story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

僕の閃光(フラッシュ)

2004年09月18日 18時44分00秒 | 小説
そのころ、僕、大野誠司は婚礼専門のカメラマンを生業としていた。
まだ、阪神淡路大震災の前の年で、世の中も今よりは活気があった時代だ。
それは、その年の秋のブライダルシーズンのことだった。
これは、僕の心の中に深く秘めていた物語だ。僕がこと細かく思い出すことはもう、ないだろうと思っていた。

(1)
その日も大阪城近くのホテルで、豪勢な結婚式、披露宴を二組撮影し終えた僕は、まだ生まれたばかりの赤子と妻の待つ神戸の自宅へ帰るところだった。
環状線を大阪駅で降り、そのまま5番線の快速電車に乗りかえらなければならない。
・・今日はすっかり遅くなってしまった・・
時計を見ると、あと数分で快速電車が出るところだった。これに乗らないとバスの最終に間に合わなくなる。僕は走った。
階段を駆け下りて、連絡通路を走り、神戸方面行きのホームに駆け上がる。
アルミのカメラバックが重く、中のカメラやレンズがごとごと音を立てる。
目的の電車はもうそこに停まっていて、僕はその電車の前方の車両目指し、ホームを走る。
発車のベルが鳴る。
焦って、近くのドアから電車の中に飛び込んだ。けれども、電車の入り口に躓き、転んで床に叩きつけられた。
片から下げているアルミバックが落ちて、開いてしまった。
中から今日の仕事に使ったカメラやレンズが転げ出る。ガッシャーン!いやな音がする。
僕自身も入り口の座席脇のポールに思い切り肩をぶつけてしまった。
電車はお構いなく発車する。
日曜日で電車は空いていた。車内放送が流れるている。膝と肩が痛い。
「大丈夫ですか?」
女性の声だ。
「あ・・はい、なんとか」
そう言って立ち上がり、痛む膝と肩を気にしながらも、僕は八百屋の店先のように広げられてしまったカメラやレンズ、フィルムを集め始めた。
「わあ・・可哀想!このカメラ」
女性が叫ぶ。見ると、彼女の手の中で僕の一眼レフカメラのペンタプリズムが大きくへこんでいる。
電車のポールにぶつかったのかもしれない。
「あ・・」言葉にならない声が出た。僕はその女性が招いてくれたドア横の三人掛けの座席に腰を下ろした。
レンズも2本、フィルターが割れてしまっていたけれど、このくらいは交換すれば大丈夫だろう・・でも、カメラをどうしよう?
僕は走り出した電車の中で壊れてしまったカメラを見つめた。

ファインダーを覗くと、光があるのが分かるだけでおよそ絵になっていない状態だった。
僕のカメラで仕事用として使えるものは2台しかなかった。
1台が壊れてしまったら、明日からの仕事をどうしようか・・僕が、そう思いをめぐらせていたとき、女性が言った。
「カメラマンをされているのですか?」
まだ二十歳そこそこだろうか、化粧気のない、整った顔立ちの彼女は僕のカメラを見ていた。
「そうなんです。婚礼専門なんですが・・」
「結婚式の!素敵ですね」
「はあ・・まあ、仕事ですから、やってみると結構いろいろあります・・」
そう言いながら、僕はそこで壊れたカメラのファインダーを外そうとした。
外れない。ファインダーさえ外れれば何とか、使えるかもしれない・・そう思ったがダメな様子だった。
「こうやって、カメラが壊れてしまうこともあるしね・・」やけになって、おどけて言うと、女性が笑った。
きれいな、純な笑顔だった。
電車は夜の街を疾走している。揺れて、モーターの音がうるさい。
「カメラ・・もうだめですか?修理できます?」
女性が心配そうに尋ねてくれる。
「いや・・修理は出来るでしょうけれど、明日の仕事で使うカメラを何とかしないと・・」
1台では仕事はできるが、メイン、サブという撮り分けが出来ない。明日は月曜日だが、あるタレントの大きな結婚披露宴がある。
僕はそのメインカメラマンを頼まれていた。カメラマンは一度受けた仕事を断ることは出来ない。
もし断ってしまうと、誰かがすぐに入ってくる。
・・ホテルのスタジオにお願いして予備のカメラを借りようか・・それなら明日一番に電話を入れないといけないし・・一瞬だがそんな思いが頭をよぎる。
そのときだ。「私のカメラではどうです?今ちょうど持っていますよ」
女性がびっくりするようなことを言ってくれた。
大き目の皮のバックから取り出したのは小型の一眼レフカメラだった。それも、僕のカメラと同じメーカーのものだ。
「これと、もう一つ、どちらでもいいですよ」
バックの底の方から出てきたのも同じ形のカメラだった。どちらも銀色の手入れの行き届いた輝きを放っている。
驚いた。彼女とは今、出会ったばかりだ。
「私、今日、建物を撮影していたのです。もちろん趣味ですけれど・・」そういって彼女は頬を少し赤らめた。

