言の葉綴り

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心的現象論•本論③ 身体論8 性器

2024-03-16 10:14:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り156心的現象論•本論③

身体論8  性器


心的現象論•本論 吉本隆明著 

2022年1月31日 初版一刷発行

発行所 (株)文化化学高等研究院出版部より抜粋


人間はどうやら高級哺乳動物にくらべてさえ、奇怪ともいえる時期をいくつか迎える。その最初の最大のものが、アドレッセンスの初葉からはじまるとかんかえられる。他の高級哺乳動物では肉体的な、またそれに対応する発育のすべてが完了する丁度そのときに、激しい最後の成長をむかえる。このとき〈年令〉はその〈空間〉的な尺度の目盛を拡大させて、社会的な存在のすべてに関係づけられるとともに、ひとつの特異な(あるいは奇妙な)〈空間〉を創設する。そして、この〈空間〉はじぶん以外の他のひとりの個体に働きかけるとともに、対手をおなじように働きかけさせる〈空間〉である。この特異な〈空間〉の創設に関与する(身体)の器官は、おもに〈性器〉である。

ところでこの時期になると〈性器〉には、かんがえられるほとんどすべての〈観念〉の働きが集中しうるようになる。なぜならば他の高級哺乳動物や、高級哺乳動物としての人間の〈身体〉は、この時期においてきぼりにされるからである。

ふつう正常と呼ばれている〈性器〉的な接触は、残念なことに〈性器〉に集中する〈観念〉の可能性としては、わずかにこの一例であるという意味しか与えられない。なぜならば、この時期に〈性器〉に集中する〈観念〉は動物生理をおいてきぼりにすることによって、あらゆる恣意性の前にたたされているからである。そこで人間は肉体の成熟に向かう丁度そのときに、〈性器〉に集中する観念としては、あらゆる恣意性の前に立っていることになる。そのために、〈性〉についての人間の観念の働きが〈倒錯〉しえないとしたらかえって不可解であるし、人間的であるとは〈性〉に関するかぎりでは〈倒錯〉しうる観念をもつことであるといってよいくらいである。

そこで逆説が成立する。

幼少年期と老年期とは〈性器〉として倒錯しうることによって、はじめて〈性〉の観念としても倒錯しうる時期であり、若壮年期とは〈性器〉に集中する観念として恣意的に倒錯しうることによって、〈性器〉としても恣意的な可能性をもつ時期であるというように。

このことは当然わたしたちに、青壮年期とは〈性器〉的にはじぶんと他の個体が関与する〈空間〉の創設に特徴があるにもかかわらず、〈性器〉に集中する観念としては、個体と他のひとつの個体とのあらゆる観念的な関係の〈空間〉を創設するところに特徴があるという考え方にみちびかれる。

これは、類型的にはふたつにわけることができる。

ひとつは対象とする〈性器〉にたいする観念的な倒錯であり、もうひとつは対象とする〈性器〉に到達できない観念的な倒錯である。そしてこれらの倒錯は、万華鏡のような多様な形態をとりうるはずである。フェティシズム、糞尿愛好、盗聴癖、覗見—露出狂、サド=マゾヒズム、同性愛等々といった多くの倒錯の例が挙げられているが、これらの個々についてとりあげることには、それほどの意義があるわけではない。また、あたらしくつけくわえようとすれば、いくらでもつけくわえることができるはずである。ただ、対象とする他の個体が〈性〉〈性器〉的にいってまったく恣意的に観念によって潤色しうるという問題があるにすぎない。

なぜ観念的な〈性〉の倒錯は起こりうるのだろうか。もっとも主要な回答のひとつは〈性〉についての観念、いいかえればひとつの個体が他のひとつの個体と関係するという〈空間〉が、アドレッセンスの初葉にはじめておとずれる認知であるため、不慣れ、不安、恐れ、過剰または過小の期望だからである。その方法を、かれは暗示とか書物とか見聞によってしか与えられない。だが、こういう種類の暗示や知識は、いずれにせよ個体的にかあるいは共同的にしか与えられないが、〈性〉の世界は個体が他のひとつの個体と創設する〈空間〉であるため、見聞や知識はほんとうは不安も、過剰あるいは過小な期待も充すことはない。ただ体験がはじめてわからせてくれる部分をかならず含んでいる。

この〈性〉的な〈空間〉、いいかえれば個体が他のひとつの個体と直接的に〈性器〉的に関係したときだけ覗かせる世界の〈空間〉が、人間にとって恐れや不安やうまくぴたりとしない期望であるとき、この偏差や的の狂いはどこへ行くのだろうか。

