言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

芭蕉 ④ー愛知県の地図で辿るー 伊良湖岬

2018-07-21 16:32:58 | 言の葉綴り
言の葉 59 芭蕉 ④
ー愛知県の地図で辿るー 伊良湖岬

芭蕉 その鑑賞と批評(全)
山本健吉著 発行所 (株)新潮社 昭和32年8月25日発行より抜粋



『笈の小文』 東海道の部

鷹一ッ見付てうれしいらこ崎
(笈の小文)
愛知県地図 発行所旺文社
愛知県田原市伊良湖町古山






紀行には「影法師」の句につづけて、「保美村より伊良古崎へ壹里斗も有るべし。三河の國の地つゞきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、萬葉集には伊勢の名所の内に撰び入れられたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など哥にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし」という文章があって、この句が出ている。伊良古崎とは渥美半島の突端で、志摩半島に相對し、渥美湾・伊勢海を抱えこむ格好になっている。萬葉では伊良古島とも言った。
杜國の隣家を訪ねた翌日は、三人で馬に乗って伊良古崎に出かけたが、越人の書簡(正徳五年九月付)に、
「三人彼濱に出て、打ちよする空せ貝ひろひ、さらに、絶景の面白さに、かへる事ともにわすれ侍りて、いふ共なくやつがれ、伊良古の春三十三年おくれたりと申せしは、予が発句也。彼も杜國も只正直成句かな。爰に来らずは、此發句は得聞えじと笑はれしも」云々とある。芭蕉はここで、「伊良古崎似るものもなし鷹の聲」(伊良胡崎)「夢よりも現の鷹ぞたのもしき」(鵲尾冠)と詠んでいるが、群をはなれて前のは初案であろうし、後のも別案かと潁原退蔵は言っているが、別想であろう。
この句は表面の句意ははっきりしているが、ただ一點、空を翔ける鷹でなく、下の岬の岩かどこかに翼を休めている鷹と感じ取る志田説と、岩や松などにとまっているのではなく、遠景に、伊良古崎の岬端の天を黒光りつつ翔けていてくれないと困るという楸邨説と、鑑賞上二説に分かれている。私は直覺的に、天翔けっている一羽の鷹を描き出して、何の疑問も持たなかったが、志田説は「見つけて」という言葉からこう感ぜられるのが自然のようだという。だが伊良胡が南の海のはてで、鷹のはじめて渡るところという知識を持って行った芭蕉が、天翔ける鷹を發見して「見つけて」と言ったことこそ、自然ではないのか。近ごろの歳時記には、「鷹渡る」という季語も冬季に立ててあるが、それはサシバ、ツミ、ハイタカ、チョウゲンボウ、ハヤブサなどの種類である。南方へ渡る鷹の壮観に接しようとの気持が、一行にはあったわけである。
このとき芭蕉が鷹の聲を聞いたことは、「夢よりも」の句の前書に「杜國が不幸を伊良古崎にたづねて、鷹の聲を折ふし聞いて」とあることでも分かる。サシバならピッピイーと二聲に鳴く。この句は、鷹の聲を聞いたことに感を發して、夢に見ていた杜國に再會することができて、その現實の聲を聞きえた喜びを「たのもしき」と言ったのである。夢に聲を聞いたというのは、愛情の切實さ、なまなましさを物語るものである。もっともこの句は、 鷹に杜國を寓した意圖があまりにあらわであって、佳句とは言えないが、「鷹一ッ」の句になると、杜國との再會の「うれしさ」は、裏にかくれてしまっている。初案と思われる「似るものもなし」にも、杜國の容姿をたたえた気持が寓されていよう。改案の句では、再會の喜びが、そのまま風景句のなかに浸透して、「金(こがね)をうち延べた」ような表現となっている。
