言の葉綴り

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〈信〉の構造3 天皇制・宗教論集成 吉本隆明 ②天皇制および日本宗教の諸問題その1 1|天皇観の変遷、2|初期天皇制の成立過程

2021-12-18 12:18:00 | 言の葉綴り

130〈信〉の構造天皇制・宗教論集成

吉本隆明

②天皇制および日本宗教の諸問題その1

1|天皇観の変遷、2|初期天皇制の成立過程、



投稿者 古賀克之助







〈信〉の構造3ーー天皇制・宗教論集成

○○四年十二月十五日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社

天皇制および日本宗教の諸問題より抜粋






1| 天皇観の変遷


ーー現在、天皇がたいへん重病で、昭和の終焉も近いといわれている時点ですが、天皇制の問題を仏教、キリスト教以外の宗教との関係で、いろいろおうかがいしたいとおもいます。

吉本さんは、簡単に申しますと、天皇制は、制度の問題としてよりも宗教の問題だというふうにおっしゃっているわけです。それで最初に、吉本さんの天皇観に関する変遷というようなことから、お話をうかがいたいとおもいます。


大ざっぱな目安としていいのは、旧憲法の天皇規定と新憲法の天皇規定です。旧憲法には、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という規定があります。それは、子供のときから学校制度の中で教えられ、また、ごく普通の庶民の家族の周辺に雰囲気としてあったわけです。ですから文字どおり、天皇は神聖にして侵すべからず現人神であるという育ち方をしてきました。特殊な、知的な家族でもなんでもありませんから、それはごく普通に信じられていたということです。そしてもうひとつ云わなくてはいけないことは、ふだんの庶民の日常生活では、天皇を意識しなければ生活できないということはないわけです。あまり日常生活には関係がない。だけど、絶大な、神聖な存在だというふうにべつの意味では非日常的な雲の上のあたりの存在だとおもわれていました。つまりそれは、天皇制の東洋の専制君主のあり方を象徴しているわけで、そういう二重性が文字どおり受け入れられたところで育ってきたとおもいます。

そして、天皇がきわどく日常の意識に入ってくるようになったのが、戦争だとおもいます。つまり戦争になって、「神聖ニシテ侵スヘカラス」という天皇の憲法規定がもっている意味は、政治的な意味をもったり、軍事的な意味をもってくる。また日常生活にも影をおとしてきます。旧憲法のときの規定だと、天皇が統帥権をもっているわけです。陸海軍を内閣の閣議を経ないで直接動かせる憲法規定になっている。だから、軍事的意味や、政治的な組織勢力が前面に出てくる。「神聖ニシテ侵スヘカラス」で、ふだんの日常生活ではあまり関係がなく、意識に入ってこないんだと、という天皇がきわどく日常的に意識に入ってくるようになった。それが戦争中を貫いた考え方だとおもいます。そしてそのとおりに振舞ってきたわけです。

そういう天皇制にまつわるきわどいぎりぎりのところへきて、じぶんの死か、それとも天皇かという問題になってきて、つまり、じぶん個人の戰爭死と、天皇の存在と、ぎりぎりのところで取り換えるというふうになってきたときに、ぼくらがいちばん惹かれたのは、やっぱり「神様としての天皇」なんです。そういうイデオロギーがいちばんいいような気がしたんです。それは、本でいえば、保田與重郎がそうですし、軍人では、杉田五郎という人の『大義』という本が出てたんですが、そういうのにとても惹かれたんです。ほかに、祖国のためだとか、同胞のためだとか、家族とか友人のために死んでもいいんだとか、いろいろな云い方がありますが、それらにはぜんぶ有効性の問題が入ってくるようで、どうも納得できないというのが、ぼくらの考えでした。ところが、天皇のためというのが、いちばん有効性が入っていない、ものすごく純粋な気がしたんです。ほんとうはなにも関係がないんですが、それなら死ぬことと交換できるんじゃないか、という考えがありました。

天皇が現人神とかんがえるのは、一種の東洋的な宗教だとおもいます。つまり、チベットのダライラマはいまでも現人神です。この現人神は東洋的なディスポティズムのひとつの形態です。中国の皇帝的なものもそうです。それは一種の民族宗教でもあるし、種族宗教でもあるわけです。しかも東洋的なディスポティズム、専制君主のあり方のひとつだとおもいます。つまり「神聖皇帝」ということだとおもいます。

三島由紀夫が、戦後になって「人間天皇」、天皇が人間だというのはおかしい、気に食わんといったけれども、ある意味ではそうなんです。「人間天皇」だと、なにかと取り換えているという感じになるんです。「象徴天皇」ももちろんたいした意味はないんです。「現人神」であったら、東洋的専制君主のあり方のひとつとして、世界史的な意味がある。ぼくもそうだとおもっていました。

ぼくは文学青年でもあるし、知的な人間だというふうにおもっていましたが、そういう人間と、天皇は現人神だという一種の信仰的な観点が同居できたというのは、あとからかんがえると、そうとうかんがえなくちゃいけない問題なんで、なんという意味なんだろうという問題と、ぼくは体験上、両方あるわけなんです。

