言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈事実〉の思想 源実朝

2016-06-25 19:04:59 | 言の葉綴り
言の葉10 〈事実〉の思想 源実朝

〈事実〉の思想

日本詩人選 12 源実朝
吉本隆明著 (株)筑摩書房 昭和46年
XI 〈事実〉の思想 より抜粋

……実朝が位階の昇進をもとめ、律令王権のクモの糸にみずからもとめてからめとられていったとき、じつは鎌倉幕府が創成期からもっていた限界が当然ゆきつくはずのものを〈象徴〉していた。頼朝には律令王権を打ち倒してしまうという発想はすこしもなかった。ただ武門の権力を、まったくちがった位相でうちたてたかったのである。そしてある程度それは実現したといってもよい。実朝がつぎつぎに武門のうち信頼すべき勢力を失い、渡宋によって一切から逃れようとする(あるいはそれは宋朝からの威信をとりつけようとする)企ても座礁したうえは、単独で律令王権の位階制のかげにかくれるよりほかにどんな方法ものこされていなかったとみてよい。この実朝晩年の意図は、文字通り並びたっていた勢力をつぎつぎに滅亡させて、武門勢力を掌中にして、武門政権樹立への自信を深くしつつあった北条氏の意図とはかけはなれてゆくばかりであった。
実朝は建保六年(1218年)二月十四日、最後の二所詣でに進発している。

箱根の山をうち出て見れば
波のよる小島あり。供のも
のに此うらの名はしるやと
たづねしかば伊豆のうみと
なん申すと答侍りしをきき

箱根路を我が越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波のよるみゆ

あら磯に浪のよるをみてよ
める
大海の磯もとゞろによする波
われてくだけて裂けて散るかも

又のとしに二所へまゐりた
りし時箱根のみづ海を見て
よみ侍る歌
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや
二山にかけて何かたゆたふ

同詣下向後、朝にさぶらひ
ども見えざりしかばよめる
旅をゆきし跡の宿守をれをれに
わたくしあれや今朝はいまだ来ぬ

走湯山参詣の時
わたつ海のなかに向ひて出づる湯の
伊豆のお山とむべもいひけり

いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、私には途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも〈心〉を叙する心もない。ただ眼前の風景を〈事実〉としてうけとり、そこにそういう光景があり、また、由緒があり、感懐があるから、それを〈事実〉として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。ことに二所詣の下向後に近習や警備の武士たちのすがたがみえないのを「をれをれにわたくしあれや」とかんがえる心の動き方は、瞋っているのでもなく、もとめているのでもなく、どこかに〈どうでもよい〉という意識があるものとよみとることができる。こういう〈心〉を首長がもちうることを推察するには、武門たちの〈心〉のうごきはあまりに単純であった。
たぶんこれが実朝のいたりついたじっさいの精神状態である。また、ある意味では鎌倉幕府の〈制度〉的な帰結でもあった。源氏三代の将軍職は、実朝まできて、そこに〈将軍職〉があるから将軍がいるのであって、必要だからいるのでもなく、また不必要にもかかわらずいるのではなく、ただ〈事実〉としてそこにいるのだ、ということになってしまったともいえる。
これが、ようやく壮年期に入ろうとするものの心の動きかたとはうけとりにくいが、あらゆることを〈事実〉としてうけとり、それにたいして抗ってもならないし、打ちこんでもならないし、諦めても捨ててもならないという境遇にあまりにながく馴染みすぎたのである。これ以外の心の動きかたをしても、行為にでても、すべて危険な死であることは、兄の頼家や宿老たちの末路をみれば、はっきりとわかっていたはずである。はじめは実朝にとって、歌はじぶんに固有な時間であり、その意味で慰安であったにちがいない。しかし、あとでは、ただ、〈心〉としても〈制度〉としても、実朝自身のおかれた状態の不可避的な象徴となるほかはなかった。もちろん 幕府の祭紀の長者としてもしだいに怠惰になっていった。

心の心をよめる
神といひ仏といふも世の中の
人のこころのほかのものかは

無常を
うつゝとも夢ともしらぬ世に
しあれば有りとてありと頼むべき
身か

人心不常といふ事を
とにかくにあな定めなき世の中や
喜ふものあればわぶるものあり

道のほとりに幼きわらはの
母を尋ねていたく泣くを、
そのあたりの人に尋ねしか
ば、父母なる身まかりしと
こたえ侍りしを聞きて
いとほしや見るに涙もとどまらず
親もなき子の母をたづぬる