写真の仕事をしていると、絶体絶命のようなときに奇跡的なことが起こって助かることがある。僕たちの仲間はそれを写真の神様が助けてくれたと、言うのが常だった。
けれど、写真の神様に助けてもらうには、普段からカメラやレンズ、フィルム、暗室などを神聖なものとして、大切にしなければならない・・仲間達はそう言いあい、それを素直に受け入れて、機材を大切にすることはもちろん、レンズに変なものを見せない、暗室は綺麗に片づける・・そして時間は絶対に厳守する・・ことを実行していた。
今思えば他愛のないことかもしれないけれど、フィルムだけの時代、今のようにデジタルメディアのない時代のカメラマンは確かに写真を生み出す漆黒の闇に神に似た神聖なものを感じてはいた。
僕は、その神様が目の前に現れたのではないかと思ったものだ。

僕たちは、お互いの名刺を交換した。
僕の名刺は仕事で使うものだったけれど、彼女のそれは手作りの、可愛いものだった。
肩書きのない名刺には花の絵の横に「野村祥子」と書かれていた。

祥子は六甲道駅で降りていった。
彼女は降りるときに軽く手を振り、また顔を赤らめて電車が動き出すまでホームに立って、僕を見てくれた。
僕は不思議と心の中が熱くなるのを感じていた。もしかして・・いや、そんなことはない・・ただ少し、縁のある娘がいただけだ・・
そう思う。そう思うことにした。
祥子は写真学校の生徒で、来年には神戸のホテルの写真スタジオに就職が決まっていた。彼女は今、卒業制作で予定している戦前の建物の撮影をしに京都へ行って来たそうだ。
彼女から僕が借りたのは、あの時、最初に出してくれたカメラだった。もう一台にはまだフィルムが入っていたのだ。
彼女が降りて、電車が走り出してから、僕は一度バックにしまいこんだそのカメラを出してみた。
銀の小さな金属の塊が、祥子の代理のような気がしてきた。

須磨駅から最終バスに乗って、山手の団地に帰った。
明日の朝も早い。何時間か後には、またこの道を逆に向かわなければならない。それを思うと辛いものがあった。
自宅に帰ると、妻の京子が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい・・きょうね、美沙が始めて立ったのよ」
京子はそのことが嬉しくてたまらないというように、笑顔を絶やさない。
すでにベビーベッドに入って眠っている娘の寝顔は何にも変えられない・・心底そう思う。どうしてこんなに可愛いのだろう・・
京子もまた、家庭にあっても美しさを失わない。
そのときは僕は素直に今の幸せを実感していた。