だから、戦後の民主主義がいう「象徴天皇」というのは肯定できないんです。これはぜんぶ否定すべきだというのが、ぼくの課題であったわけです。いまもそうです。進歩的な人たちが「象徴天皇」と民主主義」とかいうけれども、ぼくは納得しないんです。つまり、そんなところでとどまっていたら、天皇制なんで絶対にわからないとおもっています。ほかのことではどんなに知的な存在であっても、天皇が現人神だとか、チベットのダライラマが現人神だという観点とは同居できるものだ、なぜならば、それは宗教だからだ。そのことが解明できなかったら、天皇制の解明にならないとおもいます。戦後、三島さんが因縁をつけている、天皇の人間宣言が出たわけです。そんなのはおれは納得しない、冗談じゃない、もうやめてくれ、というのがぼくの理解のしかたです。だから、戦後憲法の「天皇は日本国民統合の象徴」だといのは、もうぜんぜんなってない。こんなのぜんぶやめてしまえ、というのがぼくの戦後の観点です。

そこへ行くための過程が、ぼくの戦後の思想の展開の要になっているともいえます。だから、「象徴天皇制」を肯定するのは、ぼくはまったく納得しない。あれは神様であったか、迷蒙だったかというところへ行く以外に、絶対ないんです。「象徴天皇」ぐらいでお茶をにごしているというのはもっともいけないというのが、ぼくの実感です。

だから、三島さんが戦後そういうふうになっていったときに、なんだ、あれは戦争中のぼくらとおなじじゃないかとおもって、三島さん自体のそういう移り行きには納得しなかったけれども、しかし、あれはわかるんだ、ということはありました。あれは、三島さんがダライラマとおなじにかんがえたかったんです。

中国共産党は、毛沢東を神聖皇帝とおもってきたわけだから、わからないことはないです。チベットのダライラマの現人神をいまでも認めないでしょう。いまでも弾圧して、チベットを支配しているとおもっているけど、それは大まちがいでチベットの民衆は納得していないとおもいます。いまでもダライラマは現人神だとおもっているでしょうし、また共産党は「人間ダライラマ」なんて云ってもらっては困るんだというふうにおもっているにちがいありません。


ーーお話をうかがっていて、三島由紀夫の天皇観の裏返しというか、心情的にたいへん共感できるけれども、思想としてはまったくちがうというところが、やっぱり戦中派だなという感じがしました。



2| 初期天皇制の成立過程


ーー『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』という文言は伊藤博文が書いた草案からはじまっていると言われています。伊藤博文は明治二十一年に枢密院帝国憲法制定会議の開会の辞で、こんなことを言っています。ヨーロッパ諸国には「宗教ナルモノアリテコレガ機軸ヲナシ、深ク人心ニ浸潤シテ人心ココニ帰一セリ」。明治のはじめにヨーロッパなどを視察に行ったときの感想として、キリスト教国には、ドイツにも、フランスにも、ロシアにも国家の機軸というものがある。それが国家を支えている。その「国家の機軸」はキリスト教である。それなら日本の新しい近代国家の機軸なるものはなにか。仏教でもないし、神道でもないし、もちろんキリスト教を入れるわけにはいかない。「ワガ国ニアリテ機軸トスベキハヒトリ皇室アルノミ」と言っています。

だから、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」というのば、私の考えではキリスト教からきているとおもうんです。吉本さんは、東洋的な宗教だとおっしゃいましたが、少なくとも伊藤博文がヨーロッパを視察して帰ってきて、直接的にはキリスト教を想定して、キリスト教に代わるものとして天皇制を打ち立てたとおもうんです。その意味で、キリスト教と天皇制は似ているところがある。

私はキリスト教の出身にもかかわらず、キリスト教にたいへん批判的です。そういうことについては、どのようにお考えになりますか。


笠原さんのおっしゃるキリスト教的という理解のしかたは、あまりないような気がしてとても興味ぶかいですが、ただ一般的にはき神聖ニシテ侵スヘカラス」という条項は、伊藤博文がドイツへ視察に行って研究してきて、明治政府の首脳層が編み出した憲法規定であるという解釈がありますが、それはうそだとおもいます。

歴史的にいいまして、天皇が、宗教的な権力をもち、司祭としての権力をもち、同時に、政治的な権力をもち、軍事的な権力をもちという、政治とお祭り(宗教)の両方の統帥力をもつのは、少なくとも古代の初期ぐらいまで、つまり天皇制が大和朝廷をつくるまでのあいだだけだとおもうんです。その後の歴史をたどってみれば、だれにでもわかるように、天皇は、政治に関与しない位置にいて、そして、司祭で存続してきたんだということです。お祭りを行なう者、これは皇后がやる時期もありましたが、つまり、部族宗教から民族宗教のところまで統合していく宗教的な統合力、あるいは象徴的には統合力もっていた以外の何ものでもないわけです。実際、具体的な権力は何もない、といっていいぐらいですから、官吏の任命権、つまり、右大臣、左大臣とか、摂政大政大臣とか、それの承任権といいましょうか、それは形式的にはあったでしょうけれど、実際に権力をもって、これを動かしてというのは、その後の歴史のなかでは、ほとんどない、あってもひじょうに例外的なものだったとおもいます。