慈悲の心を
物いはぬ四方のけだものすらだに
も哀れなるかな親の子を思ふ
……………
………………

歳暮
乳房吸ふまだいとけなきみどり子
の供に泣きぬる年の暮かな

老人憐歳暮
うちわすれはかなくてのみ過ごし
来ぬ哀れと思へ身につもる年

歌が晩年に詠まれたものと、べつに主張しようとはおもわない。この種の歌はなかなか類形がみつけられない。また叙景歌でもなければ叙情歌でもない。そうかといって物語の語りが附着した叙事歌でもない。〈事実を叙するの歌〉とでもいうよりほかないものである。このばあい〈事実〉というのは、現実にある事柄とか、現実に行われている事とかいう意味ではない。〈物〉に心を寄せることもしないし、〈物〉から心をひきはなすこともしないで、〈物〉と〈心〉とがちょうどそのまま出遇っているような位相を意味している。
「心の心をよめる」という題辞は、ある意味では心の奥にあるものをうち明けてみれば、ということになる。「神といひ仏といふも世の中の人のこころのほかのものかは」とおもいだした実朝が、武門たちののように一族の祭紀や仏事をまともに心から実行したはずがない。また、「人心不常といふ事」は、実朝にとって畠山氏や和田氏の一族の最後を生々しくおもいおこすことなしに詠みえなかったろう。どういうわけか、実朝は、老人や幼児や捨て子たちの境涯に、とても壮年のこころとはおもえないような関心のしめし方をしている。老人は畠山氏や和田氏であり、幼児はじぶんを育てた乳母であり、捨て子はじぶん自身のことであったかもしれない。
この中世期最大の詩人のひとりであり、学問と学識とで当代に数すくない人物の心を訪れているのは、まるで支えのない奈落のうえに、一枚の布をおいて座っているような境涯への覚醒であったが、すでに不安というようなものは、追い越してしまっている。
鶴ヶ岡八幡宮の別当になっていた頼家の子公暁が、その宮寺に参籠したまま退出せず、除髪の儀もおこなわず、白河左衛門尉義典を伊勢神宮に奉幣のため派遣し、そのほかの諸社にも使いを立てて、なにごとかの祈祷に入ったのは、建保六年十二月五日であり、この知らせはすぐに営中にとどけられ、人々はこれを怪んだ。北条義時が夢告によって建てた堂寺に、薬師如来を安置する供養を行なったのはその三日前である。またこの日は実朝が右大臣に任じられた日であった。
たぶん、実朝には、翌年正月二十七日の右大臣就任の拝賀の日をまたなくとも、この日にすべてがわかったかもしれない。
………………
………………


晩春の別離

2016-06-05 12:59:08 | 言の葉綴り
言の葉9 晩春の別離
島崎藤村詩集 山室 静 編
世界の詩 14 彌生書房
詩集 夏草 晩春の別離 より

時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらん
恨みは友の別れより
さらに長きはなかるらん

君を送りて花近き
高楼までもきて見れば
緑に迷う鶯は
霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕を照らすかな

これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懐えば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき

東胆吹の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらん

流れは空し法皇の
夢杳かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万の恨みをば
空行く鷲に窮むらん

春去り行かば青丹よし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂のうちに遊ぶとき
古き芸術の花の香の
伽藍の壁に遺りなば
いかに韻を身にしめて
深き思に沈むらん

さては秋津の島が根の
南の翼紀の国を
回りて進む黒潮の
鳴門に落ちて行くところ
天際遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の躍るを望むとき
いかに胸打つ音高く
君が血潮はさわぐらん

また名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代の音に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声をきくときは
いかに浦辺にさすらいて
遠き古を忍ぶらん

げに君がため山々は
雲を停めん浦々は
磯に流るゝ白波を
揚げんとすらんよしさらば
旅路はるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地の
もなかに遊び大川の
流れを窮め山々の
神を呼ばひ谷々の
鬼をも起し歌人の
魂をも遠く返しつゝ
清しき声をうちあけて
朽ちせぬ琴をかき鳴らせ

あゝ歌神の吹く気息は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある

九つの
芸術の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典の宮殿に玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや

かのバビロンの水青く
千歳の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり

げにや大雅をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術の天に懸かる日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらん

さらば名残りはつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
みよ影深き欄干に
煙をふくむ藤の花
北行く雁は大空の
霞に沈み鳴き帰り
彩なす雲も愁いつゝ
君を送るに似たりけり

あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてゝ
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜しむな家づとの
一枝の筆の花の色香を

註、君=島崎藤村
われ=北村透谷
とされる。