前文に、芭蕉は「萬葉集」のことを言っているが、これは麻績王(をみのおおきみ)の歌をさしている。別に『常陸風土記』『日本書紀』にも傳えられた貴種流離譚であり、萬葉で傳えられた歌は、「うつそみを麻續の王海人なれや伊良 の島の玉藻刈ります」というよみ人しらずの歌と、これに「哀しみて和へたまへる」麻續王の歌、「うつそみの命を惜しみ波に濡れ伊良胡の島の玉藻刈り食む」とである。貴人が罪を得てさすらって来て、佗しい生活をしているという、海部の悲劇的文學の傳統的な類型であって、木梨軽皇子と軽大郎女との物語から、小野篁・在原業平などの物語を経て、『源氏物語』の須磨・明石の巻や『義経記』にまで、その傳統は脈々と傳わっているのである。
芭蕉は伊良胡に流人杜國を見出したとき、必然的に麻續王の境遇を連想せざるをえなかった。伊良胡は歌枕として、つねに海人や流人の佗しい境遇を連想するのが例になっていたのあって、「玉藻かるいらこの蜑」とか「蜑の刈るいらこが崎」とか、枕詞のようにつく言葉は決まっていた。杜國は尾州藩の領分からの追放者であって流人ではないし行動の自由は持っていたが、荒涼たる南海のほとりの茅屋は、やはり配所と言うに相應しかった。だからここでは、鷹と杜國と麻續王とのイメーヂが三重に重なり合っていると言ってよい。その三つが、「伊良胡崎」という土地を媒介として結びつくのである。
「鷹一ッ」というのは、空を一羽飛翔しているというだけのことか、群をはなれて一羽遅れて渡って行く姿を捕らえたのか。私は『炭俵』にある
秋の空尾上の杉に離れたり 其角
おくれて一羽海わたる鷹 孤屋
の附合を思い出すのである。このとき孤屋には、あるいは芭蕉の句が頭にあったのかも知れない。芭蕉の句は、冬も半ばであるから、渡り残った鷹かも知れないが、少くとも芭蕉の主観においては、群におくれて取り残された鷹の孤影が映っていたのではないか。仲間を離れ、世外に追放された杜國の姿は、そのようなものとしての「鷹一ッ」に象徴されているのではないか。姿も立派て、心情も美しく高貴なものの、主観的には「罪なくして配所の月を見る」という運命を甘受しなければならなかった姿が、「鷹一ッ」なのである。「うれし」とは、悲しみのこもった「うれし」である。極端な比喩を持ってくれば、鬼界ヶ島に俊寛を見出したときの、有王のうれしさである。
十六日に、芭蕉は名古屋の知足亭に歸ってきた。その日さっそく表六句の俳諧である。
芭蕉翁、もと見し人を訪い、三河國に越へ、序おもしろければ、伊良古崎見んと、白浪よする渚をつたい、からうじて歸給ひし旅の哀を聞て
焼飯や伊良古の雪にくずれけん 知足(千鳥掛)
砂さむかりし我あしの跡 芭蕉
松をぬく力に君が子日して 越人
いつか烏帽子の脱る春風 足
眠るやら馬のあるかぬ暖かさ 蕉
曇をかくす朧夜の月 人
伊良古に焼飯を携帯したとの話を耳にとめての知足の發句であろう。十八日には、荷兮・野水が訪ねて来て、また俳諧四句があった。
寂照翁知足子の許へ、はせを翁を尋來て
幾落葉それほど袖もほころびず 荷兮(同)
旅寝の霜を見するあかヾり 芭蕉
今朝の月替ゆる小荷駄に鞭當て 知足
里の踊に野菊折ける 野水
伊良古旅行の座談のはずみは、ここでもまだ、發句・脇句に響いている。

