クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

文化的な場における“上杉謙信”と“織田信長”の態度は?

2023年05月06日 | 戦国時代の部屋
永禄4年(1561)、長尾景虎(上杉謙信)は上杉憲政を報じて関東へ出陣し、
鶴岡八幡宮において関東管領職を譲渡された。
上杉の名跡を継ぎ、政虎と改名したのはよく知られている。

関東の地域的領主たちの多くは景虎に従属したが、
忠節によるものではなかった。
従属の態度を示しても、内心は苦々しく思っている者も少なくなかったようである。

新田次郎の『武田信玄 林の巻』では、その役を忍城主成田長泰(康)に負わせている。
鶴岡八幡宮での能の会における長泰の内心が描き出されており、次のように描写されている。

 (ばかばかしい、いったい、わかってああいうことをやっているのか)
 成田長康は思った。(能が)わかる筈がない、あんなばかげたことが、面白い筈がない。
 面白くもないのに感じ入ったような恰好をして見せるのは、いかにも、自分たちが、こういう、京都の遊びごとに鑑賞眼を持っていることを、関東の諸将に見せようとしているのだと思った。むしゃくしゃした。田舎者扱いされていると考えると悔しかった。
(新田次郎『武田信玄 林の巻』文春文庫)

小説では、長泰は能嫌いという設定となっているから余計である。
能を通して新管領と旧管領を苦々しく批判している。
新たな権力者への苛立ちである一方、教養人に対する批判とも読み取れるよう。

ただ、能を楽しんでいるように見えるのは、あくまでも長泰の視点であり、
政虎や憲政の内面には分け入っていない。
だから、二人は実際に能を楽しんでいる可能性もあるのだが、
小説に書いてある通りなら、教養人の滑稽さの「あるある」の一つに数えられようか。

能を楽しめる自分は教養があり、洗練されている。
換言すれば、無教養の田舎者にはわかるまい、という驕り。
二人の新旧管領に苛立つ成田長泰にも、自身の心にそのような感情があるからこそ、
余計に反応してしまうのだろう。

政虎からしてみれば、能を楽しむ自身の姿は、
新たな関東管領にふさわしい人物像の演出だったのかもしれない。
二度の上洛を果たし、関東の旧秩序の回復を目指して北条氏康や武田信玄と戦っていく。
その戦いの先頭に立ち、地域的領主をまとめ上げていく存在として、
どこか特殊性をアピールする意味で、能は政治的な装置として利用したと読み取ってもいいだろう。

ところで、足利義昭が室町幕府第15代将軍に就いたばかりの頃、
京で能が催されることになった。
自身を将軍職へ就かせるべく尽力した者たちへの慰労の意味をこめ、
義昭は能を見物させようとした。
観世大夫を招き、十三番の能を企画したところ、そこに待ったをかけた者がいた。
その者こそ信長だった。

 諸国干戈未止、騒動ノ時節ニ悠々タル御遊不可然、御祝ノ験ラ遂ラレハ、早々諸国ノ軍兵ニ御暇賜リ、帰国サセ休息サセシメ可然

と述べ、五番に縮めたという(「重編応仁記」)。
いまだ戦乱が収まったわけではないから、悠々と能に興じているわけにはいかない、
というのが信長の言い分だった。
が、能を退屈と感じる性分だったから、縮小させたかったのかもしれないし、
あるいはじっくり見物したいものの、
義昭と長く同席するのを避けて五番としたことも考えられよう。

足利義昭を報じて上洛し、将軍職に就けた信長だったが、
見ている世界は「幕府」ではなかったようである。
義昭から、副将軍か管領職の就任を打診されても、これを固辞した信長。
不気味に感じそうなものだが、義昭は信長に対し直筆の御内書を出し、「御父織田弾正忠殿」と書いている。

ちなみに、能の席では信長が小鼓の名人と聞いているから披露するよう、義昭は申し述べたという。
信長への親愛の情を示すとともに、距離感を縮めようとしたのかもしれないが、
どことなく空気が読めてない将軍の姿が浮かぶようである。

足利義昭は教養人であり、能の開催に他意はなかったのだろう。
平穏な時代ならば、文化人としていまとは別の形で歴史に名を刻んでいたかもしれない。
逆に、上杉謙信や織田信長は、平穏な時代にどのような足跡を残しただろうか。
琵琶を弾く謙信、小鼓を叩く信長の姿があったかもしれないが、
それは想像の域というものだろう
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