言の葉51 西行論④
ー僧形論ー その3
西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋
僧形論4より抜粋
西行は、鳥羽院周辺の出世間には、はじめから理解されるのを諦めている。出家の評判と身分のことだけ云っておけばよいといった按配である。
中略
もともと人間は、あらたまった動機がなければ、あらたまった挙に出ないものだろうか。こう問い直してみると、 ひとつだけはっきりしてくることがある。西行は、たぶん、出家直前に、ひとつの岐路にたたされていた。それは、いってみれば、武門としてこのまま合戦のなかにまみれてゆく道を選ぶか、出家遁世によって時代の浄土思想にさきがけるかということであった。保元の乱は、もう数十年のあとに迫っていたとすれば、在俗しているかぎり鳥羽院の近衛として合戦に、少数の下士をもった一武将として参加することになるのは必定であった。このばあい、確実に、西行(左衛門尉憲清)の視野のとどくところで、西行に衝撃をあたえたとおもわれることが、二つくらいかんがえられる。ひとつは、鳥羽院が、中宮待賢門院璋子の反感をおしきって入内させた美福門院得子に、皇子(躰仁)を生せたのが、保延五年であり、生れるとすぐこの皇子を立太子させた。これは待賢門院に生せた皇子(顕仁)の存在を、まったく無視したことを意味した。西行が出家したのは、翌保延六年である。これから逆に因果をたどれば、美福門院の生んだ皇子を、すぐに立太子させた鳥羽院の遣り口は、西行におおきな衝撃をあたえたと推定してよい。なぜなら、この挙は、崇徳天皇(すなわち顕仁)、その母、待賢門院と、鳥羽、美福門院側との決裂を意味したからだ。側近の貴族や武士団の対立もふまえていえば、鳥羽院のこの挙は、やがて合戦への導火線になりるものだった。鳥羽院の近衛だった西行にはこれはすぐに洞察できるほど、生々しく実感をそそった。鳥羽院には云い分があった。中宮として、待賢門院が生んだ鳥羽院の皇子(顕仁、のちの崇徳天皇)は、じつは白河院が、養女として育てた待賢門院に生せた子だということは、公然の秘密として院政側近のあいだで囁かれていた。鳥羽院としてみれば、この怨恨を晴らす第一の機会だったことになる。
もうひとつ、西行の出家に影響をあたえたとおもわれることがある。鳥羽院の近衛のうち平忠盛とその子清盛の一族が、とび抜けた勢力をもつようになった。この一族はたびたびの西海の反乱を鎮圧にでかけ、その過程で、在地の武士団を統合して、財力と軍事力を養い、北面の武士団から独立して、全国的な武門勢力を形成しながら鳥羽院の側近に編成されるようになった。このことは、名門の武士たちから択りすぐられた北面武士たちの、中級エリート的な存在と意識とをうちくだいてしまった。朝廷や院の側近に択ばれた名門という意識よりも、さらに進んだところで、軍事力をたくわえて、権力を左右しうるものという意識が、鳥羽院側近の武士団に芽生えつつあった。鋭敏だった西行が、こういう武門勢力の微妙な意識の変化を、察知できなかったとはおもわれない。ここでも、西行は、じぶんの行くべき道が、内面の英雄である出家遁世のほかにないと、思い知らなかったろうか。
西行は、鳥羽院の近衛だったから「鳥羽院に出家のいとま」を申したかも知れないが、出家後、むしろ崇徳院や待賢門院らに同情をよせている。それにはもうひとつ理由があって、鳥羽院の遣り口に嫌悪を感じたからだった。西行が「出家のいとま」を申した翌年、永治元年に、鳥羽院は、崇徳天皇をだまして譲位させ、美福門院生れの幼児(躰仁)を天皇いに就けた。近衛天皇である。そして、じぶんは、ひきつづいて上皇として院政をしいた。鳥羽院のだまし方は、女の恨みかどうか知らないが、悪どいものだった。崇徳天皇には、〈美福門院生れの躰仁をあなたの子ということにして譲位すれば、あなたが院政をしくことができるだろうから〉といって譲位させながら、譲位の宣命には、子ではなく弟と記すように画策して、崇徳が、上皇として院政をしく機会を奪ってしまった。
