言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

プーチンは皇帝か  作家 ミハイル•シーシキン

2022-07-12 09:36:00 | 言の葉綴り

135  プーチンは皇帝か 

作家 ミハイルシーシキン

  



戦争に勝ち目はない

次のプーチン生まぬ

備えロシアにあるか






朝日新聞朝刊 2022年(令和4年)75日(火) プーチンは皇帝か

作家 ミハイルシーシキン寄稿より






このごろは、ロシア人であるということに苦痛を覚える。今や全世界にとってロシア語と言えば、ウクライナの街を爆撃し、子供を殺害する者の言語、殺人者の言語と同等と見なされてしまう。この「特別軍事作戦」の目的はロシア人のロシアの文化、ロシア語を、ウクライナのファシストたちから救うためだという。だが、実際には、この戦争はウクライナのみならず、ロシア人やロシアの文化、私の母語に対する犯罪なのだ。

なぜ、プーチンはこんなにもウクライナを憎むのか? ウクライナは私たちが共有する、むごたらしく血にまみれた過去から逃れることができ、民主的な未来を築くことを選んだ。ロシアの僭称者(訳注=ロシアでは歴史上、皇位を勝手に名乗る人物がたびたび出現した)はそれが気に食わないから憎むのだ。自由で民主的なウクライナが打ちのめされたロシア人の規範となり得るからだ。プーチンにとってはウクライナを破壊することがこれほど大事なのはそのためだ。しかし、プーチンがこの戦争で勝利を収めることはできない。

ロシア参謀本部の計画には「NAT Oの軍隊にウクライナを防衛させてはならない」というのがあったが、NAT Oはプーチンのこの計画どおりになった。ウクライナの空に「飛行禁止区域」は一切ない。プーチンの計画に従わなかったのはウクライナ人だ。ウクライナは降伏しなかった。ロシアの戦車を花で迎えることはなかった。ウクライナ人が守っているのは自らの自由と人間としての尊厳だけではない。今や全人類の自由と尊厳を守っているのだ。ウクライナを負かすことはできない。なぜなら、戦争の勝敗を決するのは戦車やミサイルの数ではない。自由を求める愛の力だからだ。ウクライナ人は自由であり、何のために戦っているのか知っている。一方、ロシア兵は何のために戦っているのか? ロシアの将軍たちの犯罪的な命令にしたがっている者たちは、奴隷である。奴隷が戦うのは生き延びるだけ、ただそれだけのためである。

私たち家族はウクライナに大勢の友人がいる。数年前、私たちはオデーサで開かれた「オデーサクラシックス」という素晴らしい音楽祭に赴いた。戦争が始まって、私たちの家に、オデーサから難民の家族が来た。ミーシャは、私たちの(訳注=息子)イリヤと同じく8歳だ。ミーシャのおばあちゃんはオデーサに残った。彼は、おばあちゃんの身に何か悪いことが起きないか、心配している。ミーシャは破壊された住宅群の映像を見た。ロシア兵は彼の家を破壊し。おばあちゃんを殺害するかもしれない。ロシア語を話すこの少年に、その理由を何と説明したらよいのか? 私は何も説明できない。私にできるのは、私の国、国民、言語の名において遂行されているこの犯罪行為について、許しを請うことだけだ。ミーシャや彼の母親、おばあちゃん、そして全てのウクライナの友人に対して、それでいて、許してもらえないだろうこともわかっている。

ロシアのテレビは、爆撃されたウクライナの街と殺害された子供たちを映し出すが、それはウクライナのファシストの仕業と説明している。長年プロパガンダに酔わされた人々は、ロシア軍はアメリカに押しつけられたウクライナのきょうだいたちを解放しているのだと未(いま)だに信じている。

                   

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プーチンは最後まで戦うだろう。新たに何千人もの命を火の中に投げ入れながら。しかし、彼に勝ち目はない。彼は国民に勝利を与えたかった。勝利は、自分が「真の」ツァーリ(訳注=皇帝)であることの唯一の証しだからだ。「誰の罪か」「何をなすべきか」(訳注=いずれもロシアの小説の題名)というのは、19世紀の偉大なロシア文学が提起した重要かつ「永遠の」ロシア的問いだが、読み書きのできない15千万人の農民にとって重要かつ永遠のロシア的問いは、全く異なっていた。それは「真のツァーリであるか否か」ということだった。そしていま、これが重要なロシア的問いになっている。国民は今でもスターリンを愛し、アフガニスタン戦争にも西側との冷戦に負けたゴルバチョフを軽蔑している。クリミヤの「返還」によって、プーチンは自らを真のツァーリとして正当化したのだ。

202259日、赤の広場で戦勝パレードが催されるはずだった。だが勝利はない。つまり、彼は真のツァーリではないということだ。検閲の行われていないテレグラム(訳注=ロシアで人気のS N S)のチャンネルでは、既に愛国主義者たちが、クレムリンの裏切り行為だとして公然と避難している。新たな真のツァーリを既に探し始めているのだ。ごく近い将来、プーチンの後継者が誰になるか見届けることになるだろう。