ひとつは安堵圏としての自己の〈性器〉にたいする自己接触や、家族の圏内と同等に馴染みのある〈空間〉ににゆきつく。自己愛(ナルチシズム)、その変成としての手淫、(転生想像)等々がここに入る。

個体が個体であるときと、直接に〈性器〉的な関係に入ったときとの個体とのあいだの観念的な〈空間〉の差異は、〈衣装〉や〈装飾具〉によって誇張される。とくに女性によって。しかも女性の〈衣装〉や〈装飾具〉が異性との接触期望によるかどうかは疑わしい。むしろ男性以上に〈性〉的な〈空間〉にたいする危惧や恐れは大きいにちがいないという器官的な根拠をもっている。そうだとすれば、〈衣装〉や〈装飾具〉をつけた女性は、女性にとって自己である別の異性という意味を充分もっている。そこで他の個体である男性にとって誤差はますます拡大されることなる。フェティシズムが男性にとって女性のきらびやかな〈装飾〉から〈性器〉をつつむ下着にまでわたる多様性があるのとおなじように、女性にとって自己がつける〈衣装〉や〈装飾具〉はそのまま自己にとってフェティシズムであるといってよい。

〈同性愛〉が成立するためにつぎのような事実が必須の条件であるようにおもわれる。男性同士の〈同性愛〉では、けっして異性にいきつかない〈性〉の観念をもつものの側からの〈強姦〉や〈強要〉がそれであり、女性同士の〈同性愛〉は、けっして異性を受けいれないものの側からする〈強姦〉や〈強要〉がその条件である。いいかえれば男性のばあいはマゾイストの側から、女性のばあいはサディストの側からの無理心中が必要である。そして、〈フェティシズム〉と〈同性愛〉は、、〈性〉の本質的な世界を、ひとつの個体と他のひとつの個体のあいだの〈性器〉による直接関係の〈空間〉とみなすかぎり、〈倒錯〉の典型的な形態を表象しているといっていい。ところで、問題はこのような〈性〉的な〈空間〉の創設が、観念的な生命活動の活発になる時期と一致し、しかもこの観念的な激発が、高級哺乳動物とくらべて人間に固有なものであるというところにあらわれる。いいかえれば、人間に固有な生命活動が活発であればあるほど〈死〉にむかって急ぐことになるという逆説を避けえない時にあたっている。

フロイトは晩年の著作で述べている。


そうしますと、我々がその存在を信じています諸本能は二群に分れ、常により多く生きている実質を集めてより大きい単位にしょうとするエロス的諸本能と、この傾向に抗して生きているものを無機的状態に還元する本能とになります。両本能の協力作用と反対作用とから、死を終末とする生命現象は生ずるのです。


(「続精神分析入門」古澤平作訳)


もし生命の目標が達成されたことのない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かって棄て去った状態であり、しかも発達のあらゆる迂路を経てそれに復帰しょうと努めるふるい出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るいう仮説がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるDas Ziel Alles Leben ist der Tod. としか言えない。また、ひるがえってみれば、無生物は生物以前に存在したLeblose war froher den als des debende. としか言えないのである。

(「自我論」井村恒郎訳)


「エロス的諸本能」という概念をそのまま大ざっぱにつかうとして、この本能に従うほど、自然過程のしての「死」は自然化されるというほどの意味がここには見出される。だが「死の本能」といえどもみずからの「死」を確認できないことは先験的であり、そこからは本能的な不安がつきまとってくる。

フロイトのまぎらわしい言葉を捨てるとすればエロスの〈空間〉、いいかえれば個体と他のひとつの個体との関係によって創設される〈空間〉が、

あらゆる混乱と倒錯の可能性によって拡大される丁度そのとき〈死〉の〈空間〉もまた拡大されることはたしかである。そしてこの場合〈死〉の〈空間〉とは、自己が自己を他の個体とみなして〈無化〉させようとする〈空間〉からはじまって、共同観念によって個体の観念がまったく侵食された〈空間〉までの多様性をさしている。エロスの〈空間〉の拡大の時期が、〈死〉の〈空間〉の拡大の時期と同致することは、必然とはいえないまでも、とうてい偶然の一致として排除しえない根拠をもっている。それは〈エロス〉の〈空間〉の特殊固定の時期、つまり老年が〈死〉にむかって縮小する〈空間〉への刻みつけるような〈ケチ〉の時期と一致するのが偶然とはかんがえられないのとおなじである。

フロイトのいう生命の目標は〈死〉であるという考え方は、多くの現代のペシミストたちを惹きつけているが、わたしたちはこれにたいして、〈死〉とか〈自己破壊〉とかいう概念が、いずれも現実的には自己確認しえない本質をもっていることを強調すれば足りる。



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