言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

心とは何か 心的現象論入門 ③Ⅲ身体論をめぐって 吉本隆明著

2023-05-27 08:26:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り149心とは何か 心的現象論入門 ③身体論をめぐって

吉本隆明著






心とは何か 心的現象論入門

吉本隆明著 2001615日第1刷 出版 弓立社 より抜粋


Ⅲ 身体論をめぐって


2


ーー現象学的な身体の根本となるところは、身体というイメージであるあるいはイメージとしての身体ということになります。本質直感にひっかかったイメージとしての身体をだいたい身体というふうにかんがえれば、現象学でつかんでいる身体の像はつかめるんじゃないかとおもいます。

こういう乱暴な云い方をしてはいけないので、それぞれさまざまな人たちがさまざまな言い方をしています。

それで、もう一つだけおもしろいなという云い方をしている人をご紹介しますと、リンサルナという精神医学者です。この人の身体論の中に、おもしろいことが云われています。それは夢ということです。夢ということは、フォイエルバッハやヘーゲル流にいえば、動物としての身体、内部器官と、有機物としての内部器官のごく小部分が働いている時、つまり寝ている時の身体状態において出てくる身体ということです。そのことについて、リンサルナは言及しています。人間の身体の中にある有機的な器官と少数の動物的な器官との混合物がちょっと働いている時、つまり夢の中に出てくる身体とはどういう身体かというと、浮遊している身体だ、と云っています。つまり宙に浮いている身体です。宙を泳いでいるとか、上昇していくとか、あるいは浮いている身体がスーッと落下していく、そういう症状です。人間の動物的器官がごく小部分働いていて、あとは有機的器官しか働いていない。そういう状態における身体のイメージは、宙に浮いているか、上昇している。あるいは落下している。そういうふうに身体、あるいは身体というイメージは存在している、と云っています。

これはたいへんおもしろい身体論です。この身体論があるかないかということで、先ほど云いました肢体の一部分がないかどうかというところまで論及できる。身体論を拡張できるとてもいい基礎が築かれているとおもいます。

それからもう一つ、肢体は不自由じゃないけど精神が不自由だという人もいます。つまり精神がおかしいとか、異常だとか、病気だとか、さまざまな云い方があるでしょうけれども、肢体がないようにじぶんがなくて不自由であるという人と、それから頭の働きが不自由だという人、そういうのも含めまして肢体の不自由、つまり人間の身体不自由というものの概念にまで、身体論を拡張できる基礎というのは、リンサルナのこういう云い方の中にとても大きな示唆が含まれています。

それから、このドイツ観念論、ドイツの古典哲学の系統と現象学の系統とはちがう系統で、もう一つどうしても取り上げなくてはいけない身体論を提出している人がいます。それはフロイトです。

フロイトの身体論の特徴は何かといいますと、さまざまな特徴があるんですが、根本のことだけを申します。人間の内部器官は必ず性的な意味と関係がある。そういうことを云ったのは、フロイトの身体論が初めてです。身体の内部器官は、つまり心臓とか腸とか肛門とか口とかいうものは全部性的な意味がある。つまり性的な意味を帯同させることができる。それが本当の身体の成り立ちなんだ。そういうことを云ったのはフロイトが初めてであり、これもたいへん画期的なものです。例えば、男性が好きな女性に出逢った時に心臓がドキドキするという云いかたはで、本当に好きなんだということを云い表す言葉になります。その手の言葉がどうしても成り立つかといいますと、これは無意識的にだれでも比喩的に使っているわけですけれども、本当は人間の身体の内部器官と

、ものに対してのものの機能、例えば心臓は血液を送ったり集めたりしている、そういう力なんだということと、どういうふうに心臓というのにある性的なエロス的な意味を帯同しているか、ということを意味しているとおもいます。

そのことを意識だてて意味させると、胸がドキドキしているとか心臓がドキドキするということで、ある異性を好きだという暗喩、メタファーになることが成り立つ。それは、たぶんフロイト的に意味づけてしまえば、人間の内在的器官がエロス的な多様環境を必ず持っているんだ、ということに起因するとおもいます。このことを無意識じゃなくて本格的に、真っ向からとり出した身体論をやったのはフロイトです。フロイトを初めとします。

