言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ⑤親鸞について…その1

2021-04-25 10:24:00 | 言の葉綴り

115〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

⑤親鸞についてその1


投稿者 古賀克之助







〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 4親鸞について抜粋







親鸞についてその1


仏教には、大ざっぱにいって浄土門と、聖道門とふたつあります。浄土門というのは、大なり小なりひとつの理想の天国である浄土というのを思いえがいて、それを根拠地として、あらゆる現象、あらゆる思想にあい対してゆくという考え方だといえます。そのばあい問題になることは、他力というのと自力ということです。そういうところから入ってしまいますと、親鸞は、言葉はいろいろあるでしょうが、絶対他力の思想を根底においている、日本ではたいへん珍しいタイプの思想家だとおもいます。

絶対他力という言葉があるかどうか知りませんが、親鸞のえがいている他力はどういうことかを幾つか吟味してみます。知識あるいは智というものを絶対他力のところに位置づけてしまうと、どういうこたになるかをかんがえてみます。『未燈抄』の中に、親鸞が法然から聞いた言葉というのがありますが、浄土宗の人間は、いわば愚者として往生するようにと法然が云ったことをじぶんはたびたび聞いている、というふうに親鸞が語っています。つまり、愚者でないと絶対他力というところにゆくのは不可能なんじゃないかということが根底にあるわけです。知識というものはどこまでゆくかといいますと、どんどんつきつめていきますと、結局、その時代の世界思想の最高水準のところまでは、学べば学ぶほどどんどん上昇していくわけです。つまりそこまではゆきつくのです。

それでは、知力による認識が世界思想の最高水準まで達したとき、あとはどこへいくんだろうかということが問題になります。大ざっぱにいえば簡単でして、一人の個人がそこまでいったときは、大体、年とって死ぬ間際になりますから、そこで死んじゃうというふうになるか、もうひとつの考え方というのは、いわば、愚者になるという考え方なんです。それは世界思想の最高の水準まで到達した知識、つまり知力による認識というのは、その地点から逆に、親鸞なんかがいう愚者、今の言葉でいえば大衆ということだとおもいます。その大衆も目ざめた大衆ではなくて、目ざめない大衆ということだとおもいます。その世界思想の最高水準に達したところで、知識はもう一度、親鸞のいう愚者といいますか、つまり大衆というものをどうやって捉えてゆくかという課題に立ち向かう、そういうことが知識のあり方としてひとつのタイプになります。

法然もそうですけども、親鸞なんかさらに自覚的で、このばあい、知識が世界思想の最高水準まで到達してゆく過程を〈往相〉と捉えています。ひとたびそこに達し愚者というものを捉え、自らも愚者になりさがっていくゆく過程、それを(還相〉というふうに呼んでいます。知識というものは〈往相〉で止まり、その往相の到達したところが浄土であるという知識のあり方というのもあるのですけども、知識が往相を歩き尽くしたときに、再びその地点から愚者を捉える、いわば還る過程があるので、知識の総体性を問題にするばあいには、親鸞なんかの考え方は、たいへん見事で、往相回向とか還相回向とかいうふうな言葉でいっています。回向というのは方向づけ、今の一般的な言葉でいえば指向性ということなんで、それは往相指向性というものと還相指向性というのとふたつあるとされます。そして還相指向性の、つまり知識が愚者を捉える過程というもの、あるいは大衆を捉える過程というのは、そういう過程に入って、その過程を含めて知識というものの総体性をかんがえたばあいに、知識の本当の具現した姿が現れてくるという考え方は日本の浄土真宗の典型的な考え方で、たいへん見事だということができます。

宗教のある段階でいちばん重要になるのは、人間の生死というばあいの、「死」の恐怖にどう応えるかということです。死というものにたいして、それをどうやってとび超しちゃうかというようなことが大きな問題なんですが、これについては、中世の浄土宗とか日蓮宗とかいう新興仏教も、天台宗、真言宗の旧仏教も共通なわけです。それは一心に身体的な修行をすることです。頭の中で、想像力でもって浄土を思いえがくことができる心身の状態まで修練してゆきます。そして浄土は荘厳な風景と荘厳な美しい生きものに取り囲まれた理想郷なんだということを、いわば瞑想のなかで思いえがけるところまで観想の方法をたどります。そういう修行を積んで、そういう浄土を思いえがけるようになったときに、浄土というものが身近に現前できることになってきます。そこで死後の世界は身近になって、じぶんにやってくるという考え方は、旧仏教にも新興仏教にも共通であったといえます。それにともなう儀式めいたこと、それから方式めいたことを経ると、御来迎がえられ、仏が死者をお迎えにきて荘厳にしてくれるという考え方になります。それにたいして親鸞の絶対他力ともいえる考え方では、儀式もいらないし、浄土というものを荘厳な風景として思いえがく修練もいらない。ただ〈信〉が定まって名号をとなえたときに往生は定まるのであって、それ以外のことは全部よけいな装飾品だということになります。これが人間の死にたいする絶対他力の考え方の特徴です。これはまた旧仏教の否定の論理になっています。浄土の荘厳な風景を修行や境地によって思いえがく修練をして、それが如実になったときに、人間は浄土に到達するという考え方や、人間の死の間際になったときに仏が迎えにきて死を荘厳にしてくれるという考え方、そういう考え方にもとづく儀礼、儀式は一切どうでもいいことになります。

