「捨てられる宗教」
(島田 裕巳/著 SBクリエイティブ p.244)
昨年10月新聞に書評が掲載されていましたので、図書館で借りてみました。
昭和の時代、仏教、神道、その他の宗教共に信者数を増やしてきた。その数が平成に入り急激に減少している。世界的な宗教離れである。(書評より)
目次
1章 終活さえもめんどうくさい 宗教が用済みになった社会
2章 なぜ宗教は捨てられたのか
3章 スケジュール化された終わりなき人生
4章 いまだ”死のある世界”で生きる人たち
5章 “死のない時代”の生き方・死に方
本書では長寿命化における死生観の変化をもとになぜ宗教が捨てられるのかひも解く。明治時代42歳であった平均寿命が、戦後50歳になり、令和に入り80歳を超えることになる。今や100歳を超える人もめずらしくない時代である。ここ数十年の間に寿命は倍になったのである。有史以来人類が初めて経験することである。
私たちが若かったころの先輩たちは現役を退いてしばらくして亡くなっていた。みなそのことを念頭に人生設計を行っていた。それが今では退職後の生活が今だかってない長さになり、先輩たちの生き方に倣うわけにはならなくなった。
昨年の四国遍路は例年に比べて2%となり、壊滅的状態と聞く。バスツァーによる団体参拝が軒並み中止になったことが大きな原因である。初詣も密集を避け暮れから分散参拝が呼びかけられたものの結果として参拝を控えた人が多かったようである。遍路や初詣は信仰心からだけとは限らない。しかし包括的な宗教離れの一端を窺い知る思いである。
昨年後半から葬儀も三密を避けるため家族葬、密葬、直葬など簡略化が瞬く間に広がった。もともと費用の高額化が懸念されていたこともあり、元の状態に戻ることはむずかしいのではないだろうか。それまでは世間体を気にしてある程度の費用を葬儀にかけることが強いられていたが、いまや葬儀に費用をかけなくとも、また都会では葬儀自体をなくしても周囲に気兼ねをすることはなくなった。田舎ではが主体になっていた葬儀の施行が葬儀業者に主体を移ようになり、隣近所の手を煩わせることが少なくなった。葬儀に続く四十九日、百箇日、一周忌 ・ ・ ・の法要も会食人数が抑制されているため参列人数を絞っているようだ。葬儀、法要の規模縮小は宗教意識の低下につながる。
江戸の昔、寺は子供たちの教育の場を兼ね、地域の集会の場所、また檀家制度による地域社会の要でもあった。しかし現代の寺はその役目はなくなり、一部の寺院を除き、もっぱら葬儀と法要のみの場所、葬式仏教と云われるまでになってしまった。寺はお布施のみでは維持できず、住職は他の仕事を兼務する事例が多くなっているようである。
仏教に限らず、他の宗教についてもその教えから学ぶことは多く奥深い。
教えを乞うて集い来る民を待つではなく、宗教者自らが教えを広め発信していかなければ、この著者のいう「捨てられる宗教」そのとおりになってしまうのではないかと感じた。