言の葉綴り 144日本詩人選
12源実朝(事実)の思想その4
吉本隆明著
日本詩人選 12 源実朝
著者 吉本隆明
昭和四十六年八月二十八日発行
発行所 株式会社筑摩書房より抜粋
X I 〈事実〉の思想 その4
承前
これが、ようやく壮年期に入ろうとするものの心の動きかたとはうけとりにくいが、あらゆることを〈事実〉としてうけとり、それにたいしては抗ってもならないし、諦めても捨ててもならないという境涯にあまりにながく馴染みすぎたのである。これ以外の心の動きかたをしても、行為にでても、すべて危険な死であることは、兄の頼家や宿老たちの末路をみれば、はっきりとわかっていたはずである。はじめは実朝にとって、歌はじぶんに固有な時間であり、その意味で慰安であったにちがいない。しかし、あとでは、ただ〈心〉としても〈制度〉としても、実朝自身のおかれた状態の不可避的な象徴となるほかなかった。もちろん幕府の祭祀の長者としてもしだいに怠惰になっていった。
心の心をよめる
神といい仏といふも世の中の
人のこころのほかのものかは
無常を
うつゝとも夢ともしらぬ世にしあれば 有りとてありと頼べき身か
人心不常といふ事を
とにかくにあな定めなき世の中や
喜ふものあればわぶるものあり
道のほとりに幼きわらはの母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋しかば、父母なる身まかりしとこたへ侍りしを聞て
いとほしやみるに涙もとどまらず
親もなき子の母をたづぬる
慈悲の心を
物いはぬ四方のけだものすらだにも
哀れなるかな親の子を思ふ
大乗作中道観歌
世中は鏡にうつる影にあれや
あるにもあらずなきにもあらず
得功徳歌
大日の種子よりいでてさまや形
さまやぎやう又尊形となる
歳暮
乳房吸ふまだいとけなきみどり子の
共に泣きぬる年の暮れかな
老人憐歳暮
うちわすれはかなくてのみ過し来ぬ
哀と思へ身につもる年
歌が晩年に詠まれたものと、べつに主張しようとはおもわない。この種の歌はなかなか類形がみつけられない。また叙景歌でもなければ、叙情歌でもない。そうかといって物語の語りが附着した叙事歌でもない。〈事実を叙するの歌〉とでもいうよりほかないものである。このばあい〈事実〉というのは、現実にある事柄とか、現実に行われている事とかいう意味ではない。〈物〉に心を寄せることもしないし、〈物〉から心をひきはなすこともしないで〈物〉と〈心〉がちょうどそのまま出遇っているような位相を意味している。
「心の心をよめる」という題辞は、ある意味では心の奥にあるものをうち明けてみれば、ということになる。「神といひ仏といふも世の中の人のこころのほかのよのものかは」とおもいだした実朝が、武門たちのように一族の祭祀や仏事をまともに心から実行したはずがない。また、「人心不常といふ事」は、実朝にとって畠山氏や和田氏の一族の最後を生々しくおもいおこすことなしに詠みえなかったろう。どういうわけか、実朝は、老人や幼児や捨て子たちの境涯に、とでも壮年のこころとはおもえないような関心のしめし方をしている。老人は畠山氏や和田氏であり、幼児はじぶんを育てた乳母であり、捨て子はじぶん自身のことであったかもしれない。
この中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代数すくない人物の心を訪れているのは、まるで支えのない奈落のうえに、一枚の布をおいて座っているような境涯への覚醒であったが、すでに不安というようなものは、追い越してしまっている。
鶴ヶ岡八幡宮の別当になっていた頼朝の子公暁が、その宮寺に参籠したまま退出せず、除髪の儀もおこなわず、白河左衛門尉義典を伊勢神宮に奉幣のため派遣し、そのほかの諸社にも使いを立てて、なにごとか祈祷に入ったのは建保六年十二月五日であり、この知らせはすぐに営中にとどけられ、人々はこれを怪しんだ。北条義時が夢告によって建てた堂寺に、薬師如来像を安置する供養を行なったのはその三日前である。またこの日は実朝が右大臣に任じられた日であった。
たぶん、実朝には、翌年正月二十七日の右大臣就任の拝賀の日をまたなくとも、この日にすべてがわかったかもしれない。
承久元年一月廿七日、鶴ヶ岡八幡宮拝賀に出かけるまえ、鬢の毛一筋を抜いて記念のためとて公氏におくって歌をよんだ。
出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
南門を出るとき霊鳩がしきりに鳴き囀り、車から下りるとき雄劔をついて折ってしまった。(『吾妻鏡』より)
実朝の辞世の歌として『吾妻鏡』や『北条九代記』が記載している歌は、『新古今集』の春歌上の部にある式子内親王「ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれをわするな」を換骨して、『吾妻鏡』の編著者が挿入したものとおもわれる。
日本古典文学体系29