story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

野良娘

2024年04月19日 21時20分16秒 | 小説

その日、僕は仕事のタクシーで自宅マンションの近くまで来たので、休憩にするかと、そのままマンション駐車場にクルマを乗り入れた。
僕が自家用車用に借りているは駐車枠は、自分のクルマは会社にあるのでそこに営業車を停められるという訳だ。

自宅マンションの近くが大きな都市公園だ。
こうして表現すると、僕自身がかなり儲けの良い仕事をしているように思われるだろうが、マンションを購入したとき、僕は大阪でホテルの仕事をしていて、当時は確かにマンション購入資金のローンを返済してもやって行けるだけの収入はあった。

だが勤めていたホテルが倒産し、その後の僕自身の不甲斐なさから妻は娘を連れて出ていってしまった。
マンションのローン返済は待ってくれるわけもなく、やむなく近くのタクシー会社で働き始め、ようやく何とか落ち着いてきたのが最近という訳だ。
だが、タクシー会社の毎月の給料でローン返済をすると手元には半分少ししか残らない。

タクシーの仕事は「一当務」というやり方で、朝会社に出勤したら大体20時間後の翌未明に退社するというものだ。
仕事中に二度の食事をとる必要があるが、以上の理由で僕には外食する資金があまりなく、こうして自宅に帰って安いインスタント食品で済ますことが多々ある。

早々に食事を済ませ営業車に戻る。
駐車場を出て公園の脇を通ると手が上がった。
僕のタクシーに向かって手を挙げたのは公園の入り口で座り込んでいた女だ。

僕は本能的にクルマを停めた。
よっこらしょと立ち上がってくる女を見た途端、僕はクルマを停めたことを後悔した。
汚れた服装、擦れた髪の毛を無造作に後ろでまとめ、黒ずんだ表情で、けれど少し笑顔を見せ乍ら女は近づいてくる。
しかたなくドアを開ける。
「あのう、近いのですが往復お願いできますか」
女は意外に若い声でそう言う。
「いいですよ、どちらですか?」
「その先のスーパーまでなんです」
「待ち時間もメーターは回りますから料金は上がりますが」
「もちろん、分かっています。何なら先にお金を置いておきます」
服装や顔面、髪の汚れとは裏腹のはっきりした物言い、言葉尻もしっかりしていた。
「いえいえ、お代はすべて完了してからで結構ですよ」
彼女の気勢に威圧されたか、僕はそう返してしまっていた。

女が乗ってすぐに猛烈な匂いがしてきた。
糞尿の匂いだ。
まさか、粗相したのではとバックミラーで女性の様子を見たが普通に座っているだけだ。
匂いは強烈だ。
どんどん酷くなっている。
幸い目的地までは数分の距離でそこで女が降りて買い物をすることになっている。
ドアを開け、女がいったん降りる。
女の座っていたあたり、間違いなく猛烈な匂いが漂っている。
窓を開けて風を通すと匂いは収まってきた。
座席を確認しても特に液体の染み出た感じはない。

開けた窓から風を入れていると数分で女が戻ってきた。
手には買い物袋を一杯にしてぶら下げている。
「待たせてごめんなさい」
女は笑顔でそういうが、顔はやはり浅黒く、クルマに乗り込んだとたんにまた匂いが強烈に漂ってくる。
だが目がきれいでまっすぐに僕を見ている。

窓を開けたまま走り、都市公園のところに着いた。
「ここで宜しいのですか?」
「もう少し先なんです」
クルマを都市公園に沿って走らせる。
公園の少し先、古びたアパートが目に入った。
「ここです、ありがとう」
女はそう言い、千円札を二枚差し出す。
運賃メーターは1600円を差していた。
「お釣りは良いです」
「いえいえ、そういうわけには・・」
僕は固辞して半ば強引に女に釣りを握らせた。
「いろいろ大変そうですから」
要らぬことを言ってしまったか・・と思った。
「お優しいのですね、ありがとう」
女は軽く頭を下げクルマから離れてアパートの中へ入っていった。

それからしばらくはして道路の広いところでクルマを停め、ドアも全部開け放して車内に消臭剤を撒いた。
そのまましばらく風を通し、座席をもう一度チェックしてゆっくりクルマを走らせる。
「あのお客、何か月も風呂に入ってなく、着ているものの洗濯も出来てないという事なのか」
自然に独り言が出てくる。
クルマの匂いは取れたかもしれないが、僕の鼻腔にまだあの匂いが残っている気がする。

********

数日後、その日は公休で、日ごろの運動不足を少しは解消しようと都市公園に出てしばらく歩き回った。
平日の午後、公園にいる人は少ない。
しばらく歩くと、公園のベンチに座っている人を見つけた。
あの女だ。