歌川広重 東海道五十三次下巻
発行所 読売新聞


芭蕉③ ー愛知県の地図で辿るー星崎

2018-07-07 11:06:43 | 言の葉綴り
言の葉 58 芭蕉 ③
ー愛知県の地図で辿るー 星崎

芭蕉 その鑑賞と批評(全)
山本健吉著 発行所 (株)新潮社 昭和32年8月25日発行より抜粋



『笈の小文』 東海道の部

星崎の闇を見よとや啼千鳥
(笈の小文)

愛知県地図 発行所旺文社
名古屋市南区星崎町、星崎1丁目2丁目





歌川広重 東海道五十三次下巻
発行所 読売新聞





紀行には「鳴海にとまりて」と詞書がある。十一月七日、寺島嘉右衛門安信宅で俳諧を興行した。芭蕉が四日に鳴海知足亭に着いてから、五日・六日・七日と、毎日歌仙をまいている。これは七吟の歌仙で、初めの方は次の通りである。
星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉(千鳥掛)
船 調 ふ る 蜑 の 埋 火 安信
築山のなだれに梅を植えかけて 自笑
あそぶ子猫の春に逢いつゝ 知足
鷽の聲夜を待月のほのか也 菐言
岡のこなたの野邊青き風 如風
ゥ一 里の雲母ながるゝ川上に 里辰
この六人が鳴海の六俳人と言われる連衆である。このうち安信は、鳴海本陣の寺島氏(菐言)の分家で、根古屋を家號とし、彼の家からの眺望は芭蕉を喜ばせたらしい。この句も眺望の句であり、それが同時に挨拶の意を含むものとなっている。『泊船集』に「星崎や闇を見よとて、ともきこえぬ」と附記してあるのは、初案の形かも知れない。なおこの前々日、寺島菐言宅での歌仙に、
京まではまだなかぞらや雪の雲 芭蕉
千鳥しばらく此の海の月 菐言
とあることも附記して置こう。
『皺筥物語』(元禄ハ年、東藤撰)や稿本「如行子」(貞享四年、如行撰)には、「寐覺は松風の里、呼續は夜明けてから、笠寺は雪のふる日」と詞書があり、松風の里・呼續・笠寺・星崎は、すべて鳴海附近の地名である。地名に引っかけながら、その地の特殊な情趣を擧げて行ったのであって、おそらく連衆のあいだでの座談に出た俳諧なのであろう。詞書からすぐ續けて、星崎は星さえ見えない闇の夜がよいと言ったのである。
露伴は「昔時此處に星落ちて石と化すとも云ひ、熱田の神を近き邊に祠りけるに天の七星光を放ちて降りしとも云ふ。これは落星湾の故事を附会せるものなれど、此事にもとづきて星崎の闇と興じ、闇といひて見よと云へるところ、俳諧の小技のみ」(評釋曠野)と言っている。「俳諧の小技」とまでは思わないが「星崎」の地名にまつわる言い傳えを知って置くことはいい。なぜなら、この句は地名を詠みこんだ効果を発揮しているからである。だが、この傳説に基づいたというより、おそらくこの傳説をも耳にしたということが、地名に對する芭蕉の興趣のわかしかたに、微妙に滲透していると言った方がよいのではないか。芭蕉が句に地名を詠みこむときは、單なる固有名詞としてではなく、そこにまつわる歴史や傳承に對する囘想を伴なっているのが常である。これは彼の國土への深い愛情を物語るとともに、言葉のニュアンスの複合的要素に對する敏感さをも證明するものである。堂上歌人の歌枕に對する紋切型の反應と對照的であり、歌枕に對する新しい態度の確立と言ってもよい。
宴遊に際しての主客の應對が、嘱目吟の発想を導き出し、叙景詩を洗練させて来たのは、萬葉以前からの長い傳統である。この當日は闇夜であり、海を見はらす佳景があいにく見えないことを客のために惜しむ主人に對して、闇夜の千鳥を詠みこんで、かえって慰めているような趣きがある。闇夜の千鳥だから、もちろん姿は見えないのであって、闇の中に啼く聲だけが實體あるものとして捉えられるのである。「海暮れて鴨の聲ほのかに白し」にやや似て、その句の純粋に感覺的な把握に對し、これは「闇を見よとや」という主情的な把握によって、句の情趣と曲節とを加えている。「星崎の」でいったん小休止を置いて、「見よとや」には休止を置かず、つづけ気味に讀み下した方が、俳句の味わい方としては自然である。初案と思われる形は「星崎や」であって、星崎の地名を前面に強く押し出しているが、この形だと中心の重みは「千鳥」にではなく、「星崎」にかかってくる。「星崎の」の場合は、それが「千鳥」にかかってくるのである。「星崎や」は、強く場所を指示する語勢があり、「星崎の」は、地名を發想として流れ出すような気味がある。また、「闇を見よとて啼く千鳥」は、「とて」に理知的なはからいが這入って来る上に、音調的にも音の連續がわずらわしく、「闇を見よとや啼く千鳥」に及ばない。「とや」はあらわな斷定を避け、疑問を含みながら、より自然に結句につながることによって、千鳥の情趣に、より深く滲透していると言えそうである。そしてその兩者の相違は、「星崎の」と「星崎や」という、冠の出方のごく些細なテニヲハの相違から導き出されたものだ。