中略
出家遁世を遂げてみたが、西行には、かくべつ異った生活がおとずれたわけではなかった。ただ、かれが内向する時代の浄土思想を択び、合戦の渦中に巻き込まれる必然を、回避したことは確かだった。わたしは、西行が出家前に想像していた出家後の生活と、出家後に体験した生活とに、どんな食いちがいを感じたのか、感じなかったのかに、関心をそそられる。
『一言芳談』に、敬日上人の遁世の口伝というのがある。
敬日上人が云った。「遁世には三つの口伝がある。一つには同宿、二つには同体である遁世者たちが庵をならべた所には住んではいけない。三つには遁世したからと云って、日来の有様を仰々しく改めるべきでない、と云々」
西行は、たぶん、まったくこの逆のことを出家の直後にやっていた。
日本古典文學体系
山家集・金槐和歌集 岩波書店
一四一五 ひときれはみやこをすてゝいづれども めぐりはてはなをきそのかけはし
一四一六 すてたれどかくれてすまぬ人なれば 猶よにあるににたる成りけり
一四一七 世中をすてゝすてえぬこゝちして みやこはなれぬ我み成りけり
一四一八 すてしをりのこゝろをさらにあらためて みるよの人に別はてなん
一四一九 おもえこゝろひとのあらばや世にもはぢむ さりとてやはといさむばかりぞ
一四ニ〇 くれ竹のふしゝげからぬよなりせば この君はとてさしいでなまし
一四ニ一 あしよしをおもひわくこそくるしけれ たゞ、あらざればあられけるみを
(『山家集』下・雑)
西行は出家直後に、都を離れ得ないことに、しきりにこだわっている。鬱屈しているといってもよい。なぜだろうか。たぶん、出家してみて、じぶんがそれまでいた鳥羽院周辺がよく視えてきたのである。西行出家の前年、生れるとすぐ立太子になった鳥羽院の中宮美福門院の子(躰仁)は、かれが、出家した翌年には、帝位について、近衛天皇になった。鳥羽院の策略であった。西行は、当然、譲位した崇徳帝が上皇となって院政をしき、その母、待賢門院が日のあたるところに出るものとかんがえたに相違ない。だが、謀られた崇徳帝はしりぞけられ、ひきつづき鳥羽院が上皇 として院政をとった。ここまで都を離れずにみていると、西行にはすべてがわかってきたにちがいない。〈呉竹の節のように眼まぐるしく転変する時代でなかったら、じぶんはこの君(崇徳帝)はということで仕えたくらいだ〉という六番目の歌と、〈善悪に鋭敏に反応し、かぎわけるじぶんの倫理的な資質が苦しい、そんなことにかかずらわなくともすむはずの境涯なのに〉という七番目の歌は、そういう西行の胸の裏を語っているようにみえる。かれは出家してみて、はじめて、権力の渦巻く陰謀が視えるところに立った。これは出家前にかんがえもしなかったことで、はじめて、改めてじぶんが何に、誰に訣別すべきかを知ったといえる。武門をすて、権力の側近をはなれたにもかかわらず、ともすれば、こんどよく判ったところで西行は、騒乱の一方に加担したくなるような思いで、都を離れ得なかったのかもしれない。〈心よ、思いみよ、もしこういうわたしを叱責する資格がある人がいるというなら、世にも恥もしよう、けれどそんな人はいない、心をとりなおして、出家遁世の思想に、まっしぐらにつき進むばかりだ〉
日本古典文學体系