翌日、僕は仕事で祥子のカメラを使った。
僕がいつも使っているカメラよりは小振りで、けれども軽く、いかにもしっかりした感触は、そのまま祥子の姿となって重なってくる。
会いたい・・そう思う。
新郎新婦を見ていると、これまでは自分と妻のことが思い起こされてきたものだが、今日は新婦が祥子の姿と重なる。
始めは戸惑って、その感覚を消そうとしたけれど、仕事を進めながらいつしか、その感情をそのまま飲み込んでいた。
その日、僕は巨大な宴会場を歩き回った。
いつもは撮影コストを厳しく押さえられ、僕もそれに従っていたのだけれど、今日は違った。
何か、いくらでも撮影が出来るような気になり、フィルムを次々に入れ替えていた。
祥子のカメラも、もう一台の僕のカメラと共に僕の身体になり、僕の目になっていった。
大きな仕事の終わったあと、僕は久々に味わう充実感に、フィルムを使いすぎたことをなじるホテル写真室チーフの声も気にならず、家路についた。
大阪駅で、なぜか自分が祥子の姿を探していることに気がついた。いる筈もない者を何故探すのか・・自分で自分が理解できない・・
月曜日、夕方の下り電車はとても混んでいた。

(2)
「私の作品を見ていただけますか?」
僕は、壊れたカメラの修理が終わって、祥子に借りていたカメラを返すために、彼女に三宮のショットバーに来てもらった。
メインストリートを見下ろすビルの最上階。
静かで肩肘の張らない店は僕のお気に入りだったけれど、ここ3年・・京子と結婚してからは一度も来たことがなかった。
この店は僕の京子と出会う前の恋人、奈緒子とよく来た店だった。
その店で、祥子にカメラと、お礼の手鏡を渡したときに、彼女はそう言ったのだ。
「いいですよ・・期待するなあ・・今日、持って来られてますか?」
「はい・・」
彼女はこの間と同じ、大き目の皮のバックから一冊のファイルを取り出して渡してくれた。
手作りの表紙のファイルに入っていたのは見事な建物を中心にしたイメージフォトばかりだった。
建物は種々で、百貨店、駅ビル、病院、ホテル、博物館、銀行、・・それらの全景と部分部分のアップが六つ切りにプリントされ、綺麗にまとめられていた。
「すごい・・」僕は感嘆の声をあげた。
「すごくはないですよ・・」彼女は少しはにかむ感じで、頬を赤らめた。
「いや・・これがすごくなかったら・・おかしい」
「でも・・誰も、良いといってくれません」
祥子は笑いながら、悪戯っぽく笑った。表情が純で、とても美しく、また可愛く思えた。
彼女はカクテルを2回おかわりし、ピザを食べ、スティックサラダを齧り、そして、彼女の写真への思いを語ってくれた。
僕はそれを聞きながら、ジン・トニックばかり、何杯も飲んでいた。
写真への思いは尽きない。僕は久しぶりに自分がこの世界に足を踏み入れた時のことを思い返していた。
そして、一生懸命に喋る祥子の表情になんとも言いがたい、魅力を感じ始めていた。

「ちょっと、撮らせてくれる?」
僕は修理が出来たばかりの自分のカメラを取り出した。フィルムは感度400だ。標準レンズの絞りを開いて、彼女の顔をファインダーから眺めてみた。
ファインダーの中の彼女は不思議そうな顔をして、バックの店の風景から浮き上がってこちらを見ている。
「え?撮ってくださるのですか?」
はにかんだ表情が可愛い。
僕はてっきり彼女がカメラを向けられるのを拒むのだと思ったけれど、祥子はすっかり、その気になって僕のほうを見ている。
目がきれいだ。
シャッターを押す。スローシャッター独特のゆったりとした音が満足感を呼び起こす。
何度かシャッターを切った後、僕たちは外に出た。
三宮の夜の賑わいをバックに、ストロボを使わずに、彼女を撮影してみたかった。
生き生きとした、美しい女性の姿があった。
手足も長く、モデルにしてもよいようなプロポーションの持ち主だ。たちまちフィルムを3本使ってしまった。100カット以上撮影してしまったのだ。
「ありがとうございます。こんなに撮っていただいて・・」
彼女は駅の近くで頭を下げた。
「もう、帰るの?」
「ええ、そろそろ・・」
「もう少し撮りたいんだ。時間が許せば付き合って欲しい・・」
僕は少し酔っていた。
「私・・きれいですか?」
「きれいだ。普通のではないよ。写せば写すほどきれいになる」
彼女は少し照れていた感じだった。
「今度はどんなイメージで撮影されるのですか?」
唐突な質問に僕はうろたえた。そして思いもよらぬ言葉が僕の口から出た。
「少し、女性としての色気・・ヌードとか・・」そこまで言って、慌てて付け加えた。
「脱ぐとかではなく、あくまでもイメージで・・だよ」
彼女は少し考えているようだった。
「じゃあ・・今日はもう時間が遅いので、次の機会にしましょう・・私も自分の艶を出すことを一度、やってみたかったのです」
僕は、すっかり酔ってしまったのだろうか?
何ということを口走ってしまったのだろう・・けれども、彼女は次回ということでOKしてくれた。
不思議な気持ちだった。その日は駅で別れた。
次は彼女のゼミが早く終わる日、大阪の彼女の学校近くで待ち合わせることにした。
僕は貸しスタジオの場所を考え、待ち合わせの場所を確認して、自宅へ帰った。
自宅では少し疲れた様子の京子が娘の美沙をあやしていた。
「今日は癇が強くて・・寝てくれないの・・」
僕は美沙を抱き上げ、「眠れないなら、パパが遊んであげよう」そう言って娘の重さを楽しんだ。
ここに何にも変えがたいものがある・・美沙は喜んで手足をバタバタさせ、奇声を発して、笑顔を振りまいてくれた。