親鸞が立合ったのは、中世の入口で、社会的政治的な転換期に遭遇していますから、戦乱や飢餓で死ぬ人がたくさんいます。そんななかで、飢饉とか窮乏にたいして、親鸞の考え方は、どう取られたでしょうか。現世の人間は、ひとを愛し、ひとに執着し、そしてひとを不憫におもい、助けようとおもっても、おもい通りに実現するのはむずかしいとかんがえます。そうだとすれば、人間の生の根拠、存在の根拠を、いわば浄土においてそこからの大規模な慈悲をかんがえるより仕方がない。それは絶対他力のおおきな考え方のひとつだとおもいます。つまり飢饉、窮乏にというようなところで民衆がごろごろとうち倒れている。そういうものをいとおしみ、不憫におもい、それを助けうる助け方というのは、絶対的であるよりほか仕方がない。そうだとするならば、人間の今生というようなもの、つまり現世というようなものも人間の存在にとっては仮の姿のひとつにしかすぎないというふうにかんがえたら、完全な救済が可能なんだという考え方です。つまり人間の存在の根拠を浄土に置いてしまって、現世に人間は仮の姿を現しているにすぎないんだというところまで徹底して生死の問題をかんがえれば、根底的な人間の救済は可能じゃないか。あるいはそうかんがえるより仕方がないじゃないかというのが、親鸞の絶対他力の考え方のおおきな特徴だとおもいます。

それからもうひとつは、〈善悪〉の問題があります。〈善悪〉の問題では、悪を恐れることはないんだというのが、他力を絶対化するおおきな根拠のひとつになります。『大無量寿経』のなかに阿弥陀仏がかける四十八の願がありますが、阿弥陀仏が下品(げぽん)の下生の人間でも全部救済すると誓願している。その誓願の強さと規模にくらべれば、人間の現世でなしうる悪はたいした規模にでないから、悪が浄土への救済の妨げになることはないということです。親鸞は、いろいろな云い方をしています。例えば、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」。普通だったら、悪人だって救われるんだから、善人はなおさら救われるんだというふうに云うべきところ、まったく逆にして、善人さえ救われるんだ、まして悪人ならなおさらだという云い方をしています。それからまた、悪なんていうのは恐れることはないんだ、弥陀の本願にくらべれば、どうせ人間の悪なんて相対的なものにすぎないんだから、そんなものは全部救済して浄土に突っ込んでしまう、それだけの強さはあるんだ。だから人間の悪なんていうのは問題にならない。悪が救われないといことは絶対ありえない。むしろ悪人のほうが自力の善をあきらめ、他力を頼る契機はおおいはずだから、悪人のほうが救済のおおきな契機をもっているという考え方を打出しています。

絶対的な他力で浄土を求めるために、現実の場でどうすればいいのかということになりますと、一遍でも十遍でも称名をとなえ至心に信心すれば即座に救われ浄土へ往けるとかんがえます。別に自力で浄土を思いえがく観想の修練をしなくても、自力で知識を積み、経験を積み、思想を積みということをしなくてもよい。そんなことは全部いらない。ただ称名ををとなえればいい。それは一遍となえても十遍となえても同じで、浄土へ往けるという考え方です。難行にたいして易行という考え方で、浄土に往くにはなにもいらない。ただ至心に信じ称名念仏さえあればいいということになります。この考え方は、当時、相当な誤解や弊害を及ぼしたようにおもわれます。慈円の『愚管抄』をみますと、法然のようないかさま師たちが出てきて、「南無阿弥陀仏」といえば全部救われるというふうなことを云って、無知蒙昧な輩を集め、それに乗っかった輩がわあわあやっている。わあわあやっているうちに、乱交パーティみたいになっちゃっている。まったくとてつもないことを云う者が出てきたもんだといった意味のことを云ってるいます。たしかに、称名すれば救われるんだ。それじゃ称名をとなえようということで、人びとが寄り集まってきて講をつくりとなえる。それはひとつの熱気であり力であるという形で流布されひろまってゆく。その有様は往相を登りつめることが知識の課題だとおもっていた、天台真言系の旧仏教からは、まったくお話にもならんデタラメを云う奴が出てきて、それに迎合する奴もあらわれわあわあやっちゃっているとみえたでしょう。それがときには乱交パーティみたいになっちゃたりする。まことに嘆かわしい次第だという批判が出てきたわけです。たしかに表面的にはそういうことになるわけです。