これはある意味でたいへんな真理を含んでいるので、今まで無意識で、だれもがそういうことを漠然と感じたり、言葉で云ったりしたいたにもかかわらず、それをはっきりととり出すことができなかったものを、フロイトが初めてとり出したということができます。このフロイトの考え方は、身体論として除外することができないとおもわれます。

今要約したようなことが、ぼくらが

『心的現象論』の中で身体論をやるばあい、目の前におかれた材料といいますか、素材だったわけです。さてそれじゃ、そこからじぶんの身体論を作ることになります。別に独創的に作ったのじゃなくて、あっちのいいところ、こっちのいいところを全部つなぎ合わせればいいということになります。そのつなぎ合わせ方が、ぼくの『心的現象論』の基本的な考え方に合致していなければ、どんないいことを云ったって意味がないですから、ぼくの基本的な考え方に則して、展開することになっていきました。

何をかんがえたかというと、ヘーゲルやフォイエルバッハがいう概念的な人間の器官というのをまずかんがえました。人間の感覚器官が外界を受け入れる、例えば目が外界を見る作用は、受け入れと受け入れたものを理解する二つの作用があるわけです。感覚器官が受け入れるということは何かといいますと、関係づけだというのがぼくの基本的な考え方です。

これは空間性であり、同時にその空間性とは何がといったら、それは関係づけなんだ、いうのが基本的な考え方です。

それから、受け入れたものを理解する、あるいは了解するということは何かというと、時間性、時間作用だというのがぼくの基本的な考え方です。それに則して何をとりあげればいいかというと、手と足をとりあげればいいじゃないかとかんがえてきました。それで基本的な身体論の骨組みは作れるだろう、とおもったのです。

いちばんいい例は、文学とか芸術などです。例えば文学とか芸術とかは、何でやるか。それは手でやるんだ。手で書くとか手で文字を綴るとかです。するとそのばあい、観念の作用自体は必ずしも手を必要としないようにみえます。つまり手なんか動かさなくても、観念作用を受け入れる、了解することができます。

しかし芸術文学をとってきますと、それは人間が言葉を操ったり景勝を描き出したりということですけど、そういうばあい、必ず手を動かすことなしにはできないのです。それから、芸術文学がどのように上達するかというと、それは手でもって文字を書くとか手でもって色を塗るとかというように、手以外のものをいかに高度にしても、決して芸術文学だけはよくならないのです。芸術文学がよくなる基本的な要因はあくまでも手を動かすことであって、手を動かすこと以外どんなに習練しても、いい芸術家あるいはいい文学者にはなれないということは当然です。つまり芸術文学みたいな表現は、必ず手を媒介にしてなされる。手と脳は直結します。つまり手がやることというのは何かといいますと、ぼくのかんがえでは了解性ということなんじゃないかと。つまり時間制を、手が作ろうとするんじゃか、というのがぼくの基本的な考え方になったわけです。

これと対照的に足があります。直立している二本の足が身体にあります

。この足の触知する、あるいは動いていける範囲、人間の身体が持っている空間性あるいは関係性といいましょうか、関係づけるといいましょうか、そういうものを相当するものが足ではないか、あるいはもっと本当を云えば、足と脳との結合連結です。足の作用というのは人間の空間性あるいは関係づけのある範囲を決めるのじゃないか、というふうにかんかえていったのです。この考え方のなかには、すでに人間の身体が含む時間性と空間性とのイメージが想定されています。

そうしますと、動物ももちろん手を動かします。それからもちろん足で歩きます。そこで動物性と人間性、人間の身体性と動物の身体性、あるいはヘーゲルのいう「動物段階までの身体性」とはなにがちがうのかということになります。手の作用と足の作用が、身体が機能的にかんがえられるかぎりの時間性と空間性、あるいは関係性と了解性の範囲をはるかに超えてできるようになった時に、身体は人間と呼ばれるようになったとかんがえてきました。つまり、もしその身体性が持つ機能的な空間性と機能的な時間性、あるいは機能的な了解性と機能的な行動性、あるいは関係づけの範囲内にとどまるならば、それは動物性といっこうにかわらない。動物もまたそうしているだろうとおもわれるのです。