国民は混沌の中で生活することを望まず、強力な権力者を望む声が再び高まるだろう。仮に非常に自由な選挙が行はれたとしても、新しい国家の権力は新たな独裁署が握ることになる。そして西側諸国は彼らを支持するだろう。なぜなら彼らが、核兵器の保有量をコントロールすると約束するからだ。新たな独裁者を生まないために、ロシアは帝国的意識の浄化や真の脱プーチン化、新しく生まれ変わることが必要だ。

     

      ■             


国民的な罪の意識と悔恨がなければ、ロシア人とロシアという国にはいかなる未来もあり得ない。ロシアには脱スターリン化も、ソ連共産党のための「ニュルンベルグ」(訳注=ドイツの第2次対戦中の戦争犯罪を裁いた国際軍事裁判)もなかった。これがプーチン政権の誕生につながった。NAT Oも、ウクライナも、ロシア人のために「脱プーチン化」を行うことはない。

私たちは自ら、この膿をロシアから取り除かなければならない。私たちロシア人は、こられらの犯罪について率直かつ無条件に罪を認め、許しを請わなければならない。それ以外に未来に続く道はない。反ファシストでヒトラーと闘ったビリーブラント(訳注=旧西独首相)はワルシャワゲットーの英雄と犠牲者の記念碑の前にひざまずいた。キーウ、ハルキウ、マリウポリ、プラハ、ブダペスト、トビリシ、ピリニュスでひざまずくことなしに、ロシアの未来は訪れないのだ。

だが、ロシア人に「脱プーチン化」の準備ができているだろうか? ドイツ人の一部には自分たちを正当化しようとする人もいた。「確かに、ヒトラーは狂った犯罪者だった。でも我々ドイツ人は、何も知らなかったのだ。我々も他の国々と同様にナチ政権の犠牲者なのだ」。もしこのような言葉が聞こえてきたら、新たなロシアの誕生は不可能になるだろう。「確かに、プーチンは狂った犯罪者だった。でも、我々国民は、人質に取られていた。我々ロシア人は、何も知らなかった。ロシアの兵士たちはファシスト政権からウクライナ人を解放しているのだとばかり思っていた。我々もプーチン犯罪政権の犠牲者なのだ」。これが新しいプーチンの始まりとなる。ロシアの「脱プーチン化」は必ず起こることだが、それを行うのは単に名前だけ異なる新しいプーチンではないかと恐れている。

プーチンの罪は、人々に憎しみという毒を盛ったことだ。プーチンがいなくなっても、痛みや憎しみは長く心に残る。このトラウマを克服するのに役立つのは、芸術、文学、文化だけだ。独裁者は遅かれ早かれ、その卑劣で無価値な人生を終えるが、文化は存続する。これまでもそうであったし、プーチン後もそうだろう。文学はプーチンについて書いたり戦争を説明したりする必要はない。人がなぜある民族に別の民族を殺せと命令するのか、などということを説明するなんて不可能だ。文学とは戦争に抵抗するものだ。真の文学は常に、人間が憎しみではなく、愛を求めることについて語っている。

戦争やジェノサイド、社会の大惨事を防ぐことのできた本は一冊たりとてない。偉大なドイツ文学はオシフィエンチム(訳注=アウシュビッツのポーランド語名)の前で無力であり、偉大なロシア文学は矯正収容所の前で無力だった。だが、戦争が終わり、住宅が爆撃されなくなっても、傷や痛み、憎しみ、悲しみが残る。その時こそ、文化や音楽、文学の力が必要になるのだ。戦争が置き去りにした人々の間の溝を埋められるのは文化だけだ。憎しみは病気であり、文化がその治療薬なのだ。

    

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どんな戦争の後にも、常に戦争文学が生まれる。ヘミングウェーやレマルクを思い出してほしい。一方としては恥ずべき、他方としては英雄的なこの戦争でとてつもない経験をした若い作家たちーーロシア人、ウクライナ人を問わずーーが、ウクライナ文学、そしてロシア文学の様相を変えるような本を書いていくはずだ。それらは全く異なる本となるだろう。ウクライナの作家たちも、ロシアの作家たちも喪失の痛みや死、悲しみについて書くだろうが、ウクライナ人の場合は、自由な国民の形成、悪に対する英雄的な抵抗、人間の尊厳のための闘いについての本となり、ロシア人の場合は、犯された罪の告白と、なぜ国家と国民がこのような恥辱に行き着いたのか、なぜロシア人がファシストになったのかを認識しようとすることが、本のテーマになるだろう。

これらの本には、こうしたことを経験した人たちの人生と同様に、恐ろしく残酷なものが多く含まれるだろう。しかし真の偉大な文学であるならば、これらの本は最後には光や希望、愛に満ちたものになる。真の文学とは残酷さについて語るものではなく、人間らしさをもって残酷さを克服することについて語るものだ。私は信じたい。真の本はすべて希望や光、人のぬくもりを運ぶためのノアの箱舟のようなものなのだ、と。

(漢訳沼野恭子(東京外語大学教授) 訳根本晃)


憎しみの毒 消せるのは真の文学