それならば、旧仏教はなにをやっていたのか。加持祈祷や呪い(まじない)をやって、厄払いをするとか、病気を払うとかで、朝廷や貴族を守護するとか、そんなことをやっているかとおもうと、僧兵を養って乱に備え、まだ力で言い分を押しとおすという状態でした。その迷妄の度合いと称名していれば浄土へ往けるんだとわあわあ騒いでいるのと、ばからしさはどっちが深いかといえば五十歩百歩だったということでしょう。

親鸞は徹底して僧侶たちがやっていることは知識の課題でも〈信〉の課題でもないと説いています。〈往相〉の過程をつきつめたい知識にとっては、愚者をどう捉えられるかが問題です。〈還相〉の過程が、思想にとって最後の課題だという考え方を浄土系の新興宗教はとったのですが、その考え方を本質的なはっきりさせることが、親鸞が思想家として最も苦心し、力を注いだところでした。しかし、教えとしては単純で称名をとなえ至心に信ずれば救われるというだけです。そして無知蒙昧な人たちが、それじゃ称名をとなえればおれは浄土に往けるんだということでわあわあやっている、そういう現象を〈往相〉の眼で眺めてますと、慈円のが『愚管抄』で云っているように、まことにとてつもないことを云い出す僧侶が出てきて、とてつもなく人を集めているとしかみえなかったのです。しかし法然や親鸞が思想家として云いたかったのは、そういう現象的なことではなく、なぜ称名をとなえれば救われるのかを教理の課題としてつきつめ、そこから〈還相〉の課題に還ってゆくことでした。現れとしては、称名をとなえれば救われるんだということで、わあわあ騒いでるということになりますが、そう捉えたら、たんなる知識の上向過程にしかすぎません。〈往相〉と〈還相〉とが両方たどりえたときに、知識ははじめた総体の姿を現わします。その場所を確定することが大切でした。これはまことにくだらん風景であるという見方が正当であるのか、あるいは知識、あるいは教学の課題として最高のところまでつきつめて、しかしそこで止まりだという、いわば〈往相〉なところで止まりだということで、実際問題としてなにをするのかといったら、加持祈祷ぐらいしか指示しない。加持祈祷とか厄払いの祈祷みたいなもんしかない。そんなことになんの効力もあるわけもないんだけども、そんなことしかできない。それがもし知識の課題であるとするならば、それはまことにおかしいんだ。法然のいう浄土は愚者として見出されるものということを、つきつめなければ完備したものにならない。そんな親鸞の考え方のほうが知識の総体的な課題として、はるかに見事な接近の仕方だとかんがえられます。当時の知識人たちを顰蹙させたような、ばからしい光景のなかに本当の思想はあったかもしれません。当時としてはわからないわけで、〈往相〉の過程だけが宗教だという考え方から讒訴されて、法然をはじめ重立った弟子たちが諸国へ流されてしまいました。


〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ④ 西行小論

2021-04-18 10:50:00 | 言の葉綴り

言の葉114 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

 西行小論


投稿者 古賀克之助


〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 西行小論より


西行小論


西行が生涯をかけて生きたのは、ちょうど崇徳、後白河両派が、政権と愛欲の問題をからめてあらそった保元、平治の内乱をへて、平氏を中心とする貴族、武家の合体時代がしばらくつづき、やがて束の間のうちに反平氏勢力による鹿谷の陰謀事件となり、それが治承四年の頼政、頼朝、義仲の挙兵にまで発展し、ふたたび源氏内部の争いをへて鎌倉幕府の成立となるといような、貴族社会の没落と武士階級の興隆を象徴するあわただしい過渡期の動乱であった。