はじめに「星崎や」と置いたのは、古来の千鳥の短歌が、きまったように「佐保川」「淡海の海」「賀茂川」「淡路島(または須磨)」「鳴海潟」などの歌枕と結びつけて詠まれるという意識が、暗々裡に芭蕉の心に働きかけた結果ではなかろうか。「淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしぬに古おもほゆ」(柿本人麿)「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪やむときもなし吾が戀ふらくに」(大伴坂上娘女)その他『萬葉集』に多いし、また「千鳥鳴く佐保の川霧たちぬらし山の木の葉も色勝りゆく」(古今集、壬生忠岑)「明けぬなり賀茂の河瀬に千鳥なくけふもはかなく暮れんとすらん」(後拾遺集、圓松法師)「淡路島かよふ千鳥のなく聲にいく夜ねざめぬ須磨の関守」(金葉集、源兼昌)「浦人の日も夕ぐれのなるみがた返る袖より千鳥鳴くなり」(新古今集、権大納言通光)など、任意に擧げてみたが、中には名歌として人口に膾炙したものもある。名歌が作られたことが、その土地を千鳥の名所とするのであるが、ここでは「鳴海潟」の縁から「星崎」を押し出そうとした意識が「星崎や」という初五を置かしめたのではないか。それは挨拶の気持の余勢と言ってもよいが、改案ではそのような競いがうち消されて、内部的に沈潜されてくる。千鳥の啼聲を賞することが、そのまま星崎の闇夜を賞することになるのである。そして私的なはからいをうち消した改案の方が、千鳥の啼聲そのものを、ぽっかりと闇のなかに浮き立たせてくるのだ。
千鳥の啼聲は種類によって違うが、可憐な聲で啼き、一種の哀韻を以って聞かれること同じである。『千鳥』という狂言では、太郎冠者が千鳥の啼聲をまねて、「ちりちりやちりちり」と言いながら、酒を盗む。千鳥には侯鳥(メダイチドリ・ダイゼン・ムナグロ)と留鳥(シロチドリ・コチドリ・イカルチドリ)とあって、必ずしも冬にかぎったわけではない。前掲の忠岑の歌を、『古今集』では秋の部に入れているが、『拾遺集』では紀友則の「夕されば佐保の川原の河霧に友まどわせる千鳥鳴くなり」が冬の部に這入っていて、このころから千鳥が冬の季感を持ってきたらしい。或いは「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」(拾遺集、紀貫之)あたりが名歌として喧傳され、決定的な影響力を持ったのかも知れない。啼聲の哀韻が、冬の季感に相應しいと感じたのであろうか。この芭蕉の句の千鳥は、どういう種類の千鳥か分からないが、シロチドリその他の留鳥の千鳥は、河原や湖畔に多いし、これは海邊の句だから、やはりムナグロその他の侯鳥の千鳥であろうか。山谷春潮の『野鳥歳時記』によれば、チュリイ、チュリイ(ムナグロ・ピューイウ(ダイゼン)・ピューイ(メダイチドリ)であり、狂言の『千鳥』で太郎冠者がまねした啼聲は、どうもムナグロのようだ。
芭蕉はこの聲の哀韻を、それだけを純粋に捕らえることに、興趣を覺えたのであろう。後に芭蕉は、「闇の夜や巣をまどはしてなく鵆」(猿蓑、春の部)とも作っている。「巣をまどはして」は、明らかに友則の「河霧に友まどわせる」から来ている。芭蕉の句は、どちらも夜霧のたちこめた景色である。そして星崎の發句の、黒一色の遠景に對して、安信の脇句は、濱邊の近景に漁夫の動きを捉えて付けたのである。

歌川広重 東海道五十三次下巻
発行所 読売新聞





愛知県地図 発行所 旺文社
鳴海(現在の名古屋市緑区の内 有松地区、桶狭間地区、大高地区を除く範囲に相当)。旧東海道は現222号線