そうすると、動物と人間との身体性の相違は、たぶん人間のばあいだけ、手の働き足の働き、あるいはその了解の働きと関係づけの働き、あるいは時間性と空間性において、はるかに機能的限界を超えて実現することができる。超えて結びつくことができる。そういうことがありうるとすれば、そういう身体が人間になったんだと、かんかえていいとおもいます。

ここまでかんがえた時に、だいたい基本的なイメージは明瞭になりました。

ぼくの身体のイメージはとても簡単なのです。身体とはさまざまな時間性の度合いとさまざまな空間性の度合い、あるいはさまざまな関係づけの度合いとさまざまな了解の度合いが交錯した存在、それがイメージとしての身体なんだ、という結論になります。

このイメージのなかで何が問題になってきたかといいますと、フォイエルバッハが云った、味覚とか臭覚とか触覚とかという唯物的な、精神性が入っていない感覚と、聴覚視覚のような、フォイエルバッハに云わせれば精神的な感覚器官とを、非空間性と時間性の度合いとして理解することが、唯一残ることです。その度合いがどこにあるかは云えないまでも、どういう空間性とどういう時間性が結びついたものが聴覚であり視覚であり、それからどういう空間性とどういう時間性の度合いが結びついたものが、嗅覚であり味覚であるかを云うこと、そういう順序を云うことは、わりにかんたんにできるのです。そうした時、だいたいぼくがおもっている身体、イメージとしての身体の基本的な要因は全部そこでできあがったのです。


3


ところで、身体論というのは何が問題なのでしょうか。一つは言語、つまり身体論における言語ということが問題です。それからもう一つ、行為行動は、イメージとしての身体とどう関係づけをしたらいいのか、ということが残ります。つまり、身体論の究極的なところは、言葉とどう結びつくのかという問題と、行動行為とどう結びつくのかという問題です。それが、身体論をなぜするのか、なぜそれが重要なのかということの根本の問題になるとおもいます。そうすると、その二つの問題、つまり言語とという問題と行動という問題を、じぶんなりにイメージとしての身体から意味づけられれば、もうお終いということになります。

それは長く云っていると大変ですけど、要約するのは簡単です。まず第一にかんがえなけれはばいけないし、かんがえたことは、身体が言語として表現された時、あるいはイメージとして身体が言語として表現された時と、それから行動行為として表現された時は、まるで質がちがうんだということ。ですから云ってみますと、まるでちがった質の了解性とちがった質の関係性といいましょうか、重要性といいましょうか、そういうものとかんがえなくちゃいけないとおもいます。

これは混同視してもいけないし、また簡単につないでもいけないことです。つまり言語は独特の時間性の度合いと独特の時間性の質を持ちますし、また独特の空間性の質と度合いを持っているということです。それは行動ということ、行為ということ——それはマルクス流にいえば労働ですけど、つまり対象あるいは自然にたいする働きかけです——とは、まったく時間性の質と空間性の質あるいは度合いがちがうんだということ。ちがう次元あるいは位相にあるということが、基本的な問題になっていきます。それからあとは、その問題を理論づけていけばいいということになります。

もちろん、マルクスが身体論として問題としたのは、行動行為と身体との関係だけです。それは先ほど申しあげたとおりで、マルクスの云い方だけでは、簡単にいって、肢体不自由とか脳の働きが不自由という身体の行動性あるいは非行動性について、何も云うことができないのです。

そこで、ぼくがどうしてもそれを解きたいとおもったのは、肢体不自由についてぼくも展開していますから、お読みくださればいいとおもいますけれども——例えば一ヶ月前に手を交通事故で落としてしまったとすると、幻の四肢といいますか、幻肢といいまして、落としたあとでも手の完全な形じゃないですけれども、いろんな形があるとおもえることがあります。幻肢というのは、なかなか消えないのです。消えないで存続します。この幻肢という問題のなかに、たぶんマルクスがかんかえなかった、憂いとしての身体の問題がここにかかってくるだろうということが、一ついえるのです。ーー