(3)
翌週の火曜日、ラボが経営する貸しスタジオに、僕と祥子はいた。
さすがに彼女は少し緊張している様子だった。
僕は最初にこの間、彼女を撮影した写真を見せた。
「すごい・・きれいです。私・・こんなの始めて・・」
数十枚のキャビネ判の写真には、どれも夜の人工の光の中で、浮き上がり艶を出す彼女の表情が出ていた。
「僕が言ってた事が分かっただろう?」
「言ってたこと?」
「普通じゃない美しさだよ」
そう言いながら、祥子が写真を見ている間に、僕はスタジオのセッティングを始めた。
バックペーパーは白一色。
ライトはタングステン、ポジのためにストロボにも電源を入れる。
カメラは2台とも持ってきていた。
一台にはモノクロ、もう一台にはポジを入れている。フィルムはあわせて十数本は用意してあった。
余分な味付けは一切なし、彼女だけを「どれだけ撮影できるか・・レンタル時間は3時間だ。

「始めようか?」
「あの・・脱ぐのですよね・・」
ちょっと躊躇している様子だった。
「別に脱がなくても、充分良いものが撮れるから・・まずそのままで・・」
上着だけを脱いでもらって、彼女にバック紙の上に立ってもらった。ミニスカートが脚の長さを際立たせる。
シャッターを押す。ポーズは自然に彼女がつけてくれる。
「モデルはしたことがあるの?」
「いえ・・モデルはないけど、いつも自分で姿見で見てますから・・」
喋りながら次々にシャッターを押す。
タングステンとストロボを切り替える。フラッシュの閃光が心地よい。
「そろそろ、艶を出そうか?」
「・・はい・・」彼女は一瞬ためらったけれど、思い切ったようにブラウスのボタンを外した。
「カーテンの中で・・」僕は慌てて彼女をスタジオの隅の更衣スペースへ案内した。
「下着を外したら、10分ほど、そのままじっとしていてね・・」
「どうしてですか?」
「下着の線が出るから・・」僕はこれで今日は大成功だと思った。
その思いもすぐに打ち消した。
・・写真の出来で全てが決まる・・そう思い込もうとした。
カーテンの中の彼女は押し黙ってしまった。
僕はその間にライティングの切り替えをしていた。出来るだけベタ光線で、はっきりと色を出す。
モノクロも、これでいこう・・そう考えながら作業をした・・考えながらを意識しながら・・
「もういいよ・・」
祥子は裸にタオルを巻いてカーテンを開けて出てきた。
バック紙の上に立って貰った。脇に椅子を一つ、小道具で置いた。
カメラを向ける。
「じゃあ、お願いします」
僕がそう言うと、彼女はバスタオルを外して、バック紙の外に投げ捨てた。
見事な裸身があらわになった。
すらりとした長い手足、豊かな胸、きっちりとくびれた腰、驚くほど均整の取れた美しい姿がそこにあった。
僕はカメラを持ったまま、しばし見つめてしまった。
「恥ずかしいから・・早く撮ってください」
彼女が困ったように言う。頬が紅い。
「あまりにきれいで、撮影を忘れるところだった・・」
僕は心の動揺を隠し切れない。
シャッターを押していく。ファインダーの中の彼女はこの世のものと思えぬほど美しい。
シャッターの音、フラッシュの閃光、我を忘れ、時間を忘れ、僕は撮影を続けた。
「寒くなってきましたから・・」
祥子がふと、そう言う。
時計を見ると、あと20分ほどでスタジオのレンタル時間が終わる。
「ああ・・ありがとう・・たくさん撮れたよ・・」
「いいものもありましたか?」
「うん・・全部だね・・じゃあ、これを」
僕はバスタオルを彼女に手渡そうとした。
「いえ、こちらこそ・・」彼女がそう言う口を僕は塞いでしまった。
唇をあわせ、彼女の胸に手をやった。冷たく、軟らかい感触だった。