山家集・金槐和歌集 岩波書店
頭注
ー僧形論ー その3
西行論 著者吉本隆明 発行所(株)講談社 1990年2月10日発行
より抜粋
僧形論4より抜粋
西行は、鳥羽院周辺の出世間には、はじめから理解されるのを諦めている。出家の評判と身分のことだけ云っておけばよいといった按配である。
中略
もともと人間は、あらたまった動機がなければ、あらたまった挙に出ないものだろうか。こう問い直してみると、 ひとつだけはっきりしてくることがある。西行は、たぶん、出家直前に、ひとつの岐路にたたされていた。それは、いってみれば、武門としてこのまま合戦のなかにまみれてゆく道を選ぶか、出家遁世によって時代の浄土思想にさきがけるかということであった。保元の乱は、もう数十年のあとに迫っていたとすれば、在俗しているかぎり鳥羽院の近衛として合戦に、少数の下士をもった一武将として参加することになるのは必定であった。このばあい、確実に、西行(左衛門尉憲清)の視野のとどくところで、西行に衝撃をあたえたとおもわれることが、二つくらいかんがえられる。ひとつは、鳥羽院が、中宮待賢門院璋子の反感をおしきって入内させた美福門院得子に、皇子(躰仁)を生せたのが、保延五年であり、生れるとすぐこの皇子を立太子させた。これは待賢門院に生せた皇子(顕仁)の存在を、まったく無視したことを意味した。西行が出家したのは、翌保延六年である。これから逆に因果をたどれば、美福門院の生んだ皇子を、すぐに立太子させた鳥羽院の遣り口は、西行におおきな衝撃をあたえたと推定してよい。なぜなら、この挙は、崇徳天皇(すなわち顕仁)、その母、待賢門院と、鳥羽、美福門院側との決裂を意味したからだ。側近の貴族や武士団の対立もふまえていえば、鳥羽院のこの挙は、やがて合戦への導火線になりるものだった。鳥羽院の近衛だった西行にはこれはすぐに洞察できるほど、生々しく実感をそそった。鳥羽院には云い分があった。中宮として、待賢門院が生んだ鳥羽院の皇子(顕仁、のちの崇徳天皇)は、じつは白河院が、養女として育てた待賢門院に生せた子だということは、公然の秘密として院政側近のあいだで囁かれていた。鳥羽院としてみれば、この怨恨を晴らす第一の機会だったことになる。
もうひとつ、西行の出家に影響をあたえたとおもわれることがある。鳥羽院の近衛のうち平忠盛とその子清盛の一族が、とび抜けた勢力をもつようになった。この一族はたびたびの西海の反乱を鎮圧にでかけ、その過程で、在地の武士団を統合して、財力と軍事力を養い、北面の武士団から独立して、全国的な武門勢力を形成しながら鳥羽院の側近に編成されるようになった。このことは、名門の武士たちから択りすぐられた北面武士たちの、中級エリート的な存在と意識とをうちくだいてしまった。朝廷や院の側近に択ばれた名門という意識よりも、さらに進んだところで、軍事力をたくわえて、権力を左右しうるものという意識が、鳥羽院側近の武士団に芽生えつつあった。鋭敏だった西行が、こういう武門勢力の微妙な意識の変化を、察知できなかったとはおもわれない。ここでも、西行は、じぶんの行くべき道が、内面の英雄である出家遁世のほかにないと、思い知らなかったろうか。
西行は、鳥羽院の近衛だったから「鳥羽院に出家のいとま」を申したかも知れないが、出家後、むしろ崇徳院や待賢門院らに同情をよせている。それにはもうひとつ理由があって、鳥羽院の遣り口に嫌悪を感じたからだった。西行が「出家のいとま」を申した翌年、永治元年に、鳥羽院は、崇徳天皇をだまして譲位させ、美福門院生れの幼児(躰仁)を天皇いに就けた。近衛天皇である。そして、じぶんは、ひきつづいて上皇として院政をしいた。鳥羽院のだまし方は、女の恨みかどうか知らないが、悪どいものだった。崇徳天皇には、〈美福門院生れの躰仁をあなたの子ということにして譲位すれば、あなたが院政をしくことができるだろうから〉といって譲位させながら、譲位の宣命には、子ではなく弟と記すように画策して、崇徳が、上皇として院政をしく機会を奪ってしまった。