心とは何か 心的現象論入門 ② Ⅲ身体論をめぐって 吉本隆明著

2023-05-09 11:33:00 | 言の葉綴り

言の葉綴り148心とは何か 心的現象論入門 ② Ⅲ身体論をめぐって

吉本隆明著






心とは何か 心的現象論入門

吉本隆明著 2.001615日第1刷 出版 弓立社 より抜粋


Ⅲ 身体論をめぐって


1


ーー『心的現象論』のある章で「身体論」というのをやりました。ぼくの身体論というのは、古典的に云いますと、ドイツの観念論がもとになっています。

そこで前提として、古典ドイツの観念論というのを、ちょっと要約して申し上げます。いちばん最初に身体ということをとてもよくかんがえた人は、もちろんヘーゲルです。ヘーゲルはどういうことを云ったか、はっきりさせたかといいますと、人間の身体には有機的部分というか、今いえば自律的な神経によって動かされているものという意味だとおもいますけれども、有機的な部分がある。その有機的な部分の上に動物的な部分がある、ということをはっきりと云っています。

それからも一つ、ヘーゲルがはっきり云っていることは、人間の身体の中に外界にたいしする働きかけとしてある器官と、内部器官と二つある。例えば心臓とか肺臓は内部器官であり、手とか足とか目とかは外部器官だ。つまり外部と交渉するために必要な器官だ、とヘーゲルは云っています。

もう少しいいことをヘーゲルは云っています。外部器官はいつで二重である。例えば手は左手と右手があるというぐあいに、いつでも外部器官は二重性をもっている。目は左目と右目というように、一つでも見えるわけですけれども、いつでも二重器官、二重になっていると云っています。足でも二重になっている、二つある、そういうことを云っているのです。

それが、そもそもぼくなんかが最初に読み込んだ身体論です。そこからフォイエルバッハがもう少しそれを進めましてーーもちろんそれ自体ヘーゲルから学んだわけですけれどもーー、もう少し詳細なことを身体について云っているとおもいました。

第一にどういうことを云っているかといいますと、人間の外部器官(感覚器官)の中で、触覚と味覚と嗅覚とはとても唯物的だ、という云い方をしています。ちっとも精神的じゃないと云っています。それから聴覚(耳)と視覚(眼)というのはとても精神的なものだ、という云い方をしています。人間の感覚器官、つまり外部に働きかけたり外部を受容する、受け入れたりする器官のうち、視覚と聴覚はちょっと様々な、何といいますか形而上学的意味をつけられる精神性を持っている器官だ、と云っているのです。それから、今云いましたように、味覚とか嗅覚とかは、そうじゃなくて、たいがい唯物的あるいは即物的な器官だ、ということをフォイエルバッハは云います。ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスというふうにかんがえてみますと、「身体論」というかぎりではフォイエルバッハがいちばんいいとおもいます。

それでもう少し立ち入ったことを云っています。われわれは例えば物ごとをかんがえるということ、つまり思考するということ、あるいは思惟ということで作用をする。身体がそういう作用をすることができる。しかしそのばあいに、身体は少しも思惟しているじぶんの身体を意識しない。もっと厳密に云えば、思惟作用の座が脳にあるとすれば、われわれが思考を働かせる時、ちっとも脳を意識することはない、していない。そうだとすれば脳の作用というもの、人間の作用、あるいは人間の身体の作用というのは、脳と関係がないんじゃないかと云えそうな気がするんです。そういうことは、あらゆるばあいにいえる。例えば脳についてわれわれはかんがえることができるとすると、脳についてかんがえているのがもし脳だとすれば、脳について脳が脳をかんがえているということになります。しかしそのばあい、脳がそういう作用をしているということを少しも意識しないでかんがえることができる。そうすると、かんがえる作用とか感じる作用とか身体の中、例えば脳の作用というものと関係ないんじゃないか、というふうにいえそうにおもわれます。しかし、それはそういうふうに云わないほうがいいんだと、フォイエルバッハは云っています。