出家以前の西行は、鳥羽院北面の武士だったとされる。

当時、いくらかでもいんねんのあった堀川、鳥羽、近衛などの天皇は、売官によってかろうじて生活をささえるほどに衰弱しており、貴族や武士たちの勢力に浮き草のようにかつがれて、「あさましき」政争をくりかえしていた。

保延六年(一一四〇)、西行は、貴族社会の家人であることを嫌って、武家をすて、動乱の外に立っている。個人的な理由があったにしろ、なかったにしろ、西行の出家が、剃髪して坊主を装うことで、現実の圧力に対する安心感のささえにしたり、世間の風当たりをちいさくしておいて、かえって世俗的な執着を露骨にむきだすというような、当時流行の出家とは逆のことを意味したのはあきらかである。

かれが、そむき果てたのは、政争と愛欲の葛藤で、盲目的にいがみあった崩壊期の貴族社会だったが、もちろん、武門勢力に率いられて、山野に死闘していた単純な野人たちとおなじように、なぜともわからずに動乱にくわわってゆくためには、あまりに自意識がつよすぎたようである。こういう人物は、いつの時代でも、思想詩人としての役割を負わなければならない。たとえ、かれがねがってもねがわなくても、過渡期の時代的な苦悩は、かれの一心に集中して受感されてくる。かれの自意識がつくりだす苦しみとか、あはれとかは、生粋に内部からやってくるようにみえるが、そこにどうしても時代の苦しみやあはれが、形にそう影のように離れないでつきまとってくる。西行は、きっと、どこをほっつき歩いても、何気の山岳にこもっても、権力の交替する首都をのがれることができなかったのである。


世の中をすててすてえぬここちして都はなれぬわが身なりけり


こういう西行の率直な詩には、時代の方で、かれを都から離そうとしないという意味が、複雑なかたちで象徴されているとみなければならない。西行にとって、出家は、たいせつな意味をもっていた。西行自身も、その意味をきわめてみたくて、何度もじぶんのこころに問いかけるような詩をかいているが、うまくゆかなかった。ようするに、現実社会に未練がありすぎるから、かえって厭世的にもなるのだ、というような逆説的なところまで、じぶんのこころを追いつめてはみたのだが、かれの社会への関心とか執着とかが、思想詩人としての過敏な現実洞察力から直接やってくるので、現実のほうでかれを捨ててはくれないのだ、ということをさとりうべくもなかったのである。


雲雀あがる大野の茅原夏くれば涼む木かげを願ひてぞゆく

心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕ぐれ

風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎

駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥たれともわかぬ声きこゆなり

年たけてまた越ゆべしと思ひきや生命なりけり小夜の中山


Wander geselleのように各地を行脚しては、そのあいだに、とまり木にとまるように山岳に住居をすえるという生活をおくったため、西行が自然をテーマにしてたくさん詩をかいたのは当然だったが、これらの詩は、自然のなかをとおりすぎるこころの矛盾が、詩的な本質を作っているというように表現されている。もとより、叙景と抒情のあいだに境界などかんがえてはいないのだ。自然は西行にとって観念のスィステムとなりえないで、あたかもこころの世界に映っている社会そのもののようであった。西行は、おしいところで幽玄からも有心からも外れているといった風な、失敗作をたくさんつくっているが、もちろん、それがおしいというのは、当時の詩論の美学的な基準によるのであり、西行にすれば、そんなことは問題ではなかったであろう。ただ、かれが問題としなければならなかったのは、自然をテーマにしても、苦しげな内心の矛盾がひとりでに吐き出されてしまう理由が、どうしてもわからないため、思想的な体系をつくりえなかったことであったにちがいない。

中世の浄土思想は、もう戸口のところまでやってきていたはずであった。西行が予感したのも、それにちかいものだったろうが、たずねる、もとめる、ねがふ、というような願望のコトバを、詩のなかにいくら吐き出してみても、際限なくあとには、なにかはっきりわからないものがのこっているように思われたにちがいない。西行こ「墓地」詠が独特の象徴的な意味をもってせまってくるのは、そういう点についてである。