けれども、ここは貸しスタジオだ。
変な噂が流れると、もう貸してくれなくなる・・僕の頭には業界人としての自分だけがあった。
スタジオを出て、受付で金を払い、撮影したフィルムを現像依頼した。
「仕上がりの日には私もきますから・・」祥子が僕をちょっと睨んでいった。

町に出て軽く食事をとった。
彼女は少し気持ちがほぐれたのか、さっきまでよりずっと気楽な様子だった。
そして、そのまま電車の駅へ行こうとした僕たちは途中にあった、ラブホテルに入ってしまった。
何か進んではいけないものが、猛スピードで進み始めた気がした。
自分への罪の意識・・そんなものはどこかに飛んでしまっていたし、家族への想いと、祥子への想いが同居する自分の心の不条理さにも気がつかなくなっていた。
遅くなって帰った僕に、妻の京子は疲れた表情を見せた。
「一日だけ、美沙の面倒をあなたが見てくれないかしら・・」
彼女は僕に哀願するように言う。
「疲れたのか?」
「うん・・たまには映画でも見て、気分をリフレッシュさせたいの」
そう言う妻に返した僕の言葉は「僕には時間はないよ・・お母さんにでも頼めば」
静かになった。どうしたのかと、妻を見ると、彼女は目に涙をためて声を出さずに泣いていた。

(4)
僕と祥子の関係は冬まで続いた。
彼女の写真はその後1回だけ、撮影したけれど、その後はただ、会うだけの、会って、食事をして、抱き合う・・それだけのことになっていった。
祥子の魅力は会うごとに大きくなっていった。
彼女には僕に妻と生まれたばかりの娘があることは話していたけれど、それはお構いなしのようだった。
けれども抱き合う時以外の彼女は清楚で美しかった。
いかにも山の手のお嬢様という感じだった。
会う回数が重なるに連れ、祥子が強くなっていく気がしたものだ。
「今日は映画を見に行こうか」
「映画ですか?私、ハリウッドは好きじゃあないんです。なんだかアメリカの資本にお金を取られるような気がして・・」
「じゃあ・・どこへ行こう?」
「美術館で写真の特別展がありますから・・」
こんな具合だった。彼女はその性格において、見事に様々のものを併せ持っているように思えた。
清楚、上品、けれど、驚くほど積極的で、例え一人でも、行きたい方向へ歩いてしまう。
彼女の全てが魅力的に思えた。