ま、先方は覚えていないだろうとその前を通った。
「あ、この間の運転手さん!」
女が立ち上がった。
「あ・・これはこれは」
着ているものは先日と同じで薄汚れているし、何よりあの悪臭が漂う。
「あの時はありがとうございました!」
そう言って頭を下げる。
頭の上からも匂いが漂う気がする。
「いえいえ」
適当にあしらって、その場を離れようとしたはずだが自分でも不思議な動きにでた。
女の目がまっすぐできれいだったからかもしれない。
「あの・・お風呂に入られた方がいいですよ」
また余計なことを言ってしまった。
「お風呂ですか?」
「ええ、すごい匂いがしているの、ご自分で分かりませんか?」
「匂いですか?だからでしょうか、わたしの周りから人がいなくなるの」
「でしょうね・・あと着ておられるものの洗濯ですね」
かなりきつく言ってしまった。
女はしばらく自分の躰を見回していた。
「お風呂ないんです、あのアパート・・それに洗濯するにもこの服しかないし」
「お一人なのですか?」
「はい・・身寄りもないし、市がくれるお金だけで生活しています」
「風呂屋にくらい行けるでしょう」
僕がそう言い切ると女は哀しそうな表情になった。
どんな事情があるか知らないが、だったらと僕は口走ってしまった。
「うちに来ませんか、僕一人だし、風呂あるし、別れた相方が来ていた古い服がまだおいてあるし」
女は不思議なものを見るように僕を見た。
矢張り綺麗な目だ。
「気を使われなくて結構ですよ、今こうして出会って、そしてあなたが僕のクルマに一度でも乗って下さったから、少しさっぱりしてもらいたくて」
女は泣いているようだった。
僕は女の手を引いた。
驚いて僕を見る女。

そのまま、僕は女をマンションに連れて入った。
途中、近隣の住民に見られないかだけ気を配り、ここも幸い平日の午後、歩いている人はおらずホッとする。
だがずっと匂いもついてくる・・あたりまえだ。
女は片足が具自由なようで、ずっと足を引きずりながらついてくる。

自室に招き入れた。
自分の部屋の中に、あの強烈な匂いが漂う。

「取り敢えず全部脱いでシャワーを浴びてください、代わりの服を出しておきます」と女に告げて風呂場でシャワーの電源を入れる。
女が黙って服を脱いで風呂場に入っていった。
僕はゴミ袋を出してきて女の着ていたものすべてをそこに放り投げた。
匂いが自分いも張り付くように思える。
部屋の窓を全開し、エアコンをフルに動かし、消臭剤を撒く。

風呂場の脱衣所に出て言った妻が置いていった古い部屋着などをだした。
けれど下着類が見当たらない。
なんとかなるだろうと、あとは台所の椅子に座りこんで酒を煽る。
なかなか風呂場から女が出てこない。

気になって声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
女は摺りガラス越しに「匂いが取れない」という。
そして泣き出す。
「明けていいですか」
返事が来る前にドアを開け、女の方を見ないようにバスタブの栓をした。
そこへ湯を張る。
「お湯が入ったら自動で止まります、そしたらバスタブに浸かってください」
「シャワー浴びたら急に自分の身体が臭いのが気になって、こすってもこすっても匂いが取れないんです」
ふっと僕は女の方を見た。
痩せぎすの肋骨が浮き出た、女の裸体がそこにあった。
「ちょっと待ってね」
僕はそう言い、自分は下着一枚になって風呂場に入りなおす。
シャンプーをそのまま女の背中に吹き付け、タオルでこする。
面白いほど垢が落ちていく。
「前は自分でやってね」
といい、シャンプーとタオルを渡す。
女は泣きながら体をこする。
「こすり過ぎると肌に傷がつくよ」
「でも匂いが取れない」
「顔を洗って鼻の中や口の中もシャワーして・・」

結局、抱き合うようにして僕は女の体を洗った。
女の頭にもシャンプーを大量にぶっかけて何度もこすっては流すを繰り返す。
フケや垢や縮こまった髪の毛がたくさん出てくる。
やがて、最初は指が通らなかった髪の中をすっと指が通るようになった。
その間、女はずっと泣いている。

湯が溜まった。
「湯に暫く浸かっていてください」
僕はそう言うと、下着を着たまま、自分の身体にシャワーをかけた。
シャンプーの香りにさすがに悪臭も退散したのではないかと思ったが、今度は自分が臭く思えてくる。

濡れた下着を洗濯機に放り込んで僕は台所で酒を食らう。
暫くして女が出てきた。
別れた妻の古い部屋着を着ている。
「下着は後で買ってきますから」
そう言って台所に招く。
「ビール呑みますか?」
女は頷く。
ビールを飲んで少し気が楽になったのか、女の目から涙が消えていた。
「何か月ぶりのお風呂だったんですか?」
「半年以上・・・」
清潔になった女は、なかなかの美人ではないか。
「どうしてそのようなことに・・あ、嫌ならお話しされなくてもいいですよ」