鳥部野を心のなかにわけゆけばいまきの露に袖ぞそぼつる

亡きあとをたれと知らねど鳥部山おのおのすごき塚の夕ぐれ

かぎりなく悲しかりけり鳥部山亡きをおくりてかへる心は

舟岡のすそ野の塚の数そへてむかしの人に君をなしつる


ほんとうは、西行のこころを占めていたのは鳥部野の墓地に葬られて、しずかに眠っている死霊でもなければ、むかしの亡き人でもなくて、内乱に加わって、山野に現にごろごろと打ち捨てられた死人武者や、飢餓のため悶死したり、さまよったりしている兵火のギセイ者たちのことだったかもしれない。しかし、現実の動乱に眼をこらしているかぎり、かれの思想は体系をとりえなかったのである。かれが、どこかに、自分の思想が成熟してゆく道すじをもとめようとすれば、動乱の死者ではなくて、墓地に眠った死霊について思いをこらさなければならなかったのかもしれない。墓地をとおって地獄や浄土へゆくみちを思い描くほうが、こころが定まったのかもしれない。「鳥部野を心のなかに分けゆけば」というのはそういうことではなかったのだろうか。西行の思想は、あきらかに、中世の浄土イデオロギーにたいして、先駆的な意義をもっているとおもわれるのだが、そのためには、じぶんのこころのなかで、地獄のような矛盾の性格をおしひろげ、時代にたいしても徹底的な洞察をつけくわえることがひつようであった。いずれにしても、過渡期の内乱と政争を否定して、詩人として生きることを思いきめたときから、かれがゆくべきみちは、いかにして、じぶんのこころに映った現実の動乱に、体系を与えて安心立命をえるかということのほかにはなかったはずであった。もちろん、西行には安心立命はやってこなかったのだが、柄にもなく外観だけは当時の山岳仏教の流行にへつらって出家をし、詩壇の流行にならって古今集を粉本にして詩をつくっても、たどっていった必然の道は、平地仏教思想のみちであり、幽玄の詩論に異をたてるみちだったのはあきらかである。

西行を浄土イデオロギーのちかくまで駆り立てるには、たぶんかれの独特なこころの世界があずかって力あった。


(中略)


源空が浄土宗をひらいたのは安元元年(一一七五)であり、西行五十八歳のときである。ここに中世思想の主流が、体系的なかたちをとりはじめたのだが、すでに出家した以後の西行の、詩人としての独自な悩みのなかに、それははっきりとした形でつかまれていたということができる。源空から親鸞へと発展していった封建イデオロギーとしての浄土思想は、西行の子供うたや、こいうたや、生活歌のなかに、現実上の基盤と思想上の骨組をはっきりとあらわしていた。日本の中世思想は、けっしてヨーロッパのように、教会と神学と理想の聖女のえい像をたどってつかまえられたのではなく、動乱と厭世と幼児がえりのこころをとおって、親鸞の逆説的な単純な信仰へゆきついたのである。『梁塵秘抄』のなかの有名な


あそびをせんとや生れけん

たはぶれせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば

我身さへこそゆるがるれ


こういう俗謡には、かなり正確な中世思想への導入口がかくされていたのではないだろうか。西行の子供をよんだ「たはぶれ」歌は、もちろんこの俗謡にはくらべれば、はるかに苦がく、はるかに論理的で、いっさいの気分的な情緒や、空想力を排除した強じんさをもっている。西行は、矛盾にみちた倫理感をきたえて、『往生要集』の著者が、異常なまでにしつように描いてみせた罪のイメージとおなじイメージを描いてみせたのである。


あはれあはれかかる憂き目をみるみるは何とて誰も世にまぎるらん

憂かるべきつひの思ひを置きながら仮初の世にまどふ儚さ

一つ身をあまたにかぜの吹き切りてほむらになすも悲しかりけり

なべてなき黒きほむらの苦しみは夜の思ひの報いなりけり

ゆくほどに縄のくさりにつながれて思へば悲し手かし首かし


(中略)

西行は、当時の理論の規範にのっかりながらも、なお、西行以外のたれもつくりえなかった詩をいくつかのこしているのだ。


ませにさく花にむつれてとぶ蝶の羨ましきもはかなかりけり

有明はおもひ出あれやよこ雲のただよはれつるしののめの空

高尾寺あはれなりけるつとめかなやすらひ花と鼓うつなり

弓はりの月にはつれてみし影のやさしかりしはいつか忘れん

年へたる浦の海士びとこととはん浪をかつきていくよすぎにき


治承四年、源三位頼政は、宇治平等院に、源頼朝が伊豆に、貴族階級、平氏の合体政権の打倒の兵をあげた。西行はすでに、晩年にたっしていたが、貴族階級の没落と封建階級の興隆とを、まのあたりにみながらいくつかのいくさのうたをつくっている。そのなかの一つ。


世の中に武者おこりて、にしひんがし北南、いくさのならぬところなし、打ち続き人の死ぬる数きく夥し、まこととも覚えぬほどなり。こは何事の争ひぞや。あはれなることの様かなとおぼえて