12月になると、僕たちカメラマンは暇になってくる。
自宅に居ることが多くなるのがこの時期だった。
ある朝、妻の京子は僕に「ちょっと話があるの」と言う。
「なんだよ」
「あなた、この頃、少し冷たいの。疲れているのは分かるけれど、今のうちに美沙の面倒をちょっとでも見てくれないかな?」
僕は少し思うところもあった。
たしかに祥子が現れてからは、僕は娘にもあまり関心をもてないでいた。
「もし、私が倒れたら、お母さんを呼ぶのだって、簡単に行かないわ。美沙の・・オムツを替えるとか、ミルクを用意するとか、あなたが出来るようになっていないと、どうするの?」
京子は僕に詰め寄るように言う。
僕は少し苛立ちを覚えた。
「倒れるかもしれないほど、疲れているのかい?・・僕は、毎日仕事をしているんだよ」
京子の目が僕を見つめる。
「あなた・・この頃冷たいの。以前は疲れていても、私のほうは見てくれたわ」
「この頃って・・なんだよ。僕はずっと変わってはいないよ」
ちょっと間があいた。
京子の顔が怖い。
「変わったわ。私を求めなくなった」
「何を訳の分からないことを言ってるんだ。僕が帰りの遅い日が続いているだけじゃあないか」
「うそ・・あの、野村さんて娘から電話があるようになってからだわ」
「何を言う!それじゃ、僕がまるで彼女と変なことになっているみたいじゃないか」
そのとき、ベビーベッドの美沙が泣き出した。
京子は顔を覆ってしまい、そちらへ行こうとしない。僕はやむなく美沙を抱き上げた。オムツが濡れている。
「おい、おむつを替えてやれよ!」
「あなただって、その子の親じゃない!どうしてそんなに他人事に思えるの?どうして自分でもやってみようと思わないの?」
僕は美沙のおむつを替えようとした。
べとべとになってしまったおむつの中は強烈な臭いと大量の便だった。
なんとか悪戦苦闘して、紙おむつを取り替えた。
美沙はおむつを外すと泣き止んで、替える作業をしている間、無邪気に手足をばたつかせていた。
すまない気がした。
美沙に、京子に・・
京子は涙を流したまま、僕のすることを見ていた。
「上手じゃない。どこかで習ったの?」
「一番下の妹とは14歳違うからね。中学生のとき、彼女のおむつを替えていたのを思い出したよ」
京子が笑った。涙を乾かさないまま笑った。美沙も無邪気に喜んでいる。
美沙の顔を見ていると、中学生のとき、おむつを替えてやると喜んだ年の離れた妹、清美を思い出した。
彼女は今、高校生になっている。

それでも、僕は祥子と会い続けた。
年が明けても、変わらなかったし、自分への罪の思いもいつしか消えてしまっていた。

(5)
その頃は成人式は毎年1月15日で決まっていた。
ただ、その年は1月14日土曜、15日が日曜で成人式、16日振替休日で、僕はいつも仕事をさせてもらっているホテルに成人式の応援も頼まれ、婚礼スナップの仕事も普通にあり、地獄の3日間だった。
ただ、16日の夕方、スナップを済ませてから祥子と会えた。
少し飲むには早い時間だったけれど、京橋の居酒屋で彼女と飲んだ。
たいして量を飲んだわけではなかったけれど、3日の疲れが出たのか、僕はすぐに深い酔いに飲み込まれてしまった。
もう、歩けない・・居酒屋を出てふらふらする僕を祥子は近くのラブホテルへ誘導してくれた。
部屋にはいっても、寝ることしか出来ない。
それでも、僕たちは肌を寄せ合い、襲い来る眠気の中、快楽をむさぼっていた。
まだ部屋にはいって何時間も経たない頃、彼女がいきなり叫んだ。
「大変!」
「どうした?」
「明日は火曜日ですね!」
彼女はまだ僕に対して敬語を使っている。
・・それにしても、明日は・・日月の連休の後だから・・「火曜日だよ」
酔いは少し醒めたが眠い。
僕は意識の半分を夢の中におきながら、それでも彼女の胸をまさぐっていた。
「明日の授業で作品の提出だったわ!」
彼女は僕の手をふりほどいて立ち上がった。
「帰るの?」
「うん・・一緒に帰りましょう・・」
「明日、ここを出てからでいいんじゃないの?」
「間に合わないんです。今から帰って、準備しなくちゃ・・」
仕方なくホテルを出た。もう少し、あの胸を触っていたかったと思いながら、寒い外に出た。
まだ最終電車には間に合う。環状線に乗り、大阪駅から快速電車に乗り換えた。
ドア横の三人がけのシートに並んで座った。
「すみません・・慌てさせちゃって・・」
「別にいいよ。続きはまた今度・・嫁さんにも外泊するって言ってないしね」
そのとき、祥子が僕をじっと見詰めた。
電車が淀川を渡る。
「あの時と同じですね」
・・え?・・
「大野さんと出会った日ですよ」
彼女は僕から目をそらし、溜息をついた。
「もう、止めましょう・・奥さんが可哀想です」
意外な言葉が急に出てきた。
「どうして?」
「もう、終わりです。お遊びはここまでですよ」
祥子の表情には笑みさえ浮かんでいた。僕はどう答えて良いか分からず、反対側の窓の外を見ていた。
祥子は身体を寄せてきた。
「最後ですからね・・」