中略
出家遁世を遂げてみたが、西行には、かくべつ異った生活がおとずれたわけではなかった。ただ、かれが内向する時代の浄土思想を択び、合戦の渦中に巻き込まれる必然を、回避したことは確かだった。わたしは、西行が出家前に想像していた出家後の生活と、出家後に体験した生活とに、どんな食いちがいを感じたのか、感じなかったのかに、関心をそそられる。
『一言芳談』に、敬日上人の遁世の口伝というのがある。
敬日上人が云った。「遁世には三つの口伝がある。一つには同宿、二つには同体である遁世者たちが庵をならべた所には住んではいけない。三つには遁世したからと云って、日来の有様を仰々しく改めるべきでない、と云々」
西行は、たぶん、まったくこの逆のことを出家の直後にやっていた。
日本古典文學体系
山家集・金槐和歌集 岩波書店
一四一五 ひときれはみやこをすてゝいづれども めぐりはてはなをきそのかけはし
一四一六 すてたれどかくれてすまぬ人なれば 猶よにあるににたる成りけり
一四一七 世中をすてゝすてえぬこゝちして みやこはなれぬ我み成りけり
一四一八 すてしをりのこゝろをさらにあらためて みるよの人に別はてなん
一四一九 おもえこゝろひとのあらばや世にもはぢむ さりとてやはといさむばかりぞ
一四ニ〇 くれ竹のふしゝげからぬよなりせば この君はとてさしいでなまし
一四ニ一 あしよしをおもひわくこそくるしけれ たゞ、あらざればあられけるみを
(『山家集』下・雑)
西行は出家直後に、都を離れ得ないことに、しきりにこだわっている。鬱屈しているといってもよい。なぜだろうか。たぶん、出家してみて、じぶんがそれまでいた鳥羽院周辺がよく視えてきたのである。西行出家の前年、生れるとすぐ立太子になった鳥羽院の中宮美福門院の子(躰仁)は、かれが、出家した翌年には、帝位について、近衛天皇になった。鳥羽院の策略であった。西行は、当然、譲位した崇徳帝が上皇となって院政をしき、その母、待賢門院が日のあたるところに出るものとかんがえたに相違ない。だが、謀られた崇徳帝はしりぞけられ、ひきつづき鳥羽院が上皇 として院政をとった。ここまで都を離れずにみていると、西行にはすべてがわかってきたにちがいない。〈呉竹の節のように眼まぐるしく転変する時代でなかったら、じぶんはこの君(崇徳帝)はということで仕えたくらいだ〉という六番目の歌と、〈善悪に鋭敏に反応し、かぎわけるじぶんの倫理的な資質が苦しい、そんなことにかかずらわなくともすむはずの境涯なのに〉という七番目の歌は、そういう西行の胸の裏を語っているようにみえる。かれは出家してみて、はじめて、権力の渦巻く陰謀が視えるところに立った。これは出家前にかんがえもしなかったことで、はじめて、改めてじぶんが何に、誰に訣別すべきかを知ったといえる。武門をすて、権力の側近をはなれたにもかかわらず、ともすれば、こんどよく判ったところで西行は、騒乱の一方に加担したくなるような思いで、都を離れ得なかったのかもしれない。〈心よ、思いみよ、もしこういうわたしを叱責する資格がある人がいるというなら、世にも恥もしよう、けれどそんな人はいない、心をとりなおして、出家遁世の思想に、まっしぐらにつき進むばかりだ〉
日本古典文學体系
山家集・金槐和歌集 岩波書店
頭注