クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

昭和22年、渡良瀬遊水地の堤防が決壊した? ―決潰口跡―

2018年03月01日 | 近現代の歴史部屋
カスリーン台風による大雨で、
旧大利根町(現加須市)の利根川堤防が決壊したのは、
昭和22年9月16日午前0時40分頃のこと。

実は、その対岸側の地域でも決壊による大水を被っている。
いくつかあるが、その一つに群馬県板倉町。

決壊したのは利根川ではない。
渡良瀬遊水地の堤防だ。
同年9月15日午後11時30分頃、
群馬県板倉町で堤が切れ、大水が流れ込んだのだ。

しかも、その20分後にさほど離れていないところで決壊。
最初の切れ所の幅はおよそ80メートルだったが、
後者はその倍の165メートルだったという。

このときの大水も甚大な被害を出す。
流出や全壊した建物は多数あり、
広範囲の田畑が冠水する。
命を落とす人もいた。

切れ所近くの東武日光線も、線路が約1㎞にあたって流失。
多くの橋梁が流され、
へし曲がった線路が水没する写真を目にしたことがある。

板倉町にはいくつか貝塚がある。
まるで縄文海進の再来のような風景だったかもしれない。
が、被害にあった人たちにとってはそれどころではなかっただろう。

食糧や生活用品のほか、
先祖の位牌を持って水塚や母屋の二階に避難。
農業の労働力である馬や牛も一緒につれて、
しばらく避難生活を余儀なくされた。
中には堤防が決壊した翌日の明け方にお産した人もいたという。

低地に住む人たちは、およそ1ヶ月にわたって避難生活をしなければならなかった。
そのため親戚たちが舟に乗って水見舞に訪問。
飲み水や野菜、おにぎりなどを置いていったという。
飲み水の確保に苦労したほか、
一緒に避難した牛や馬への飼料の調達が難しかったのだとか。

こうして住民を苦しめた昭和22年の決壊跡地には、
ポツンと石碑が建っている。
正面に刻されているのは「決潰口跡」。

現在はのどかな景色が広がっているが、
当時はこの場所から大水が流れ込んだということだ。
カスリーン台風の襲来から70年以上もの歳月が流れている。
板倉町に建つ決潰口跡の碑は、
猛威をいまに伝えている。


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