自宅に帰ると、妻の京子が心配そうに待っていてくれた。
「この3日間、大変だったでしょう・・今日はゆっくり休んでね」
食卓にはいくつかの食べ物が並んでいて、娘の美沙はもう、眠っている様子だった。
僕は京子の手をとった。
「どうしたの?」
僕の胸の鼓動が大きくなってきた。
「今夜は君を抱く」・・そのまま布団に倒れこんだ。
いくらも眠らないうちに、体が大きく揺れた。揺れはどんどん大きくなった。
部屋の中のものが倒れる。僕は娘のベッドに覆いかぶさった。京子がしがみついてくる。
真っ暗な中で、数十秒だろうか・・物が倒れ、壊れ、軋む音が続き、そして、静かになった。
「地震か?」
「あれが・・地震なの?」
「まさか爆弾じゃないだろう・・」
娘は地震には気がつかずに眠っていたようだった。揺れが収まってから異常な雰囲気を察したのか火がついたように泣き出した。
とにかくじっとしているしかない。時々悲鳴のようなものが聞こえる。懐中電灯はどこにあっただろうか?

阪神淡路大震災では僕の住む地域は不思議に被害は少なかった。
部屋の中こそ、無茶苦茶になったが、3人とも怪我もせず、それ以降も僕の仕事が大変になっただけで、大きな影響も受けなかったのは奇跡ではなかったのだろうか。
けれども、その日以後、祥子との連絡は取れなくなっていた。
テレビの死亡者の名簿に彼女や彼女の家族の名前はなく、携帯電話などという便利なものもまだ普及しておらず、僕の心には未練が残ったまま、祥子は僕の前から姿を消してしまった。

(6)
自宅の電話を僕がとった。
震災から10年、僕はあの後のバタバタとした動きで一時的に写真の仕事が増えたものの、結局この仕事を諦めて、今は福祉センターの介護士をしている。
電話の相手は懐かしい声だった。
「大野さんですか?私です。わかります?」
すぐに分かった。震災以後、ずっと会いたい一番の人だった。
「ああ・・もちろんだ。元気にしているのかな?」
「はい。元気ですよ。今日はお願いがあって・・」
「なんだい?ほかならぬ祥子さんの頼みだ。なんでもどうぞ!」
明るく、普通に話が出来る自分が不思議だった。
「私、結婚するのです。その結婚式の写真を撮って欲しいのですよ」
「それはよかったね。おめでとう・・でも、もう僕はカメラマンじゃないんだ」
「知っていますよ。ホテルのスタジオに聞きました。でも、私を最高に撮影できる人は大野さんだけなんです」
不思議な、もっと不思議な気持ちだった。
けれども、彼女は案外、ドライに捉えているかも知れない。
ただ単に、自分の一番気に入ったカメラマンが僕だと言うだけなのかもしれない。
僕は快諾した。
彼女は今も写真の仕事をしているそうだ。
ただ、カメラマンではなく、プロラボの技術職について写真館の撮影した写真をプリントしているそうだ。
明日、いよいよ祥子の結婚式だ。
楽しみにしている。
祥子を射止めた幸運な男性はどんな奴だろうか?
僕は時々瞼に浮かぶ彼女の裸身を思いながら、最高の仕事をしてやる気力に溢れていた。










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