それがなぜ、近世から明治にかけて復活できたんだろうか。部族的信仰、自然宗教的信仰では、村里の外れには鎮守の森があって、そこに祭ってとか、もっと前までいけば、村里の外れには山があって、その山の頂には大きな樹木とか岩があったら、そこから神様が降りてくるんだという信仰があった。そういう時代の村里の鎮守の森を大規模にしたものとおなじ意味合いを天皇制がもともともってなかったら、神聖な天皇として復活しようにも、復活しようがないとおもいます。だから、天皇が現人神だというのは部族信仰時代からあった、現人神に就任するばあいには、斎籠するわけです。それで生涯娶らずということです。そのかわり一年に何回か、部落とか村里を回って、それで現人神としての姿を見せて、それから後はもう籠りっきりというのが、男の現人神のあり方なわけです。そういうことが根柢にあって、「神聖天皇」としてよみがえることと意味づけもできたんだとおもいます。

笠原さんの云われることも、とてもよくわかるんです。たとえば、近世でいえば、本居宣長だとか、平田篤胤という人たちは、天皇は現人神だという宗教的イデオロギーをつくってきているわけです。明治政府は、それを革命のイデオロギーとして使っているわけです。だからそういう基盤がなければ、憲法の規定もできないわけです。


ーーそれはこういうことですか。つまり、伊藤博文がヨーロッパのキリスト教を見て、これが機軸であると。これにならって、「天皇は神聖だ」ということを言ったのは事実だとおもうんです。ところが伊藤博文は、天皇制というものをよく理解していなくて、ともかくも西欧で見たものを言葉として憲法に入れたんですが、その入れた言葉が、はからずも、いわゆるキリスト教を機軸としたかたちではなく、むしろ、部族神とか現人神とかいう東洋的な神聖皇帝の思想を表現することになってしまったと、こういうふうな理解でよろしいでしょうか。


そうおもいます。ただ、多少ニュアンスがちがうところをいえば、伊藤博文がそれを知らなかったとは信じられないんです。なぜならば、伊藤博文はたいした大物ではなかったけれども、明治革命の革命家ですからね。革命のイデオロギーは なにかといったとき、伊藤博文は、それは天皇神聖主義だ、幕府じゃないということを革命家としては十分知っていたとおもうんです。


ーーしかし、そういうかたちでは言わずに、ヨーロッパのキリスト教を見て、機軸というものがあると気づいたというようなことを言っているのは、そういうふうに表現しているほうが、新しい、近代的だとおもったんでしょうか。


そういうことではないでしょうか。それが西郷隆盛や吉田松陰のような人たちとちがうところなんです。西郷隆盛は、手段としての天皇制みたいなことは、あまり発想の中にない人だったとおもうんです。それじゃなぜ、ストレートにそれが出てこないのか。それがまた天皇制の問題でもあるとおもいます。つまり、西郷隆盛は陽明学ですし、吉田松陰は儒学です。それと神聖天皇とはあまり関係ないでしょう。そうならないのは、部族神以来の伝統を保持しているということと同時に、そのときどきの制度的な宗教にたいして、もっとも敏感で、もっとも二重性をもって天皇制が存在していたからだとおもうんです。天皇制を宗教と見なすならば、それが、天皇制のもうひとつの特徴です。

聖徳太子の時でもそうなんです。聖徳太子はまっ先に仏教徒になっちゃうわけです。しかし仏教徒になったからといって、儀式からなにから仏教でやってたかというと、もちろんやってたんでしょうが、部族神時代からの宗教で、朝廷内における祭りとか、伊勢神宮にたいする祭りとかをやっているんです。一度も崩したことはないんです。婚礼の時の儀式もそうです。いまだって、婚礼の時の儀式は、部族神時代からの儀式と同じことをやっているわけです。

しかし、そのときどきで見てみると、仏教が入ってくれば、まっ先に仏教徒になっちゃうわけです。だからそれは二重性なんです。つまり、部族神時代からの宗教としての天皇制の中核は、考古学的な古層として、ちゃんと保存してるんです。

明治になればなったで、西欧の近代的な思想を受け入れるわけです。一重的に受け入れるわけです。それから、いまの皇太子もそうだけど、キリスト教徒である嫁さんをもらうということもやるんです。しかし、婚礼の時には、平安時代の衣装を着て婚礼をするでしょう。その婚礼の儀式も、よく見ればわかりますが、あれば母系社会の儀式ですね。つまり婿入婚です。そういうふうに母系時代からの婿入婚の儀式をいまもやっていて、それでいて、嫁さんは強固な教徒であるかどうかはべつにしてキリスト教徒なんです。そういう二重性をいつでももっている。だから、考古学的な古層として、天皇制はいつでも宗教を保有している。それが宗教としての天皇制の特徴じゃないでしょうか。






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