「はじめての人におくる般若心経」
(横田南嶺著 春秋社 2024/1/20 p.250)
著者横田南嶺老師は臨済宗円覚寺派管長であり京都花園大学の総長をも務められています。
この本は昨年花園大学において6回にわたり開催された公開講座「禅とこころ 般若心経に学ぶ」を書籍化したものです。
先月、図書館で検索すると入荷待ちとなっていましたので、すぐ予約していました。
老師は「般若心経を仏教学的に専門に理解しようとすると非常に難解なものである」と話されています。
少し長くなりますが、本書の中から引用しました。
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ずっと坐禅をして、そうして見えてくる世界は、皆が一つにつながり合った世界にほかなりません。区別はない、差別はないという世界です。「それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、宇宙の塵の果てまで」、全部ひとつながりにつながっている世界です。 これを空の世界と言いました。そこから見れば、私の小さな眼耳鼻舌身も、色声香味触も、そうした区別は存在しないのだと、そのような世界を説いていたのです。
この世界、宇宙が始まってから、幾重にも幾重にも重なり合い、「織りなす命の流れとして、その中に、今、私がいる」。すべては生きている、というよりも、そのような大きな命の中に、私たちは今、生かされているのだと。このようなものの見方ができたならば、現実の世界で多少落ち込んたり、困ったなというようなことがあっても、広い命の世界から見れば、小さなことではないかと思えてくるのではないかと思うのです。
人間の感動とは、「私」が何かを達成した喜び、それも生きる上においては大事だと思いますが、私たちが大事にする宗教的な感動というものは、この個別の身体を超えた大いなる命の世界に触れ合ったとき、目覚めたとき、そのなかに生かされていると気がついたときの喜びであり、感動であり、そこで初めて、そのなかに生きている、ありとあらゆるものに対する愛情というものがあふれてくるのでありましよう。
そのように見ることができたならば、何々をしなければいけない、これを達成しなければ意味がないというような見方ではなくして、お互いが生きているだけですばらしいのではないでしょうか。
「生きているだけではいけませんか」と。
そのようなものが、般若心経、空の世界です。ですから、分別して理解しようとしても、それだけでは分からない世界です。分からないことの素晴らしさ、分けられないことの尊さ、このようなことを心にとどめていていただけたらと思います。
(p.221 第6講 未明渾沌を歩む)
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