死手の山こゆる絶間はあらじかし亡くなる人の数つづきつつ


かれは、この動乱が、封建社会の成立にいたる過渡期の動乱であることを洞察したわけではない。こは何事の争ひぞや、あはれなることの様かな、というのは西行の本心であったろう。もちろん、なぜ、武者がおこらねばならなかったかを知っていたわけではない。だが、青年期に、すでに貴族社会の家人として、そのあさましい政権の争いと売官生活とをみていたにちがいない西行が、出家というかたちで、かれらからはなれ、動乱からもはなれたとき、もはや自分の生涯をどこへむかって走らせるかの目的を失ったといえる。そして、かれの詩は、思想詩人の宿命によって、過渡期の現実的悩みを反映せずにはいなかったのである。



〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ③ 歎異抄に就いて 

2021-04-06 10:51:00 | 言の葉綴り

言の葉113 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

 歎異抄に就いて 

 亡き吉本邦芳君に捧ぐ


投稿者 古賀克之助(吉本さん同様、当方も信の外にいるものです。)








〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 

歎異抄に就いて 

亡き吉本邦芳君に捧ぐ より抜粋







——むさぼりて厭かぬ渠ゆゑ

  いざここに一基をなさん

  正しく愛しき ひとゆえに

  いざ さらに一を加へん  

  (宮沢賢治「詩の塔」より)


僕は親鸞の詩人的資質が仏教の倫理体系に遭遇した場面を想像してみる。殊に無量寿経や阿弥陀経の途轍もない観念論や観無量寿経の心理学に面した折の、彼の困惑を想像することは意義あることだ。道元等同時代の宗教家がすべて仏教体系の内部に帰したとき親鸞独りがこの体系を突き崩し、引退かざるを得なかった理由がはっきりするだらうから。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり(歎異抄十九)」それほど、彼の資質と三部経とは異質のものだ。

僕は且つてルッターの「ハイデルベルヒの論争」を読んで、諸家が仏教に於ける親鸞の位置を、キリスト教に於けるルッターに比較する理由を合点したが、資質は更に親鸞の方が悲し気である。

親鸞の文章にある唯信や浄土の理念は、僕を困らせはしないが、あの流れる非調の韻律は僕の胸を外れてはゆかぬ。僕は初めに所謂浄土三部経といはれる大経、阿弥陀経、観経には資質的には反撥しながら、理念的には惹かれた親鸞を空想したまでである。いや、これでは言葉が悪いかも知れぬ。資質的に反撥したからこそ理念的に惹かれていったと云へるはずだ。何故なら、彼こそこの様な逆説心理を思想の骨格として歩んだ唯一の宗教家だったから。

親鸞の思想系列は成立過程としての「三願転入」の釈義が諸家により行はれているが(例へば三木清の遺構「親鸞」についてみられたし)僕は余り信じない。僕には彼が体系など企んだとは思はれぬのだ。「誠に知んぬ悲しき哉愚禿鸞愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず。真証の証に近づくことをたのしまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)

この様な感懐を各所に浮かべてゐる文章が、何故に体系の書でなくてならぬのか、僕は同意しない。

教=無量寿経、行=第十七願、信=第十八願、証=第十一願、真仏土=第十ニ願及び第十三願

この様な対比など愚かなことだ。

けれどこゝに確かな事実がある。それは彼に三度の思想的転期があったといふ事だ。その時期に就いては諸家の一致した通説を僕も疑わない。今日残されてゐる親鸞の行伝(例へば「本願寺聖人親鸞伝絵」についてみられたし)には幾多の虚構と誇張が混ざってゐるが「然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり」と第三願への転入を告げた親鸞自身の真実だけは信じよう。

彼は夢想家であり、時には感傷家でさへあったが、恒に現実の悲しみが誇大に写ってならなかった彼の網膜に僕は何等不潔なものを見出すことが出来ぬ。当時の仏教家が理性と感性との統一を武器として、人間存在の深義を尋ねはじめた時、人間の生死と歴史的現実の信義を徹底的に凝視し、そこに人間存在の危機を刻み出したのも彼のその網膜に外ならなかった。「正像の二時はおはりにき如来の遺弟悲泣せよ」(正像末和讃)瞋りであったか、祈りであったか。

僕たちは歎異抄を第三願の骨髄に見る。「万行諸善の仮門」を出て「善本徳本の真門に廻入し」更に「選択の願海」に転入したいと云ふ彼の言葉を疑わないが、悲しいかな僕は信仰を持たぬ。僕はこゝに唯一の悲しみを提げた人間がゐたと云ふ真証さへあれば、又遠く旅立つに事欠かないやうだ。

