story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

その女(ひと)

2017年10月21日 21時46分51秒 | 小説
 
「わたし、百人切りしちゃった」
可愛い顔して、ふっと悪戯っぽく、そんなことをいうあなたに僕は正直、驚いた。
「切るって・・・なにを?」
「決まってるじゃない、昨日でちょうど百人になったってこと」
 
細長い煙草をふかし、大きな瞳で少し笑みを漏らしながら僕を見る。
僕がその頃から、仕事帰りに通いだした、髭のマスターのいるショットバーでだ。
 
あなたは偶然、カウンターの僕の隣に腰掛けて、そしてマスターと数回、言葉を交わしてから僕に声をかけてきた。
「なにが・・」
そう言いかけて、鈍感な僕にも分かったのだ。
「もしかして・・セックスの相手?」
「そりゃそうよ、決まってるじゃない」
「すごいなぁ・・」
僕にはそれ以上の返答をすることができない。
 
あなたから見た僕は、たぶん、鶏が猫にでもいきなり出会ったかのような表情をしていたのではないだろうか。
 
見た目はとても清楚な女性だ。
若い女性ではなく、年のころは三十代後半くらいだろうか。
全体に身体が小さく、けれど華やかな雰囲気に満ちている。
しっかりコーディネートされた青を基調としたファッションはよく似合っているし、化粧も華やかでありながら、濃すぎるという印象も受けず、上等過ぎない淡い香水の香りが彼女を引き立て、品の良いイヤリングがきれいな耳たぶにぶら下がる。
細長い煙草をお洒落に咥え、ゆっくりとうまそうに煙を僕にかからいように、自分の上のほうにむける。
灰皿に置いた吸い殻には朱色の口紅が残る。
 
「とてもそんな風には見えないけど」
やっとのことで僕がそう言うと、あなたは眼を大きく見開き、さらに悪戯っぽく言う。
「じゃ、一度、やってみます?とても上手ですよ‥わたし」
「いやいや・・」
「あ、勘違いしないでね、わたしは、自分が気に入った男性としかそういう関係にならないから・・」
「はぁ・・」
僕はこの可愛い女性に圧倒されてしまい、ただ、まじまじとあなたのほうを見るだけだ。
 
「アナタ、今夜はお暇ですか?」
「いや、その・・」
「ちょっとあなたのこと、気になったのよ」
 
僕にはあなたがまるで異星から来た宇宙人のように見えた。
こんなことをいう女性には会ったことがないし、どう対応していいか全くつかめない。
その時、店のマスターがカウンターの向こうから声をかけてくれた。
 
「ジュンちゃん、彼はいたって真面目な人だからね・・あまり驚かせたらだめだよ」
ジュンちゃんと呼ばれたあなたはクスっと上品な笑みを漏らし「この人、なんだか気になるのよ~~」なんて言う。
「ダメダメ、今夜はきちんと帰りなさい、旦那さんと息子さんの待つご自宅へね」
マスターがしかめっ面をしてあなたを見据える。
 
「え~~、つまんないの・・旦那といるの」
「だめだよ!!」
あなたは助けを求めるかのように僕を見る。
「ね・・アナタだって、今夜は遊びたいよね」
返答に困っているとマスターが僕に目配せをした。
「いや、今夜はちょっと帰って仕事の続きするから・・」
マスターが大きく頷く。
「つまんない、遊びたいのに・・」
 
演技とも、本当にそう言っているともとれるあなたに、僕は少し興味を持ち始めていた。
「ところで、ご家庭がおありなんですか?」
あなたはまた細長い煙草を咥えなおして僕のほうをじっと見つめる。
「ありますよ・・仕事のできるイケメン主人と、可愛い息子があります」
「では、そのご家庭の中でうまくいっておられないんですか?」
「いえ、とてもうまくいっている、傍から見れば羨ましいような家庭です」
「では、ご主人がソチラのほうがあまりよくないとか・・」
「ソチラ?・・ああ・セックスのこと?」
「はい」
「主人はとても上手ですよ。私が求めていることをいつもよく分かってくれる」
「はぁ・・そしたら・・」
「なんですか?」
「なんで百人切りとか・・・」
「だって・・いろんな人と楽しみたいじゃないですか、人生は一度きりだし」
「確かにそういわれれば・・」
「でしょ、だから今から行きましょうよ、ホテル代だけ出してくれたらいいから」
また悪戯っぽく、あなたは僕を見つめる。
 
けれど、その日、僕は一人で帰宅した。
僕にも家庭があり、今、妻や娘を裏切ることは出来っこない。
そしてそう決心したはずなのに、その夜にあなたに付いていかなかったことを後悔している自分があった。
あの、きれいな黒い服の下はどうなっているんだろうとか、上手というのはどういうことをいうのだろうかとか、想像したらきりがなく、僕はしばらく妄想に取りつかれることになってしまった。
 
数週間してようやく妄想も溶け、またあのマスターの店に行き、誰かと話をするわけでもなく、ぼうっと飲んでいた。
 
「お久しぶり!」
あなたは、そうすることが当然であるという風に、僕の隣に座って身体を寄せてきた。
「覚えてます?わたしのこと」
「はい、もちろん・・」
その時のあなたは、黒のミニワンピースに身を包んでいた。
やはりきちんと上品に、そして清楚にまとめられている。
「今夜はどうかしら?」
「う~ん、僕には家庭もあるし」
「恋人になるんじゃないの、そういうことするお友達がいてもいいって思いません?」
そう言いながら細長い煙草に火をつける。
「はぁ・・」
確かにそれも一理あるかもしれない・・そう言う想いをすぐ自分で打ち消した。
 
そこへマスターが声をかけてくれた。
「ジュンちゃん、うちのお客に手を出すの勘弁してよ」
「手を出してなんかいないわ、手を出すのは殿方のほう・・」
そう言いかけて、あなたはハッと口元を抑えた。
「手じゃなく出すのは・・あっちのほうね~」
これには僕も笑ってしまった。
笑ってしまったらそのまま、あなたのペースに巻き込まれそうだが、もう仕方がない。
それにその日の僕はかなり酔っていた。
会社の上司と呑んだ後、上司を駅へ送り、その足で呑みなおしに来たのだ。
 
それから小一時間、その店にいて、僕はあなたと連れ立って店を出た。
「あまり、君が入れ込むべき女じゃないからね」
店を出るとき、マスターがそう囁いてくれた。
 
「まぁ、いろんな出会いがあってね・・わたしはその出会いを肌に残したいだけなのかもね」
歩きながらあなたはそんなことを言った。
「こう見えても、相手の人の本性は見抜いているはずなの。アナタをみて、この人は大丈夫ってね」
「はぁ・・」
答えに窮しながら僕はあなたが、凭れかかるのを支えながら、夜の街を歩いた。
 
「わたしね、結構苦労してるのよ、親とは今も断絶だし・・だから余計に人の裏側も見えてしまうの」
「はぁ」
「出会うだけじゃいや、繫がりたいって心底思うの」
 
そうなのか、そうかもしれない・・と思いながら、僕は自分の思考を停めることにした。
 
二人で歩く道の先にラブホテルの明るいネオンが見える。
「わたし、上手なのよ、期待していいよ」
はしゃぐあなたの声が、進んではいけない道へ僕の背中を押す。
 

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