しばし女は缶ビールを持ったまま宙を見ていた。
「わたし、無戸籍児なんです・・」
僕は返事ができず女の目を見る。
矢張り綺麗な目だ。

「母が昨年亡くなって、身寄りもないしどうすることも出来ず」
「それまで住んでいた家はどうされました?」
「家賃滞納で追い出されました」
「お母さんの貯金とかなかったのですか?」
「あるはずなんですが、銀行も郵便局もシャットアウトで」

結局、ネットカフェで生活していたがそれも資金が尽きて居られなくなり、ホームレスとなって彷徨っていたところを、知人に見つけられ、行政と掛け合って最低限の生活ができる環境にはおいてくれたのだという。

だが、無戸籍児だと勤めに出ることもできず、ごく最初は身体を売っていたと。
それも段々嫌になり、結局、自室にこもり、必要な時だけ食料の買い出しに出る生活になったとのこと。

アパートには風呂はなく、銭湯も近隣では数キロ先まで行かねばならず、結局、行政が暮れるわずかな金は、食料とそれを買い出しに出る時のタクシー代で消えるという。
それも食料の金額よりタクシー代の方がはるかに高額だ。

「右足はどうしたのですか?」
「これ、悪い男の人に追いかけられて必死に逃げた時に崖から落ちたんです」

そう言って女はスウェットの上から足をさする。
そして急に頬を紅潮させ、僕に向かって言う。
「今日は本当にありがとうございました。お礼をしなければならないのですが、私には何もないのです。せめてこの身体でお礼をするべきなのでしょうけれど・・」
一生懸命にそういう女に僕はちょっと本能が疼く。
「いいですよ、そんなつもりでお招きしたのではありませんし」
「いえ、必ずお礼をさせてください・・でも、少しだけ待ってください」
「そこまで気を遣わずとも・・」
「さっき身体を洗わせてもらって、なんて汚い身体なんだと・・」
女はそう言いながら首筋のところに手を当てながら言う。
「疥癬ですね、あちらこちらにできていましたが、これを治してから」
「生活はできるのですか?」
「はい、なんとか」
「清潔にできますか?」
「はい、気持ちを入れ替えます」
だが、行政が呉れるカネなんてたかが知れている。
「知り合ったのも何かのご縁でしょう」
僕はそう言って立ち上がり、タンスの中に入れていた自分の財布から幾ばくかの札を出して手渡した。
「こんなにお世話になったのに、これを戴く訳にはいきません」
女は拒絶した。
だが僕は無理に持たせてやった。
「着ておられた洋服はすべて捨てます。お送りするときにコンビニで下着類は買いましょう、でもそれ以外の衣服も必要ですし、銭湯にも行かねばならぬでしょう、疥癬を治す薬も必要でしょうし、そのためのひと月分の資金です」
女は泣き崩れた。

実は僕は、本当はここでこの女を抱いてしまいたかった。
下着を付けずスウェットだけで座る女はそれだけで十分な色気はあった。
さっきの公園での腐臭を放っていた同じ人物とは思えない

だがここは待つことにした。
いや、抱けなくてもいい、このままこの女が逃げてどこかへ行ってしまってもいい・・
もともと自分自身の気まぐれでしたことだ。

その日、僕は日が暮れてから女をアパートの近くまで自分のクルマで送っていった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、ひと月が過ぎても女から連絡はなかった。
もう、どこかへ消えていったんだろう・・・
そう思うことにした。
淡々と仕事をこなし、誰も話す相手のないマンションの一室で明け番や公休を過ごした。

ある日、あのことから二か月がたったころ、明け方に仕事から帰ってマンションに入ろうとすると声を掛けられた。
「あの・・わたしです・・あの時はありがとうございました」
振り向くと、質素だが清潔な身なりをしたあの女がマンションの玄関脇で待っていてくれたのだ。
「ああ・・もしかしてお昼間からここで?」
「はい、ぜひ、お礼がしたくて」
「ああ・・それはそれは・・」
僕は彼女を迎え、オートロックの玄関を開けてエレベータに乗り自室へ向かった。
僕の部屋に入って向き合うと女は深々と頭を下げた。
「改めて、お礼申し上げます、ありがとうございました」
「まぁ、儀礼は良いですから、お茶でも飲みましょう・・」
僕は湯を沸かし、台所の椅子に二人向き合って座る。
「疥癬は良くなったの?」
「はい」
そう返事して女は首筋を見せた。
綺麗なキメの細かい肌が輝いているように見える。
「それはよかった・・」

この人に一緒に住んでもらいたい・・・
一瞬、そんな気持ちが湧いてくるのを僕は抑えられない。
お茶もそこそこに僕は彼女を寝室へ案内した。

ふっと彼女を見た。
やはり綺麗な目だ。

 

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