歎異抄十九章のうち前十章が親鸞の語録の祖述であることは周知だ。僕はこの十章に何等曖昧な言葉も偽念も見出すことが出来ぬ。被害妄想と思はれる徹底的な自己謙譲と、空前の自念放棄のなかにいさゝかの偽りをも感ずることが出来ぬ。確かにひめられてゐるやうだが、稀有の苦悩と忍耐とが。否これは僕の思ひ過ごしであらうかそんな筈がない。僕は天性などと云ふものを信じてゐないのだから。すべて現在あるところは、自らの意思と宿命とで得たものだ。親鸞の絶対他力の地も自ら得たもので、流れて到った自然の地ではあるまい。それが自然に見えれば見ゆるほど——

「世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にて生死を出でずありし故に(御消息集)」流転の段階と宿命とを遠き劫初に視る親鸞の眼は如何にも悲し気であるが、歎異抄全篇を貫く、これが光であるやうだ。彼はすべての善は不要であると説く、それは念仏にまさる善はないからだ。すべての悪は畏ろしくない。人間のやる悪などたかが知れてゐるのだ。と——

法文等に疑質があれば南都北領のゆかしき学生に問ひたまへ、親鸞は念仏しか知らぬのだ。「いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定のすみかぞかし(歎異抄ニ)」

女々しい自嘲も陶酔も感ぜられぬ。慈円の如き仏教を以って教養体系の一つと考えた知識人が、法然親鸞の出現を目して「誠にも仏法の滅相うたがひなし」と罵ったのも故なきことではない。親鸞の膨大な夢想と苦悩とを凡庸な知識人が呑み得た筈がない。さあれ苦しき事を人は好まない。何故に親鸞だけが、それを耐えたのであらうか。僕は言わぬ、言ってはならぬのだ。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人、つねにいはく悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや、この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり(歎異抄三)」僕はこの言葉の親鸞的真実を彼の宗教々義から演繹しやうとは思はぬ、唯常人の称へる善悪が微塵のやうに吹き飛ばされ、改変されるのを見る。それは壮観であるのか、いや悲しみ極まる筈だ。何故なら親鸞の壮絶な人生的苦悩を、僕は言葉の裏に見ないわけにはゆかぬからだ。


ゆづりわたすいや女事

みのかはりをとらせて、せうあみだ仏のめしつかう女なり。しかるをせうあみだ仏、ひむがしの女房にゆづりわたすものなり、さまたげをなすべき人なし、ゆめゆめわづらいあるべからず、のちのちのために、ゆづりふみをたてまつるなり、あなかしこあなかしこ


これは親鸞が吾が子のみうりのために書いた証文だ。僕たちがこゝに彼の悪機を見ようが善機を見ようが自由である。僕は大感傷を却けてこの身売証文を読むのだが、彼の悲しみには到達しないやうだ。何故であらうか、僕は秘す。けれど親鸞はひそかにもらした、その機微をその真実を「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と——

弥陀のはからひに徹するほど彼はますます孤独でなくてはならなかった。それは彼に生涯伴った絶対矛盾であった。彼は肉親を突き放つ、自らをめぐる特殊性から逃れんがために。

彼の外には唯普遍的な世界があり、そのなかに彼は孤立する点だ。世界は唯無心に彼を載せている——彼がもとめてゐたところではあるまいか。即ち絶対他力本願の生まれるために、それが必要な土壌であった。彼は「総じてもて存知せざるなり」「面々の御はからひなり」と云ふような、つき放った借辞法を多く用ひてゐる。これは重要だ。それらは各々彼の思想の中核に衝き当たって反射した言葉だから。「親鸞は弟子一人ももたずさうらふ(歎異抄六)」

ともあれ歎異抄で親鸞といふ一個の人間に衝き当たるために、僕たちは弥陀とか、往生とか念仏とか云ふ一見重要に思はれる概念を捨てていかねばならぬ。


教行信証をはじめ、彼の主著は大体仏典の要門を集成したものだが、その折々にもらす彼の感懐だけが、高い格調を以って鳴りはじめるのは何故だらうか、どうして彼は仏教者でなくてはならなかったのか、「念仏は行者のため非行非善なり、わがはからひにて行ずるにあらざれば非行と云ふ。わがはからひにてつくるにもあらざれば非善といふ、ひとへに他力にして自力をはなれたるゆへに行者のためには非行非善なりと云々(歎異抄八)」そうだらうか、僕は疑う。人々は確に誤ってゐる、心に則って思想が生まれるので、思想に則って心が歩むのではあるまい。