つまり、われわれの思考作用は主観的なものだとかんかえれば、それにたいして、脳が何らかの意味で作用をおよぼしていることは客観的な作用なんだ。そのつながりがわれわれの思考作用の過程の中では、べつだん意識を必要としないことにずぎないので、全然関係ないと云わないほうかいいんだ、とフォイエルバッハはかんがえています。この考え方はとてもいい考え方なので、あらゆる意味で心身相関といいましょうか、心身相関の領域をかんがえていくばあいの、基礎的かつ古典的な場所は、フォイエルバッハのこういう云い方の中で初めてはっきりさせられた、と云うことができます。

それから、もう少しかんがえを進めまして、マルクスはどういうふうに身体をかんがえたかといいますと、身体を内部器官とか外部器官とかいうふうににもかんがえませんでしたし、また心臓とか肺臓がここにあって、ということについても、格別に何か云うわけではありません。ただ、そのかわりマルクスは人間の身体はもし外界にたいして、外部の自然にたいして働きかける時には例えばそれは労働をするとかあるいは行動をするとかということですけれども、ある行動をして、外界にたいして何かを加える時、何か作用する時あるいは行動を起こす時には、起こしたところでもって外的な自然を、マルクス流の云い方をすれば、非有機的身体にしてしまう。つまり人間が行動をするとか労働をするとかあるいは歩くとか、そういうことをやれば、やったということ自体がその場において外部の自然を人間の非有機的な身体にしてしまう。極端に云えば、人間は外界を非有機的な身体にしてしまう以外に、行動すること、あるいは行為をすることはできないんだ、と云っています。

その時、マルクスは人間の輪郭ある身体が、内的にどう形成されていくか、あるいはどういう感覚器官があって外部にそれがはたらいているかということは、まったくかんがえていないんです。けれども、ただ、身体性全体ということのかんがえの中で、人間は行動をする時に必ず外界を身体にしちゃっている。極端に云いますと、行動する時にはこの外界を自分の身体の、何といいますか、いわば「ハイ」にしちゃっている。またそういうことなしに人間の身体というのは行動することもできないし労働することもできない、と云っています。

このマルクスの云い方は、大変興味深い云い方です。身体という概念を、人間のこういう輪郭からもっと極端に、何か行為をすれば必ず行為をされた媒体を身体にしてしまっている。そういう云い方で、身体の概念を、広範に人間のかんがえる範囲あるいはある時期からあるいは行動できる範囲における外界を全部身体だ、というふうに考え方を展開しています。これは大変おもしろい考え方です。

ところで、ぼくが身体論でかんがえたところでは、この考え方をとりますと、例えば、先天的な肢体不自由で、全然行動ができない人間がありえます。肢体不自由ということですけれども、全然行動ができない肢体、先天的にそうだという人間はありうるわけです。現にいるとおもいます。あるいはある時期からそうなったという人もいるとおもいます。そういう人にとっては、外界を非有機的身体とすることはできないわけです。

つまりマルクスの考え方は、五体健全でない人間がいたり、またそういうふうに人間がなつてしまった時には、外界に働きかけることができませんから、外界の自然を自分の身体としてしまうことはできないことになってしまいます。そうすると、この考え方は、一見いい考え方のようにおもいますけれども、身体論のばあいでいうと、大変な欠陥をもつのではないかとおもわれたのです。

そうしますと、ぼくの考え方では、マルクスよりもファイエルバッハのほうがいいことを云っているわけです。つまりフォイエルバッハは外界的な、外部に働きかける感覚器官と内部的な器官との区別もしていますし、それから、どれが人間的な精神的な器官であり、精神的な器官とは何であるか、ということも云っています。この考え方でいきますと、外界への働きかけもそうですけれども、身体の内在的構造についても、考え方を微分化していったり展開していったりしているわけで、少なくとも身体論をするばあいにた、フォイエルバッハの考え方のほうがたいへんいい考え方です。

なぜそういうことになるかと云いますと、フォイエルバッハというのは、哲学的で思惟的な常識によりますと、ヘーゲルとマルクスの梯子を渡して、その媒介する過度的なところにいる人物で、考え方も過度的なな場所にいるものですから、ヘーゲルの観念的な考え方とマルクスの唯物的な考え方の両方を二重に含んでいるところがあります。そこのところでフォイエルバッハの身体についての考え方が、古典的な意味でいえばいちばん云うことはいっちゃっているという感じがするんだろうとおもいます。