこめられている可能性も皆無ではない気がします。
さて、武田家の軍事力の前で、九死に一生を得たのは徳川家康です。
その家康は信玄の訃報を聞いたとき、
口から出たのはその死を惜しむものでした。
(前略)信玄ノ如キ名将アルヲ聞カス、惜哉、年齢五十有余ニシテ志ヲ果サス命ヲ落ス、傷マシヒカナ(後略)(『大三川志』より)
53歳で死去した信玄に対し、家康は75歳まで生きました。
編纂者の観点から見れば、信玄の死は道半ばもいいところでしょう。
『大三川志』も江戸時代の編纂物であるため、
家康が実際に信玄の死を惜しんだのかは不明と言わざるを得ません。
ただ、武田家の強さと知略を痛いほど知っていたのは確かでしょう。
ところで、今際の際にいた信玄から全幅の信頼を寄せられた謙信でしたが、
当の本人は訃報に触れたときどのような態度だったのでしょうか。
『古老物語』によれば、信玄の死を知ったとき、箸を投げ捨てたと伝わります。
そして、その死を惜しみ、悲しんだのだとか。
しかし、謙信も人の子。
戦国乱世に生きる武将の一人です。
6月26日付で上野国の長尾憲景へ送った書状には、
「信玄果候儀必然候」と伝えた上で、織田信長と今秋の計画(策略)について話し合う旨が述べられています(「赤見文書」)。
信玄の死を一つの機と捉えて軍事戦略を立てる謙信は、
戦国武将そのものです。
実際に武田家と上杉家が手を結ぶのは、謙信亡きあとの上杉景勝の時代のことでした。
しかし、天正10年(1582)に織田信長によって武田家は滅亡。
同じ年に信長自身も明智光秀の謀叛によって自害に追い込まれ、
信玄の待つ「黄泉の国」へと旅立つのでした。
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