されば彼の主著中の感懐は仏教のために鳴らず、むしろ人間性の機微のために鳴ってゐると思ふのは僕の僻眼か。

「たまたま行信を得ば、遠く宿縁をよろこべ。若し又、このたび疑網に覆蔽せられなば、かへりてまたを曠劫を逕歴せん(教行序)」行路が難いときたまたま仏法が彼を捉えた。僕が尊重するのはそれだ。

僕は且つて往生要集を読み源信の正気を疑った事がある。あの陰惨な地獄の絵巻を捻出した歴代の仏家のレアリズムも不快だが、僕はそれを集成して、勧善の手段としてゐるような源信の心理が憤ろしかった。誰のために僕は憤ったのかいまは忘れた。僕たちは親鸞が源信を祖として学び、法然の衣鉢を継いだのを知っているが、この三代目は決して亜流ではない。彼は人間心理に通暁したが、決して人をおびやかさなかった。彼に於て初めて往生は高らかな再生の謳歌であったようだ。人間は未だ生死の現実を超えはしないが、彼は思想を以って否実力を以ってこれを超えた恐らく最初の人であった。


念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこゝろおろそかにさぶらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふらんと、まうしいれてさぶらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯信坊同じこゝろにてありけり、よくよく案じみれば、天におどり、地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり、よろこぶべきこゝろを、をさへてよろこばせざるは煩悩の所為なり(中略)久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふことまことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ、なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまひるべきなり(歎異抄九)



歎異抄の中核だが、恐らくこの十数行の中に親鸞の最も重要な思想が秘められてゐる。畏るべき逆説のなかをかれは驕らず静かに歩んでゐるやうだ。僕たちは彼の相に不安な片鱗さへも認めぬ。だか思へばこれは空前の思想である。死とは彼にとって生であったのか、死であったのか。愚かな反問をしてはいけない。僕たちが身を以って生死を解決する日は「娑婆の縁」つきた日だ。その日は遅くも早くもやって来ない。何と当たり前の事を彼は言ってゐるのか。併も彼の外に誰もこの当然の事実を改めて確かめる者はゐなかった。

さあれ僕は来世などを信ずる気にはならぬ。併し生きることが死よりも遥かに辛く悲しいことを少しも疑はない。僕たちの感官は「所労」のために痛まず、むしろ精神のために痛むからだ。煩悩がない奴は人間ではないと親鸞は僕達に繰返してやまぬ。いやむしろ煩悩のない奴は人間の資格がないと、僕たちにはそのやうに聞えてくる。人間がなくて浄土など要るか、それが彼が抱いた最も確かな思想だ。

僕はこゝで一応親鸞の思想と訣別せねばならぬ。この章以後は率直に親鸞の響だけが伝はらぬからだ。歎異抄の著者は、専ら親鸞教義の鮮明化と異解の論破に忙しいようだ。これ以降提出されてゐる疑質は末梢で、最早僕を動かしはしない。


たとひ諸門こぞりて念仏は、かひなき人のためなり、その宗あさしいやしといふも、さらにあらそはずして、われらが如く、下根の凡夫、一文不通のものと信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへ(中略)たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、器量及ばざればつとめがたし云々


僕らはこの言葉の中から唯亜流の弁解をきくだけだ。決して僻眼ではない。親鸞は仮門を出て真門に入った。難を捨てゝ易に就いたのではない。併るに最早こゝには親鸞の逆説も、あの空前の思想も感じられないではないか。何故であるのか、亜流はつねに形骸を守るに忙しいからだ。


親鸞は早くから人間の無意識の構造に眼を注いだやうだ。後人の附会として一笑するわけにはゆかぬ。彼の無意識の構造への味到は恐らく「弥陀のはからひ」と彼が云ふ所と関聯してゐる、間違ひないところだ。人間の善悪の観念の無意識域への拡張は、明らかに彼の思想の一つの骨格をなしてゐた。「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり(歎異抄十九)

何も何くはぬ顔をしたかったわけではない。唯それを挙げつらはぬだけだ。例へば愚禿抄の中から二隻四重の体系を引出すことは容易である。併し今となってそれが親鸞と出遇ふ道であらうか、僕はむしろ愚禿抄の中の「愚禿が心は、うちは愚にして外は賢なり」を見出して其の重たい自嘲に一念を費やすことを好むのだ。

彼は弘長二年十一月二十八日天寿を全くして死んだ。


(以下略)